水とエネルギー “水”
何年か前、化学者である高校時代からの友人がワシントン州立大学へ客員教授として赴任の途次、LAに立ち寄ってくれた。UCLA Extensionで会計学の勉強をしていた私は、友人に、UCLAの化学研究室を外からだけでも見てもらおうと、WestwoodのCampusに案内した。連れ立ってキャンパスを歩いていた私は、その時、はじめて、そこにある噴水に気がついた。その噴水は普通の噴水とは違っていた。私が見慣れてきた噴水は、どれも水が中央から出て、外に向かって流れ落ちていくものであった。この噴水は、そうではなく、外周から水が出て、砂利敷きのような内円を滑り流れて、中央の円空のなかに落ちていくものであった。一目で、私はアッと驚き、見れば見るほどすばらしいと気に入って、これは精神集中に最適だと考えていた。そして、周りを良く見ると、この噴水の外周の石の上に、二人の女性が坐って、瞑想しているではないか。なるほど、これは座禅に特に向いているかもしれないと私はその時、感じた。この噴水には名前がついていた。インヴァーチッド・ファウンチン(Inverted Fountain)である。通常とは逆であり、遠心的なものとは反対に、いわば、求心的ともいえるこの噴水にふさわしい名前であると思った。そして、その時、私は、ふだん特に意識して感じなかった“水の流れ”のもつ“エネルギー”をハッキリ感じたように思った。
外に向かって流れるか、内に向かって流れるだけの違いであるのに、私は、その時、精神の集中を左右するような大きなエネルギーの差を感じていた。後で考えてみると、ここには、水の流れが持つエネルギーと、同時に、求心的な形が生み出すマンダラ的効果が働いていたようだ。東洋思想の真髄としてのマンダラについては、カール・ユングが深い関心を示し、その深層心理学的な分析は、私たちに興味深い解釈を示唆している。ここでは、マンダラについて述べるのが目的ではないので、以下、省略する。
さて、水の持つエネルギーということを特に感じさせる体験は、私が寝付こうとしているときに、すぐ隣の洗面所で女房が勢いよく水を出して洗面にためようとするときに起こる。チョロチョロと出していれば、どうってことはないが、ドウーっと出しているとき、私は、少し大げさに言えば、自分の肉体が、その水の流れと音とが生み出す緊張で、硬直してしまい、心臓までが縮み上がったような状態になってしまう。水が止まると、やっと、ホッとして、リラックスするという始末である。昼間活動しているときには、さほど感じないこの現象を私は興味あるものと思っていた。そして、この激しい水の流れが、まるで、自分のエネルギーを吸収していくような印象を味わうたびに、水の流れの近くで寝ることに対する疑問を感じ、同時に、祇園歌人吉井勇の有名な歌“かにかくに 祇園は恋し 寝るときも 枕の下を 水が流るる”を想い出していた。
京都、先斗町界隈の生活を楽しんだ耽美的歌人吉井勇のこの歌は、吉井の生活史が現れているという意味でも、代表的な名歌だと思われるが、今、私が気になるのは、この“枕の下を水が”流れる現象である。川沿いの旅館でとまった経験がある私は、昼間、渓流沿いで、すばらしいと思っていたのに、いざ寝付こうとすると、川の流れが耳について、なかなか眠れなかった思い出をもっている。吉井の場合は先斗町あたりだから、加茂川というより、森鴎外で名高い高瀬川に違いない。そして、この歌自体は、この“枕の下を水が”という表現で祇園界隈の生活ぶりを象徴的に歌い上げて、まさに、この歌を名歌にしたてあげているのだが、実際、毎晩、そうして眠るということであれば、この流れが、その人間に、精神的・肉体的に何らかの影響を残さなかったのであろうかという疑問が生まれてくる。そして、この感じは、私がコリン・ウィルソンの“ミステリーズ”(Colin Wilson “Mysteries”)という本や、その他の本を読むにつれて強くなっていった。
中世以前から、ヨーロッパではDowser(ドウザー)が居て、水を探すことを得意としていた。彼らは、ハシバミの木のV字型の枝を使って、隠れた地下水を掘り当てるのがうまかった。ある場所まで来ると、両手に持った枝が反射的に跳ね上がり、隠れた水のありかを自動的に告げるのである。これは、特に、才能のある人が居て、Dowserと言い、手に持つ道具を Dowsing Rod とか Divining Rod とか、いろいろの名前で呼んでいた。
十九世紀末に英国に心霊現象をまじめに研究する学会が結成されてから、この“水探し術”とも言うべきDowsingも、まじめに研究されるようになった。心霊現象の研究につき物の、ほんものか、インチキかという議論が消え去ったわけではないが、この方は実際すぐ掘ってみれば、検証できることなので、このDowsingが可能だということは、まちがいないと断定できるところまできた。テキサスの砂漠の中などで、放牧や油田業のために、大量の水が必要だというとき、地質学のドクターに探してもらうより、このドウザーの方が、はるかに正確に、簡単に掘り当てるのである。そして、今では、このDowserの技術または能力は、どこにその秘密があるのかを解明する方向に向かっている。
Dowsing Rodは、いわば、電波探知機の拡大機ようなものであり、探知力を持っているのはその人間であるという説がつよく、そして、その探知は肉体のどこそこの部分でなされるという風に研究発表がなされている。そして、この種の能力は、ほとんどすべての人間にあり、訓練すれば、かなり正確な情報にまで高めることができるという。
探究心旺盛な私は、この程度の実験なら、自分でもやれそうだと考えて、針金のハンガー二つを使って、手製の装置を作り、家の中で実際に試してみた。前に二つの針金の棒を平行に突き出して、静かにすすんでいくと、ある場所へ行くに従い、徐々に平行棒が動き始め、ある地点で、完全に交叉してしまう。そして、更にゆっくり歩をすすめていくと、徐々に針金は平行に戻り始める。この程度の実験でも、実際に効果があるとうれしく、私は早速女房にもやらせてみた。そして、そのあと、何人かの我が家への訪問者にもやってもらったところ、人によっては、平行棒が交叉しないで、一直線に広がるケースがあることを発見した。
そして、その間、他のDowsingの本を読み進めていくうちに、やはり人によって、それぞれ反応が全く逆のケースがあることを確認した。その後、私は自分の家の裏庭で試み、更に、犬をパークにつれていったときにも、少し、人の目を気にしながら実験してみた。パークの場合、スプリンクラーが外に出ていても、他のスプリンクラーとのコネクション・パイプがどこを通っているのか、上から見ただけではわからない。私は平行棒を持って、そのスプリンクラーのまわりを一周し、二箇所で反応があるのを確かめて、パイプがどう通っているかを確認した。
専門家になると、この棒の交叉の仕方や、枝のはねぶりから、何メートルの下に、どのくらいの量の水が流れているかをも、かなり正確に当てるそうである。彼らの中には、Map Dowsingといって、地図の上にペンデュラム(水晶の振り子)をもっていくだけで、かなり正確に当てる人が居るそうだ。
さて、このDowsingが可能だという事は、明らかに、水がある種のエネルギーを放射していることであると思える。頑固な科学者の中には、今ある科学の装置で探知できないから、そのようなエネルギーはないと否定的に考える人も居る。事実はどうかは知らないが、私は今の科学のレベル事態、まだ進化の途上にあり、これまでの科学で、地球上の現象のすべてが解明されてしまったとは考えない。科学者は未知な事柄に対しては、オープンでいたいものである。
水が放射するエネルギーを、それが微弱であっても、人間の肉体は、どこかでキャッチしており、それが枝や平行棒を使うと拡大されて、その反応が目に見えるようになるというのが、現に起こっていることであると思う。そして、地下深く隠れた水さえ、そのようなエネルギーを発散しているものならば、逆に、とうとうと流れる水が、人間の持つある種のエネルギーを奪っていくことも大いにありうるのであり、私が寝るときに、激しい水の流れで、心臓を硬直させるということも、科学的に説明しうるのである。
コリン・ウィルソンを読むと、従って、よく納得がいくのである。“どうやら、水は、特に、活発なフィールドをもっているようだ。Dowser達は、病気の多くは、地下水流の上で眠っていることによって引き起こされていると主張しており、彼らはしばしば、ベッドの位置をかえるように忠告する。”“長期間にわたる水の放射にさらされることは、長期間、放射能にさらされるのと同じ程、人体に危険でありうるようだ。”そして、この水が、ある種のエネルギーを放散する“フィールド”は、その“場”のもつエネルギーによって、磁気テープのように、人間の発散する情緒的反応をも記録することが多く、いわゆる、幽霊現象は、こうした“場”において、頻繁に発生するといわれている。
幽霊現象の密度が、最も高いといわれる英国は、湿地が多く、水の“場”のエネルギー理論からすると、当然そうなるということらしい。そして、ストーンヘンジやストーンサークル、ドルメンやメンヒルなどの巨石記念物を建てた古代人たちは、われわれ現代人よりも、はるかによく、この種のエネルギーフィールドを知悉していたようだ。ほとんど、あらゆる巨石記念物は、地下水流が交叉する丁度その場所に、あたかも、パリの凱旋門のように建てられているというのが、1920年代以降、特に、英国で盛んになった、レイ・ハンター Ley Hunter という、地球の持つ場のエネルギーを探求する人々の到達した結論である。古代人たちは、それぞれの地点で、未知の巨大なエネルギーの発散を感じ取り、そこに、彼らの宗教的建造物を設定したというのである。そして、これは、UFO現象ともつながっていくのだが、ここでは、これ以上とりあげない。
水は生命の水といわれ、人間や生物体の七十%以上を占めている。従って、われわれ、人間が、水というエネルギーを共有している限り、丁度、放射能がガイガー計数管で探知されるように、肉体のどこかで、肉体外の水の存在、その発散するエネルギーをキャッチしても、なんら不思議ではなく、将来、そのようなエネルギーをキャッチする装置が開発されることもありうるのである。
水のような単純で、ほとんどわかりきったような存在でさえ、科学的には、厳密に言えば、まだ解明されていないことが多い。心霊現象に対する研究の歴史は、科学を研究する態度についても明らかにし、一見、まともな科学者に見える人が、実は、因習的な偏見にとらわれて、冷静に、客観的に、現象を評価し、分析していないということが暴露されたりした。何でも、単純に信じ込んでしまうのも困りものだが、いろいろな可能性を放棄してしまって、そんなことはありえない、起こりえないと思うのも、同じように、困ったものである。私達は、まず、現象を認め、その原因や理由をまじめに探求していかねばならない。
心霊現象の解釈でユングと折り合いがつかず、決裂してしまうことになったフロイトも、晩年には、現象を認め、生まれ変わることが出来るなら、今度は心霊現象の科学を研究したいといったらしい。
私達は、今すぐ科学的に証明しろといわれても証明しにくいが、直感的に正しいと確信しているようなケースをよく体験するものである。既に、百年になるこの領域の研究が更に進めば、今、証明が難しい現象も証明できるようになるかもしれない。いま、証明できないからといって、直ちに否定してしまうのは、科学的な態度とはいえないであろう。現象の客観的解明をめざして、あくまでも尽力し、軽率な判断をおろさないのが、今、この種の領域の研究において科学者の取るべき態度であろう。古代人も、そんなにすぐ迷信深くなるほどバカだったのではなく、煙の背後には、必ず、火らしきものがあったのである。彼らは自然に密着して生きてきただけに、我々現代人よりも遥かに鋭敏で、遥かによく自然を知っていたのである。
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