寺子屋的教育志向の中から - その31 “蹴上がり”
コツコツと努力 “蹴上がり”
私は卓球とか強歩とか山登りとかが好きであるが、運動神経は特に発達しているほうではない。学校での体育は苦手で、通信簿もたいてい3で、時たま4になる程度であり、手術・入院等で休んだり、見学したりしていた時は、2ももらった。何でも熱中してやるのだが、もともと素質がないのか、成績はいつもよくなかった。こんな私でも、小学校の時にはやったドッジ・ボールだけは別で、これは私はとても強かった。それで、小学5年と6年の時に、小学校の対抗ドッジ・ボール戦が行われた時、二回とも私はその選手に選ばれた。このとき、私は単独プレーで強くても、チーム・ワークが下手なら何にもならないということを身にしみて感じた。私のいた小学校ではチーム・ワークでうまく敵をやっつけるという練習などしたことがなく、二回とも簡単に負けてしまった。コーチも何もなかったせいかもしれないが、なんとも恥ずかしい話しで、その後、私はチーム・ワークということを気にするようになった。
鉄棒遊びには、公園で小さい頃からよくぶら下がったりしていたせいで、わりとよく親しんだ。中学校に入っても、ほとんど毎日、鉄棒遊びはしていたように思う。連続前回りとか連続逆上がりとかをやり、また、みんなでどこまで跳べるかを競い合った。鉄棒は私にとって、もっともなじんだ運動用具であったといえる。
さて、中学三年の時のクラス担任が理科と体育の担当であった。この先生は、私のソロバンの能力を早くから認めてくださった先生で、中一の時には、その先生のクラスの成績計算のお手伝いを暗算で行った記憶がある。
二学期であったか、その時のテストが運動の方では、鉄棒だけだということがわかった時、私はこれは、もしかして通信簿に5をもらうチャンスではないかと思った。鉄棒競技で5種目のテストがあることがわかった。そのうちの4つは、私がそれまでに自由にこなしていたもので、問題はなかった。最後の一つだけが、その時の私にはどうにもならないものであった。
“蹴上がり”である。それでも、テストまでに一ヶ月ほどあるとわかり、私はこの自分の難問ととりくむことにした。それ以来、朝の授業開始前、昼休みの時間、放課後のしばらくと、私は何度この“蹴上がり”を試みた事であろう。多分、コツがわかるまでは、空しい努力を積み重ねるしかないのだろう。もう少しというところまで行きながら、うまくいかないため、ガッカリすることが続いた。それでも試みる事をやめず、毎日、毎日、根気よく、繰り返しつづけた。そして、もう少しというところまで行きながら、一度も成功しないで、とうとう鉄棒テストの日を迎えた。
その日の朝、私は、あれだけ一生懸命練習したのに、とうとうダメだったかと、少し残念に思いながら、もう一度練習に向かった。そして、“蹴上がり”を試みたところ、ぎこちなかったが、ともかく、一度で、生まれて初めて、蹴上がりに成功したのである。私は信じられない気持ちで、もう一度、同じように試みたところ、今度は前よりもサマになる蹴上がりとなった。私はやっとコツをつかんだのであった。それから、テストの時間までに、立派な“蹴上がり”にもっていくのは、何度か練習するだけでよかった。私は本番のテストで意気揚々と全種目をこなした。私はなによりも、自分に対してうれしかった。あの一ヶ月に渡る黙々とした努力の成果を、自分で評価できる幸運を充分に味わう事ができたのであった。この鉄棒テストで全種目やりこなせた人は、私を入れて三人ほどしかいなかったから、私はもしかして、通信簿は5かもしれないと思ったりしたが、結果は4であった。私にとっては、そんなことは、どうでもよかった。通信簿5は、運動能力の優れた人に残しておかねばならないのだと自分で納得した。
何よりもうれしかったのは、自分で一つの壁を破る方法を発見した事であった。ある一つの目的に向かって、あせらず、根気よく、地道に、コツコツと努力する事、そうすれば、必ず何かに到達する事ができるという、私の方法的な信念と自信が、この“蹴上がり”によって確立されたのであった。
この同じ姿勢が、高校国語の学習にも適応でき、私は努力の末、国語学習の方法を身につけ、自信を持って国語に向かえるようになった。古文の文法的解読が私の国語力の土台となった。同様の方法が、英語の学習にも適用された。私は担任の国語教師と一緒に帰途についたときに、みんな英語の成績が悪いがどうしてだろうと質問されたので、自分を振り返ってみて、きっと英語の“単語”がよくわかっていないからでしょうと返答した。当時、学年主任をしておられたその恩師が、わたしの意見を確かめるため、ある時、自身で、私のいるクラスで英単語のテストを実施された。十個の単語の意味を書くという単純なものであったが、結果は、私が言った事が確認されたのであった。私と誰かは九の最高点を取ったが、あとは、みな沢山まちがったのである。高校2年の秋のことであり、しかも、このクラスは優秀クラスとかといわれて、理科系の成績上位者を集めたクラスであったのである。
単語力の不足が確認されて、学校側として、英単語と取り組む事になった。つまり、単語帳と単語テストを提供している業者があり、そこが採点もしてくれるので、それを使用しようということになった。その単語帳は、それぞれの単語を暗記しやすいように系統的に分類してあるものであり、第一回は何頁までということがわかっているので、取り組みやすいものであった。ところが、私の意見でこんなことになったのかどうかは確かでないが、私自身はこの英語単語テストの話しが始まる一、二ヶ月前から、英単語の学習に熱心に取り組み始めていた。私は自分の気に入った“英単語一万語”の載ったテキストと、毎日、三十分取り組む事にしていた。アルファベット順に英単語を書き抜き、その意味を書き、その横に何度か英単語を繰り返して書くという単調な作業であるが、ともかく、私は辞書一冊を終える決心をしたので、中途で挫折したくなかった。毎日、どんなことがあっても、この一見、空しい単語に取り組む作業を繰り返した。効果は未定であった。ともかく、私は自分で、なんとか単語力を増やさねばどうにもならないと確信したのである。そのようにして、私自身が孤独な英単語学習作業に取り掛かっているときに、別な単語帳を使った単語テストが毎週実施されることになったのであった。
私はあまり真剣に取り組めなかった。自分の作業の方が大切であった。テスト用のテキストは、テスト前に一回だけさらっと見るだけにした。結果は予期したようであった。殆どの人が百点をとっていたので、九十点ほどの私は、ほとんどビリに近かった。しかし、私は平気であった。“結構だ、皆さん、大いにしっかり勉強してください、君達はソレダケをやっているのだから。”と思っていた。いつも同じような結果になった。私にとって、よく勉強して、百点をとることなど簡単な事であったが、今、自分がコツコツと続けている自分自身の課題をおっぽり出して、ヤル気はない。そのうちにわかる時がくるであろう。私にとっては、私のシステムの方が、学校から与えられたものよりも大切であったし、それ程、自分のやっている事にたいして自信があった。
そのうちに、何ヶ月かかかって、私はやっと辞書一冊を全部仕上げてしまった。一万語全部覚えたとは言えないが、七、八千は覚えたはずであった。単語のテストは、約一年の間、ほとんど、毎週のようにあったが、私は百点をとらず、いつも九十点くらいのところにいた。ところが、初めは調子が良かった他の連中の多くは、そのうちに新鮮さを失くしてきたのであろう、或は、どうでもよいと思うようになったに違いない。高校三年の二学期の終りの頃、私は自分は九十点なのに、他の人は五十点、六十点で、いつのまにか、英単語でほとんどトップクラスにいるのを発見した。
ある時、返してもらった答案と成績をのぞきみたクラスメートの一人が、私がそのような成績をとっているのを知って、どれだけ勉強したのかと私にたずねた。私は、正直に、サーっと一時間ほど見ただけだと答えた。事実であり、順番に一つ一つ見ていくだけで、それくらいはかかるのであった。ここで、私は、いつも、このときのことを思い出すたびに、大失敗をしたと思う。そのクラスメートは、きっと、私のその話しを聞いて、自分とはくらべものにならない非常な秀才だと思ったに違いないと思う。私だって、もし、誰かが、一回、さっと見ただけで、ほとんど全部覚えてしまうなどと聞いたら、特別な頭脳を持った秀才だと思い、自分と比べてガッカリするだろう。私は本当の事を言ったのだが、私はその背後にあった事を告げ忘れたのであった。
私にとって、一回さっと単語を見るということは、はじめて見て覚えるという作業なのではなくて、もう既に覚えてあるはずの単語の意味を再確認し、記憶を新たにするだけのことであった。つまり、私は、彼に、一日三十分の何ヶ月にも渡る単語学習という忍耐の要る地味な努力を私はやりとげたのだということを語り忘れたのであった。ほとんど、いつも九十点をとるという操作が一見、何の苦労もなしに行われた背後には、高校二年のときの膨大な努力の集積があったのである。目に見えない努力も、根気よく集積されれば、必ず、意味のあるものになるという私の信念は、この英単語の学習においても証明されたのであった。いつのまにか、私にかなりの英語力がつき、ジョージ・オーウエルの“アニマル・ファーム”(Animal
Farm)や へミングウエーの“老人と海”(The Old Man and the Sea)などを愛読するようになっていた。
ソロバンの思い出、蹴上がりの思い出、英単語学習の思い出と、それぞれを振り返ってみると、私は自分の特性といったものがよくわかる。私の周りの友人達をみなおしてみても、中にはきわめて天才的なともいえる秀才がいたが、たいていの人は非常な努力家であった。私も努力という点では、ほとんど誰にも負けないだけの自信がある。そして、これだけは、自分でやり抜いたという実感なしには、自信が持てないものである。学習において最も大切なもの、それは自信を持って、あせらずに、コツコツと、マイペースで努力をしていく態度であり、姿勢である。“一念通天”(一念、天に通ず)とも、“念力岩を透す”ともいわれてきたが、全く本当である。堅実な努力は、必ず、堅固な実を結ぶ。努力なくしては、何事も成就せず、努力なくして得られたものは、たちまちのうちに失くしてしまう。そして、若いときの苦労は何よりも大切である。なぜなら、それは、成長期にあたり、自分自身の形成期において何よりも大切な“自信”の確立と密接につながっているからである。
私は時折、ソロバン学校の事を思い起こし、また、この“蹴上がり”の思い出を思い起こす。どれも私に心地よい記憶であり、私のエネルギーの源泉ともなっている。何かで挫折しそうになったりする時、私は自分の過去を振り返る。そうすると、ただ、黙々と努力を続けてきた私の過去が蘇ってくる。そして、それに勇気を得て、また、私は新たな意欲で取り組む。
私のすぐれた友人達もみな非常な努力家であった。私は人類は大きく分けて、安易な道を択ぶ人と、コツコツ努力する人の二組にわけることができると思う。そして、私は好き嫌いと関係なく、コツコツと努力していくタイプである。“それだけでなく、艱難(かんなん)をも喜んでいる。なぜなら、艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す事を知っているからである。そして、’希望は失望に終わる事はない。”(ロマ書、新約聖書)。意志あるところ道ありとか。人類の歴史は膨大な苦労と努力の歴史である。
(完 記1986年1月19日) 村田茂太郎
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