福沢諭吉 (ふくざわ ゆきち)をめぐって
勝海舟が咸臨丸の艦長であったのに対し、咸臨丸に付き人として乗り組んだ一人に福沢諭吉がいた。福沢諭吉の人生もまた充実したみごとなものであって、その人生を“福翁自伝”という自叙伝にあらわしたが、これは自伝文学の傑作であって、江戸幕府の滅亡と黒舟による開国という大動乱期を、一人の頭脳明晰で開明的な知識人が、如何に生きたかを示したもので、ものすごく面白く、いろいろ勉強になる素晴らしい本である。
大分県中津生まれの下級士族の子供が、自分の頭で納得のいくまで考え、実験をし、モーレツに勉学しながら、異常な時勢を、悠然と過ごすまでの、様々の体験は、自伝の中にユーモアをもって描かれ、いつまでもあざやかな印象を残す。
大阪緒方塾(適塾)で蘭学の勉強をし、村田蔵六(のちの大村益次郎)とならんで、トップに立ったが、福沢は世界の動向がオランダ語圏ではなく、英語圏のほうに向かっているといち早くキャッチすると、直ちに英語の勉強に向かう柔軟さをもっていた。ここが、村田蔵六とことなるところであるし、なによりも、後に兵法の大家になる人と、慶応義塾という学校を作る教育者・思想家になる人との違いであった。
普通、福沢諭吉といえば、「天は人の上に人を作らず、人の下にひとをつくらず」と言う言葉をあげて、諭吉の自由平等思想の代表的表現のようにみなしてきたが、もちろん、これは諭吉風の表現になっているが、このアトに、「といへり」と言う言葉が続いているため、実は諭吉は自分なりに引用しているのだということがわかる。では、なにを引用して、あのように訳したのかということで、いろいろな研究家が調べて、結局、Thomas
Jeffersonジェファソンのアメリカ独立宣言の冒頭の文章からに違いないということになった。
いずれにしろ、この有名になりすぎた言葉で始まる「学問ノススメ」やいろいろの本を著して、明治維新で思想が混乱し、どうしていいのかわからない当時の知識人に文明化とその方向を力強く指し示したのであった。日本が世界の文明国の仲間入りするには、どうすればよいのか。それを日々の日常生活の中で実践していく道として諭吉は“独立自尊”を説き、“自立”を説いた。そして、大げさな政治の面ではなく、生活と思想の面で、近代日本の建設に、かけがえのない大きな仕事をしたのであった。大げさな政治ではなく、まじめな思想がいかに社会を動かすかを身を持って示した偉大な人物であった。
1994年6月22日 執筆
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