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11/10/2012

夏目漱石 「三四郎」などを読む


夏目漱石 「三四郎」などを読む

 これは、漱石の「三四郎」などを最近読んだ私の個人的な感想であって、全体的な評論文ではない。

 わたしは漱石のまじめな読者ではないが、やはり、明治期だけでなく、日本近代文学あるいは現代文学まで含めての代表であり、森鴎外と双璧をなす文壇の重鎮であると思ってきた。

 漱石では、高校1年の時、社会科の先生の影響で「こころ」を読み、そのほか、「草枕」や「坊ちゃん」など。そして、高校生の国語を指導していたとき、教科書に「それから」が載っていたので、本を図書からかりだして読んだくらい。そのほかに、「門」。最近になって、「こころ」 を再読し、「三四郎」、「道草」 を読み、「彼岸過迄」を読んだ。(「道草」は、「彼岸過迄」の後の執筆で、たまたま、わたしが先に読んだというだけ。)

 「道草」は円熟した見事な作品である。特に、夫婦の関係を分析的に描出して、自然主義とは異なる境地を描いたと言える。漱石のイギリスから帰国後の家庭的な問題を夫婦の心理描写を通して、みごとに反省的に描きだして、まさに円熟した境地を示している。夫婦の心理的葛藤を小説を流れるメインのテーマととれるが、ストーリーは主人公が幼児期の4年ほど養子に出されたことの、それをめぐる養父からの、立身出世して有名になった主人公にたかってくる、悪く言えば“ゆすり”へ至る、そのやりとりだけがこの話の内容で、上手に展開されているが、まあ、話らしい話とはいえない物足りなさが残る。(漱石は父親からきらわれ、経済的な理由もあって、2歳頃から9歳頃まで養子に出されたようで、随分、苦労したようである。漱石が漱石として大成したのは、もともと非常な秀才であったため、奨学金などで、学問的に生きていく道を見つけたからであるが、神経衰弱その他で苦しんだのは、彼のその最初の重要な時期をそのような、親から見捨てられたような生き方をせざるをえなかったことと関係しているだろう。わたしの考えでは、幼児期が一番人間にとって重要な時期である筈で、そんなときに、親から愛されて幸せな子ども時代を送るという人生を漱石が送れなかったのは、悲惨である。立派に成長したのは、奇跡的といえるかもしれない。養父母は溺愛ぶりを示し、本当の親の愛を知らないですごしたようだ。)

 「三四郎」は「それから」、「門」とつづく三部作の第一作といわれている。わたしの個人的な感想では、この三部作もふくめて、“こころ”も同系列にあたると思う。

 つまり、漱石はこれらで一貫して“男女の関係”を考え、いろいろな場面を想定して小説化しているのだと思う。「三四郎」では、ただ、度胸が無いため、何もおきないで終わってしまうのに対し、「それから」では、後年の“こころ”の場合と違って、愛していながら、義侠心から愛する女性を友人に譲るが、そのあと、結局、友人のほうでうまくいっていないとわかり、友人と話し合って、病人の女性を貰い受けるという、まるで物のやり取りのような関係のあり方を追求した作品である。

 「門」では、まさに、「それから」の続きのような、世間から認められない男女関係に入ったために生ずる日陰者的な生き方、暗い意識のあり方をたどって、仏門にはいるという、贖罪的な生き方が描き出され、その仏門でも満足は見出されないということになる。現代っ子の愛し合う二人で、楽しく奔放に生きるというような形は考えられないような暗さを感じる作品である。

 「こころ」では、友人から、自分が結婚したいと思っている女性への”愛”を告白されたため、“三四郎”と違って、度胸がついて、友人には自分の心境を告白しなかったが、相手の女性の母親には告白して結婚に入る。しかし、結婚が内定した時点で、友人は何も言わずに自殺してしまい、“先生”といわれるその男は、罪悪の意識を持って不幸な結婚生活に入り、その不幸な意識にまけてしまう。

 つまり、漱石は一生、真剣に、“男女の愛欲の問題”を創作化しようとして生き続けた様で、それは、漱石の、ある意味では相容れない不幸な結婚(妻 鏡子との)のため、想像の上で、別な愛情関係であればどうであったかという仮定を、いれかわり、たちかわり想定したといえそうである。こんな、愛欲の問題ばかり、ズット考えつづけていたのでは、神経衰弱にもなり、胃潰瘍になるのも無理はないと私には思われる。

 さて、「三四郎」を読んで、おどろいたことがいくつかある。まず、三四郎が列車の中で食べた弁当の空き箱を列車の窓から捨ててしまうこと。今も富士山はゴミの山として世界中に悪名高いそうであるが、明治の昔から、日本人はゴミを平気ですててきたのだということがわかり、残念な気がした。

 その次には、冒頭の章で、列車のなかの見知らぬ若い女性が名古屋駅で降りるときに、三四郎に自分はこころもとないから助けてくれないかと頼み、三四郎が東京に直行しないで、途中下車して、女につきそい、手頃な宿をさがしだし、部屋があまっていないので同じひとつの部屋で、ひとつのふとんで寝るという話。ひとりでお湯につかりにゆくと、女がはいってきて、背中を流そうといい、それを拒否する。そして、ひとつの布団にまんなかに襞を作って、蚤を理由に、かたくなりながら、同じ寝床で女と何もしないで寝る。翌朝、女から、“あなたは度胸が無い”といわれて別れる。

 この話が今の私には異常である。この女は、子供がどこかにいるのか、京都で子供のおもちゃのようなものを買っている。しかし、やることなすこと、すべてまさに現代的なフリーセックスが身に付いた女性のようで、男に風呂場でもチャンスを与え、寝床でもチャンスを与える。これは、娼婦なのであろうか。子供のある、シングル・マザーがCasual Sexを楽しもうとしたのであろうか、学生であることはわかっているわけだから。この明治の時代にこういう人間が例外的ではなくて、たくさんいたのかもしれない。あるいは、それほど貞操の観念を持たない女性がたくさんいたのであろうか。「三四郎」という小説の冒頭でこの話が出てくるのは驚きであった。しかし、ここで見られた三四郎のある意味で潔癖な態度、性格がこの物語展開の重要な要素となっているので、作者はいちはやく読者に”三四郎”の生真面目さを紹介したというところかもしれない。

 ともかく、へんな女性と一緒に過ごして何も起きず、“度胸無し”といわれ、それがこの小説のメインのテーマとして終始するのである。

 もうひとつ驚いたこと。若い女が電車に飛び込み自殺をする。それが起きる前に、下宿の部屋で、“もうすぐだ”という女の声を三四郎は聞く。そして、しばらくして、女がひき殺された、自殺だとわかる。三四郎は現場に駆けつけ、女の体が二つに切断され、「右の肩から乳の下を腰の上まで見事に引きちぎって・・・」ある場面を目撃する。これは漱石の目撃体験を語っているのではないかと思われるほどリアルな描写となっている。

 肝心の三四郎の、美禰子(みねこ)への恋も、婚約者があらわれて、結婚通知をされ、結局、片思いで終わってしまい、すべてが中途半端、つまり“度胸の無い”うぶな三四郎をまず、漱石は描いたわけである。

 小説としては、上記、不思議なともいえるストーリーが展開しているが、中身としては何も無いような小説であった。叙述も、円熟とはいえない。

 「道草」は漱石がイギリスから帰国してからの生活ぶりを10年ほど経って、円熟した境地で自分をも批判的反省的にとらえながら、夫婦間の意識の位相を見事に展開している。そのなかで、妻が出産する場面があり、産婆を呼びにやるが、間に合わず、妻が家でひとりで出産して、夫に“生まれました”と告げる場面がある。ともかく、現代と違って、生殖行為があっての出産であるはずであるが、主人公は見てはいけないと思って、あかりもつけないで、ごそごそと赤子を不器用に扱うというか扱いかねるわけで、これも漱石が体験した出来ごとを書いているのであろう。漱石には5女2男の7人の子どもがが生まれ、この5番目にあたる女の子が2歳ほどで、急に死んでしまい、そのことに関しては、漱石は「彼岸過迄」で展開して、やっと心の重荷が降りたと感じたらしい。この「彼岸過迄」は、探偵小説的好奇心を描こうとして、中途半端で、話題はいつか主人公がかわって、友人とそのいとこの女性との関係について、またまた、決断できない中途半端な男性心理を描き、どうも漱石は、ねちねちと悩むばかりで、決断の出来ない男ばかり描いているような印象を受ける作品である。

 漱石はいわゆる自然主義の私生活描写から距離を置いた文学者・作家であるが、展開する内容はすべて漱石個人の体験やそれに類似した経験が素材となっているのは間違いない。

 今、わたしは村上春樹などを読んでいるが、現代文学の中でも、村上春樹などは小説家としては随分、上手な語り口をもっていて、異質な文学空間を直ちに楽しみ味わえるということで、日本の小説もここまで成長したかとうれしくなる。

 「三四郎」といえば、わたしはPopular小説の「姿三四郎」が好きである。これは文庫本で三冊の長さだが、わたしは既に三度ほど読み返し、また読もうと思っている。特に前半分がすばらしい。

村田茂太郎 2012年10月29日、11月7日、11月8日、10日

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