小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(22)足利尊氏
足利尊氏(あしかが たかうじ) をめぐって
私は楠木正成が大好きであったため、そしてまた南朝の史跡に富んだ吉野で南朝側からの解説を何度も聞かされたため、足利尊氏ほど憎たらしく、いやなやつはいないと思って育った。郷土愛から来ていたともいえるそういう考え方から抜け出すのは大変難しく、冷静に尊氏を評価できるようになるには、随分時間がかかった。
今は、私は、源頼朝ほどの政治的統率力とか偉大さはないが、あの時代としては、やはり、最も優れた人物の一人であったと思う。
天皇方にはむかうときには、日本の武将は誰も苦労する。承久の変を起こした後鳥羽上皇のときも同じであり、頼朝による“ご恩と奉公”を説く頼朝の妻北条政子の“イザ、鎌倉”の号令が必要であった。この政子の指揮ナシでは、出来たばかりの武家政権はもろくも崩壊し去っていたかもしれない。
出来上がったばかりの建武の新政に反抗した足利尊氏の場合も、もともと、後醍醐天皇に逆らう気はなかった。微妙な関係にあったとき、引き金を引いたのは尊氏の弟直義(ただよし)であった。1335年、中先代の乱を平らげた足利尊氏は、京都の朝廷からの呼び戻しに応じず、鎌倉にとどまっていた。この時点では、尊氏に謀反の考えはなかったし、後醍醐天皇も尊氏を信頼していた。もし、尊氏に弟直義がいなかったら、歴史は全く違ったものとなっていたのは確かである。
尊氏が鎌倉にとどまっている間に、直義は高師直(こうの もろなお)とはかって、尊氏に無断で、全国の豪族に、同じ源氏一門の新田義貞(にった よしさだ)追討の御教書を発した。そのことを知った天皇は、尊氏を朝敵として、新田義貞に追討を命じた。朝敵となってしまったことを知った尊氏は、おどろき、絶望して、坊主になるといいだした。このあとも、尊氏は苦境に陥るたびに、自殺しようとしたり、逃げ出そうとする。彼にはあくどい行動は出来ない性格があった。
そのたびに、弟や周りの家来がいさめ、はげました。このときも、直義は、ニセの布令書を示し、「尊氏は朝敵なので、たとえ僧侶になっても、首を取って手柄にせよ。」という内容を尊氏に見せて、坊主になっても、今では後の祭りなので、この際、新田義貞を打ち破って、朝敵の汚名を返上するしかないと説いた。
ここに至って、尊氏は断固として起ち上がる決意をし、策略を用いて、新田義貞を箱根竹の下の戦いで破った。その後、勝ったり負けたりしながら、源氏の名門として勢力を伸ばし、北朝の天皇をたてて朝敵の汚名を除き、楠木正成、新田義貞、名和長年、北畠顕家など、南朝の武将を滅ぼし、弟直義も、最終的に滅ぼして、京都に幕府を開く事に成功した。(室町幕府)。
弟の策略ゆえに、天皇に対抗した尊氏は天竜寺を建てて天皇の冥福を祈った。尊氏は頼朝に政治的には劣ったが、人間的には器量も大きく、暖かかったようである。
1994年6月14日 執筆
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