小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(23)真田幸村
真田幸村 (さなだ ゆきむら) をめぐって
真田幸村の名前は日本の教科書(小・中・高)に登場しない。しかし、歴史の面白さを知り、日本の歴史への関心が大きく沸き起こるのも、こうした人物の行動を知ったときである。子供用に書かれた真田十勇士といった本が、私の小学生の頃にあり、フィクションをまじえて、楽しいお話となっていた。忍者猿飛佐助とか霧隠才蔵とか、胸をわくわくさせながら読みふけったものであった。
教科書には登場しないが、少し歴史を調べると、真田昌幸・幸村父子が歴史の流れを替えるほどの影響力を持っていたことがわかる。この父子は戦術の天才であった。そして幸村は特に日本戦争史の中ではベスト・ワンと思われるほどの戦争の天才であった。父昌幸は死ぬとき、幸村が若くして九度山に蟄居したため、世の中に幸村の軍事的天才が知れ渡っていないことを残念に思い、幸村の将来まで正確に予見することが出来た。
1600年、天川分け目の関が原の戦いが始まったとき、真田家は二つに分かれた。信州上田城の昌幸・幸村父子は豊臣方に属し、昌幸の長男信幸は徳川方についた。家康の軍は東海道を辿ったのに対し、家康の長男徳川秀忠の軍は中山道をとった。信州の真田昌幸をやっつけながら、美濃に合流しようというのであった。しかし、数万の秀忠軍は、わずか数千の真田軍にいためつけられ、身動きできず、とうとう打ち破れなかっただけでなく、秀忠軍は関が原の戦いに参加できず、遅れて到着した。小早川秀秋の裏切りによって、一挙に勝利にもっていくことができたが、それがなければ、家康は負けそうなほど苦戦していた。
このように、真田昌幸は前後二度、徳川家康・秀忠の大軍を打ち破り、一度も負けたことは無いという誇りを持ち、その名声は天下に聞こえていた。この昌幸が豊臣方の大将になれば、みな彼の指示通りに動くであろう。しかし、昌幸以上の才能を持つ幸村でも、名を天下に知られていなければ、人もついて来ない、それを父は悲しんだ。真田父子を恐れた家康は、信幸の嘆願で殺せないため、和歌山県高野山近くの九度山に幽囚とした。
1614年、大阪冬の陣がはじまって、幸村は登場した。父の予見したとおり、天才的な幸村の策謀も、豊臣秀頼方の採用にならず、心ならずも部分戦を演じるしかなかった。しかし、この冬の陣、夏の陣でも、真田幸村の活躍はめざましく、家康ももう少しで殺されそうになったのであった。
昌幸・幸村と豊臣秀吉に大恩を感じていたため、豊臣家の衰亡に歩調を合わせねばならなかったのは、誠に惜しいことであった。
1994年6月15日 執筆
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