Travel Japan (23) 義仲寺ー大津市 写真紹介
友人に私の希望を伝え、その通りに旅の手配をしてくれた友人とふたりで八瀬からケーブルで比叡山に上り、延暦寺をたずねました。そのとき、にわかに夕立となって、急遽大津市のほうに降り、三井寺(園城寺)を訪ね、誰も居ない境内を楽しみ、最後に義仲寺へゆくことになりました。
ひなびた電車に乗って京阪膳所駅でおり、少し歩くと義仲寺でした。
俳聖松尾芭蕉が好きであったという木曽義仲を葬ったお寺が義仲寺で、結局、浪速で”旅に病むで 夢は枯野をかけめぐる”と詠んで亡くなった芭蕉を、好きなお寺に葬ろうということで、”木曽殿と背中合わせの寒さかな”と詠った芭蕉にふさわしく、このお寺に芭蕉を葬ったということで、このお寺を訪問することで、木曽義仲と松尾芭蕉の二人にお参りをすることになりました。そして、わかったことは、保田與重郎のお墓もここにありました。
訪問者は私たちのほかはひとりだけで、静かな、こじんまりした庭の中にいくつかの墓石が立っていました。
池禅尼のおかげで命拾いをした頼朝はここから厳しい教訓をみちびき、同属の源氏であろうと、自分の意思どおりに動かないと思えば、つぎつぎと処分していったので、源氏直系は息子二人だけとなり、結局、断絶して、北條氏の政権となっていった。この、自分の親族家族でも処分していく、死罪をあてるというやりかたは、保元の乱での平清盛の処置から生まれ、いわば肉親の血を血で洗う陰惨な時代がおとずれ、北條三代泰時にいたるまで、つづいたわけで、源平から鎌倉初期の時代が私には普通の時代よりも陰惨に感じられるのは、その辺の事情によると思います。
芭蕉が”木曽殿と背中合わせの寒さかな”と詠んだとき、そうした悲劇をふまえていたのは当然だと思います。もちろん、平家物語のなかの”鎧が重く感じられる”という叙事詩人の感想も影響していたでしょう。
村田茂太郎 2012年6月12日
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