“ロシヤにおける広瀬武夫”島田謹二 を読む
伝記の名作は唯単に伝記人物を見事に再現するだけでなく、その人物が生きた時代・社会・人間関係・経済・地理・世相・歴史の動きなどを見事に描き出すことになるので、すぐれた伝記を読むものは一挙に様々なものを知り、確認し、感銘を受ける事になる。素晴らしい伝記を読んだあとには、いつも私は、その伝記人物だけでなく、その人物が生きた世界が広く深くわかったような気持ちになる。
森鴎外の「渋江抽斎」を読んだときも、人物とその関係者への興味だけでなく、幕末動乱期の社会がひとりの儒者の生きた世界を描くなかから立ち現れてくるのを感じて、すごいと思ったものであった。
今、この島田謹二の「ロシヤにおける広瀬武夫」を読んでいて、わたしはまた、すばらしい体験をすることになった。ここで扱われているのは、ただ単に歴史上の人物“広瀬武夫”という日露戦争の英雄の姿だけでない。旅順港閉塞作戦の中、部下を救出しようとして落命した“広瀬武夫”の名前は、その後、悲劇の英雄として唱歌にまで歌われ、ことあるごとに軍隊の忠君愛国の宣伝に利用されてきた。
その広瀬武夫がどのような人間であったのか、どのように生きたのかをロシア滞在の広瀬武夫に焦点を当てる中で、見事に、その当時の日本の社会・世相・歴史上の人物達の動きを描き出しただけでなく、世界の情勢そして人文科学的な、広瀬武夫が旅をした土地の世相・風俗・慣習、地理などもあざやかに描き出すことになった。まさに、立派な広瀬武夫伝であると同時に、彼が生きた世界の情勢を活写した見事な伝記文学となった。
著者島田謹二は東京大学の教授で比較文学の専攻である。比較文学者が軍人広瀬武夫の伝記をということで、少し奇異な感じがしたが、なるほどこれは立派な比較文学といえるほどの見事な伝記である。
鴎外の“渋江抽斎”が成功したのは渋江抽斎という人物が鴎外の注目に値する偉大さを備えた人物であったからであるが、この広瀬武夫の場合も、この伝記をとおして浮かび現れる人物は、まさに日本が誇りうる、健全な人間像であり、立派な人物伝たりうる人物であった。また、その交友のまめやかさも、其の展開に大きなテーマのひとつとなることが示されていた
わたしは日本の軍隊関係の情報には疎いが、この広瀬武夫伝や司馬遼太郎の“坂の上の雲”などを読むと、いい意味の軍人のイメージが浮かび出る。
“坂の上の雲” では私は日本で最初の騎兵隊をつくったといわれている秋山好古に魅力を感じたが、この本を読むとほかにも様々な興味ある人物が居たことがわかる。
しかし、私達は広瀬武夫がなくなってからの歴史を知っている。この広瀬の交友の中にあらわれてくる目だった友人知人後輩として加藤寛治や田中義一などが登場するが、この日露戦争前夜のなかでの広瀬の彼らとの交友はうつくしい。しかし、彼らは第二次世界大戦に向かっていく中で、それぞれ日本史辞典に出てくるほどの大物のひとりとなり、日本を戦争に引きずり込んでいく張本人の一人となるのである。田中義一は首相として、張作霖爆殺事件が象徴するような大陸政策、国防充実、治安維持法改正、共産党弾圧その他、特別高等警察〔特高〕制度を全国的に実施、右翼的保守的軍事的な政治を主導。加藤寛治は連合艦隊司令長官を経て海軍軍令部長、ロンドン海軍軍縮会議に対して統帥権干犯を主張するという右翼的な行動がめだち、軍縮反対派の主要人物となった。
もし、広瀬武夫が旅順港閉塞作戦のなかで死ななければどうなっていたか。広瀬武夫は加藤寛治や田中義一と仲は良かったが、やはり人物としては違っていたから、田中や加藤のような経歴には至らなかったであろう。彼自身は戦争の早期終結を願い、旅順港閉塞が無事終われば、単身、旅順に乗り込んでアレクセーエフ大将に会い、真心から利害得失を説いて、要塞を明け渡させ、無用の血流させないように説いてみるつもりであったとか。まさに直情径行の正直な人間が命をかけて国のために何かをしようとするというのが広瀬武夫の実際であった。
ともかく、5年を越えるロシヤ滞在中にロシア語をマスターして、ロシヤ貴族達と対等に、親しく、愛情を持ってつきあい、二人の女性から愛され〔マリヤ・ぺテルセン、アリアズナ・コヴァレフスキーAriadna〕、ひとりとは戦争が終われば、ほとんど国際結婚になりそうな愛情豊かな関係がうまれていたようである。突然、帰国命令が出て、シベリア経由、危険な一人旅を無事実行し、貴重な報告資料を沢山提出した広瀬は最後のウラジオストックでも日本貿易事務官のミセス川上常盤からも、“武骨天使”とか“日本の騎士”と慕われ、真にすぐれた日本人のひとりであることを立証した。
この本は広瀬武夫のまじめな働き振りを資料をつかって証明し、特にロシヤ海軍の実態を知るための旅行・見学・観察その他あらゆる行動を広瀬がまじめに、徹底的に実行し、みごとなレポートを作成していったことを実証している。まことに実務的にも有能な人物であったことがわかる。
最後の近くで(P404) 武夫の恋人のロシヤ女性アリアズナが、武夫がプーシキンの詩を漢詩に訳して紙に書き、同時に自分のつくった即興の詩を日本語で書いてみせたところ、彼女はこう言ったと書かれている。--「意味はわからないけれど、風情があるのね。ロシヤ人には、こんな美しい文字は書けません。ヤポーニャは小さくても、昔から立派な文化を持っているのですね。うれしいわ。いつだか極東へ行った兄の友達がかえってきて、ヤポーニャは極楽だって驚嘆していましたわ。ほんとうの極楽浄土があるとすれば、あの国ことだろう、と話していましたわ。わたしはヤポーニャがとても立派な国だということを疑ったことは一度だってありません。」
アリアズナは広瀬武夫に接してからは、ロシヤのどの貴族男性も武夫に比べて浅薄、軽薄に見え、ひとりで(!!!)武夫の下宿先まで出向いて語り合うのが楽しみとなった。武夫は明治時代の“武と儒”を身に付けた偉大な知識人たちと同様、その一人として、異国にあって、プーシキンの、自分が気にいった詩を暗唱して、ロシヤ語から漢詩に訳し、自分の感情を自作漢詩でうたいあげることができた。そしてトルストイの「戦争と平和」もロシア語で読み、ウラジオストックでは、英語で読んだという川島常盤と”戦争と平和”について親しく語り合うことが出来た。職業柄、武人とはいえ、文学的センスを充分に身に付け、それを交友のあいだで発揮しながら、あるがままの存在として、ロシヤのどの男性ももたない人間的魅力を発揮し、ロシヤ貴族(子爵―海軍少将コヴァレフスキーの愛嬢)の真実の愛をかちえたのであった。広瀬武夫が日露戦争を生きながらえていたら、まちがいなく、ロシヤへアリアズナを迎えに出かけたことであろうという印象がうまれてくるほど、この二人の愛情はこまやかで、真実なものであったようだ。
1895年から1900年ごろというのは、帝政ロシヤはすでに滅びようとしていた時期で、私達は1905年には血の日曜日事件がおき、1917年には文字通り、帝政ロシアは崩壊して、メンシェビキ・ボルシェビキの革命に至ったことを知っている。
ここにあらわされたロシヤはその最後の栄光に輝く帝政ロシヤの実態であり、民衆や周りの世界の実態である。
読み終わってみると、単に広瀬武夫個人の伝記としてだけでなく、広く帝政ロシヤでの社会風俗やロシヤ周辺の地域の風俗・文化が描き出され、みごとな伝記文学となっている。広瀬の海軍関係のレポートの引用は漢字とカタカナ書きのために、読みにくいものであったが、彼の生の報告としてはもちろん必要不可欠で、彼の実務的な面を伝えているわけで、貴重な資料といえる。
「春二月二十四日、前節に書いた閉塞船“報国丸”を目指す港口に沈めて、広瀬は奇跡的に帰ってきた。しかし三月末の七日、第二次閉塞船の“福井丸”を指揮して、これまた目的をはたしたが、そのかえりみちに旅順港の波狂う港外で、広瀬は人も知る壮烈な最期を遂げた。愛する祖国を守るために大業をはたしただけでなく、愛する部下の死生をあんじて、ついにわが身までいけにえにした一大の勇士として、当時の日本人は、礼讃讃美の限りをつくした。」
「広瀬の英雄的行為に対する賛嘆の情は、西ヨーロッパ各国もわかちもった。中にもイギリスは、国民全体をあげて感嘆した。・・・」(P415)
つぎに引用するのは江藤淳の山本権兵衛に関する伝記小説「海は甦える」第二部の広瀬武夫の死をめぐる東郷連合艦隊司令長官からの公電について海軍大臣山本権兵衛が帝国議会で発表したという内容である。
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権兵衛は、虎の目で議場を見まわし、きわめて厳粛な面持ちで発言した。
「本大臣は、さきほど、東郷連合艦隊司令長官よりの公電に接しました。それによりますると、本三月二十七日午前二時を期して、旅順口第二回閉塞が決行されたのであります」
議場が一瞬どよめき、次の瞬間には水を打ったように静まりかえった。
「これより、東郷司令長官からの公電を読み上げます」
・・・・敵砲台からの砲火は、第一回閉塞のときにもまして激しく、海岸からの機砲と小銃による乱射もこれに加わったので、端舟に乗じて離脱しようとする閉塞隊員は非常な危険に曝され、ために犠牲者は前回よりも多きを数えた。・・・・
ここまで読み上げると、議場からため息がもれた。権兵衛は大海報十二号と記された東郷からの報告を読み続けた。
「・・・戦死者中、福井丸の広瀬武夫中佐及び杉野孫七兵曹長の最後は頗る壮烈にして、同船の投錨せんとするや杉野兵曹長は爆発薬に点火する為船倉に降りし時、敵の魚形水雷命中したるを以って遂に戦死せるものの如く、広瀬中佐は乗員を端舟に乗り移らしめ、杉野兵曹長の見当たらざるため自ら三たび船内を捜索したるも、船体漸次に沈没、海水上甲板に達せるを以って止むを得ず端舟に下り、本船を離れ、敵弾の下を退却せる際一巨弾中佐の頭部を撃ち、中佐の体は一片の肉塊を艇内に残して海中に墜落したるものなり。中佐は平時にても常に軍人の亀鑑たるのみならず、其の最後に於いても万世不滅の好鑑を残せるものと謂ふべし。・・・」
権兵衛の声は、深い感動のためにかすかに震えていた。虎の目が、涙をこらえてしばたたいた。
・・・・寂として静まりかえった衆議院の議場に、いつしかいくつかの嗚咽の声があがりはじめていた。
(江藤淳 「海は甦える」第二部 p375-377からの引用。)
命をかけた旅順口閉塞作戦であったが、実際的効果はあまりなかった。マカーロフ中将の旗艦ペテロパブロフスクの動きを執拗に愛用のツアイス双眼鏡で追跡していた東郷の目に、はじめてひとつのアイデアが浮かんだ。それは名将といわれたマカーロフ中将との知恵比べに東郷平八郎というほとんど無名の司令長官が勝ったということであった。そして、彼の指示で施設した水雷に触れて、旗艦ペテロパブロフスクは二分以内で沈んでしまい、それに関して、東郷は轟沈(ごうちん)という言葉を使った。それはロシア艦隊全滅へのはじまりであった。
この辺の話は、司馬遼太郎の名作「坂の上の雲」や今挙げた江藤淳の「海は甦える」に、より詳しく述べられている。
「当の交戦相手の国であるが、ロシヤにも、ヒロセの壮烈な戦死状況は伝えられた。フォン・ぺテルセン家の一同が、この知らせを聞いたときの驚きと嘆きとは思いやられる。なかにもマリヤは胸つぶれて何日も泣いていた。あれほど立派な誠実な友はいなかったと思う。忘れようとしても忘れられない。ヒロセの追憶は雲のように湧きあがってくる。ヒロセの愛と真実とは、生ける日の如く今もなおそのままである。あんなに立派な高貴な人間は、ヨーロッパ人のうちにだって、そんなに多く発見できるものではない。父の博士は“ヒロセ君が!”といって声をうるませた。骨肉の兄のようにしたっていた弟のオスカルなどは、声をあげて慟哭した。マリヤ自身は一間にひきこもって泣いていた。ヒロセに対しては、あたたかい心からの友情を持っていたというだけでは、つくせなかった。あの人とあれほど親しい仲になれたということは、命のつづく限り胸おどる思い出なのだ。言えない。言えない。ほんとの気持ちはとてもいえない。・・・」(P415)。
ともかく、名前だけは英雄として有名であっても、実態は無知に等しかった広瀬武夫という人間の全貌が明らかにされたといってよい。もちろん、ロシア時代が中心であるため、子供の頃の話があるわけではないが、ロシヤ時代の広瀬武夫の言動をみるだけで、彼の全人間がわかるほどであり、広瀬武夫はまさに良い意味での日本男子、加納治五郎講道館三段の好青年であったことはたしかである。この本はその彼の人間的魅力を伝えて余りある。
この本「ロシヤにおける広瀬武夫」は比較文学者があらゆる資料を駆使して魅力ある人間像を再現させた傑作である。著者島田謹二は若い頃、詩人北原白秋を知った。この本は北原白秋の霊前に捧げられている。上田敏に対する共通の感情が著者と北原白秋の仲をとりもったらしい。1940年頃、まだ若い少壮の学者島田謹二に白秋は、「あなたは、まだこれという仕事がないねえ」と語りかけたらしい。それが刺激となってか、島田謹二はこの本「ロシヤにおける広瀬武夫」を生み、「アメリカにおける秋山真之」を生んだ。比較文学者の学問的業績として、この二著は島田謹二の名前を不滅のものにしたのは間違いない。ほかの作品はともかく、島田の名前はこの二著と結びついて、ひろく後世に読み継がれてゆくであろう。
詩人北原白秋と親しんだというだけあって、島田謹二も詩的、文学的才能にめぐまれ、その片鱗がこの広瀬武夫伝の展開にゆたかさをもたらしている。
「広瀬という人は、ことがあれば手紙を書き、ことがなければ手紙を書く。三十六年何ヶ月の短生涯のうち書きしるした手紙の数は二千通に達すると思う。そのうち四百通近くが広瀬家に保存されているのである。恐らく明治の海将のうち、かれは八代六郎、秋山真之とならんで、屈指の書簡文家にかぞえられるだろう。八代ほどの純情切々、秋山ほどの深謀遠慮は、彼の手紙の中に求めがたいが、別にまた一種の妙味―流露する真情の文才があって、明治のナショナリズム文学の中で優に一家をなすに足るものがある。」(p8)。
全く、素晴らしい本である。
村田茂太郎 2012年8月31日
(最後に、この本「ロシヤにおける広瀬武夫」もわたしが知人のドイツ人未亡人から買い取った蔵書のなかから見つかった。同時に「アメリカにおける秋山真之」も見つかった。故人は同志社出身で、太平洋戦争が終わる寸前、海軍に所属していたとかで、戦争もの、海軍関係の本を沢山読んでいたようだ。村松剛の「醒めた炎」(木戸孝允伝)といい、これらの書物といい、彼は良い本を読んでいたようだ。)
朝日新聞社発行 「ロシヤにおける広瀬武夫」 1970年4月30日発行 著者島田謹二
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