出会い “一篇の文章”(小林秀雄 [平家物語])
“一冊の本”という言葉がある。人間は、その人生において、いろいろなものと出会う。その出会いは、すぐれた人物との魂と魂との触れ合いであったり、魂を震撼させるような出来事であったりという具合に、様々でありうる。プラトンにとってはソクラテスの刑死が、ガンジーにとってはマリツブルク駅でのインド人差別の体験が、そのような決定的な意味を持った“出会い”であった。
同様にして、人生途上で出会った、“一冊の本”が、その人の一生やある時期に決定的な影響を与えることが多い。そうした、各人にとっての重要な意味を持った本との出会いを、“一冊の本”という形で表現することが行われるようになった。
小林秀雄は有名な“ランボー論(三)”の中で、神田のある本屋の店頭でみつけたランボー詩集“地獄の季節”との出会いを、“炸裂”という表現を使って、その強烈さを体験的に反省している。私にも、人生に、決定的な意味を持った本がいくつかあり、いい本と出会うことの大切さをつくづく感じさせられた。
私にとって最も意味深い出会いは、高二の国語教科書の中で行われた。従って、私は“一冊の本”というよりも、“一篇の文章”との出会い、それが大きく見て、私自身の人生をかえてしまったと、今、思う。そして、今の高二の教科書の中にも、同じ文章があるのを見て、私は深い感動に襲われる。小林秀雄の“平家物語”である。
今では、世界的な古典ともいえる小林秀雄の“無常といふ事”。その表題のもとに集められた六篇の “中世”に関する作品の中の一篇であり、たった四、五ページに過ぎない文章。しかし、それが、私の精神の構造を変えてしまう力をもっていたとは、驚きである。多分、これが決定的な意味を持つためには、田中住男先生という、すぐれた国語教師の存在が不可欠であったに違いない。
それまで、特にどうということはなく、たいした読書家でもなかった私が、小林秀雄の“無常といふ事”を皮切りに、猛烈な読書家に変貌した。新しい世界が開け、そこに積極的に没入していくことになった。特に、小林秀雄に関しては、“のめりこんでいった”という表現がふさわしいといえる。ある時期など、私は夕食の団欒のとき、毎回、小林秀雄の文章のどれか一部を朗読したものであった。そのため、小林秀雄などという、名前を、これまで聞いたことが無かった家族の全員が、大変な人物が居るということを知ったのであった。
小林秀雄は、そのランボー論の中で、ランボーという“事件の渦中にあった”ということを語っているが、私にとっても同じことが起きた。この高2の教科書での“平家物語”との最初の出会い以来、数年間は小林秀雄の全面的影響下にあった。“無常といふ事”や“モオツアルト”を読了すること六十数回。“ゴッホの手紙”や“近代絵画”のような長編も、七、八回は読んだ。数々の名文の断片は自然と暗誦してしまうに至った。そして、そのうちに、小林秀雄を読んでいるだけで、なんともいえない心地よい、陶酔感を味わうほどになった。のちに、評論家 秋山駿が、小林秀雄追悼の新聞発表文のなかで、小林秀雄の文章は、生きる勇気を与えてくれるといった意味の事を書いているのを読んだとき、私は、私の陶酔感の一部が表明されているように感じたものであった。
理科系のクラスに属し、工学部の精密工学科に入学した私が、その三年目の秋に、退学を決意し、予備校で勉強しなおして、文学部に入ることになろうとは、私自身、予想も出来ないことであった。しかし、種は高2のときに蒔かれていたのだ。いったん目覚めた意識は、葬り去ることは出来ない。対決し、決断するしかない。小林秀雄によって目ざまされた文学や哲学への願望は、私の中で大きく成熟していった。結果的に、ギリシャ文学をめざそうと決意するに至ったのも、もちろん、直接、プラトンやホメーロスといったすばらしい作品を読んだせいもあるが、小林秀雄のすばらしい旅行記“ギリシャの印象”も、大きく影響していたのは間違いない。
京都大学に入学してからは、ギリシャ文学志望からギリシャ哲学志望そして哲学そのものへと自己遍歴をとげることになったが、すべては、この高二のときの、小林秀雄とのはじめての出会いから始まったのである。
では、この“平家物語”の中には、何が隠されていたのか、何が私に決定的な影響を与えることになったのか。
当時の私に、”時代と表現“といった視野が充分にあったとは思えない。もちろん、”無常といふ事“という表題のもとにまとめられた六篇の作品が、戦時中の作品であることは知っていた。しかし、私が最も感動したのは、小林秀雄の驚くべく純粋な批評精神によって解明されたみごとな古典論、古典の読み方であったと思う。ありふれた”無常観“によって貫かれた”平家物語“というそれまでの通俗的な解釈を完全に粉砕してしまった、斬新で、私にとっては本質的と思われた対象把握こそ、私が驚嘆したものであった。もちろん、簡潔で、生き生きと本質を描出する比類ない文体も、その魅力を秘めていた。
私は、昭和の文学の中では、小林秀雄ほど、美しく、すばらしい日本文を書いた人は居ないと感じたし、将来、外国人は、小林秀雄を日本語の原文で読むためにも、、日本語を勉強せねばならないと思うに違いないと思った。そして、私は、自分が、日本語の原文を読み味わえるという光栄をしみじみと感じていた。もちろん、美しい文というとき、それは、内容が充実している事を前提としているのである。私は、ここには、ホンモノの思想家がいると感動しながら読み味わっていた。古典をその成立の魂において理解できる“稀有な思想家”というのが、私が高校時代に小林秀雄を読んで、理解し、驚嘆したことであった。
文学は数学と違って、どのようにでも解釈できるところに良さがあると思っている人がいるが、決してそうではない。文学の理解も、一つの謎解きのようなものであり、その本質的なキーを発見できた人だけが、その作品の精髄を味わうことが出来るのである。
たとえば、小林秀雄の“実朝”の中にある、次のような分析。これは、万葉調の気宇壮大な歌という定説のある 大海の 磯もとどろに よする波 われてくだけて さけて散るかも に対する魂(詩魂)への接近という形での分析法を示す。“こういう分析的な表現が、何が爽快な歌であろうか。大海に向かって心開けた人に、この様な発想の到底不可能な事を思うなら、青年の殆ど生理的ともいいたいような憂悶を感じないであろうか。・・有名になったこの歌から、誰も直に作者の孤独を読もうとはしなかった。 ・・ 自分の不幸を非常に良く知っていた、この不幸な人間には、思いあぐむ種はあり余る程あった筈だ。これが、ある日、悶々として波に見入っていた時の彼の心の嵐の形でないならば、ただの洒落にすぎまい。”
同様の指摘が“平家物語”(小林秀雄)の随所に散らばっているわけで、私はここから平家物語を鑑賞するエッセンスをつかむことが出来た、私にとって、平家物語は、大好きな古典の一つだが、それを充分深く読み味わえるのも、小林秀雄のおかげである。誰も小林秀雄ほど見事に、“平家”の本質を把握した人はいないし、たったの4-5ページのボリュームで、その特徴とすばらしさを鮮やかに描ききれた人はいない。私にとって、小林秀雄“平家物語”は、膨大な、あらゆる“平家物語”研究書より、価値があり、魅力的なのである。たとえば、次のような表現・・・
“荒武者と汗馬との躍り上がるような動きを、はっきりと見て、それを、そのまま、はっきりした音楽にしているのである。” “まるで、心理が描写されているというより、隆々たる筋肉の動きが写されているような感じがする。事実、そうに違いないのである。この辺りの文章からは、太陽の光と人間と馬の汗とが感じられる。そんなものは少しも書いてないが。” “終わりの方も実にいい。勇気と意志、健康と無邪気とが光り輝く。” “こみ上げてくるわだかまりのない哄笑が激戦の合図だ。これが平家という大音楽の精髄である。平家の人々はよく笑い、よく泣く。僕らは、彼ら自然児達の強靭な声帯を感ずるように、彼らの涙がどんなに塩辛いかも理解する。”これらは、小林秀雄が如何に対象に接近していくかを示したものである。そして、あの有名な、驚嘆すべき文章が来る。
“平家のあの冒頭の今様風の哀調が、多くの人々を誤らせた。・・・作者を本当に動かし導いたものは、彼のよく知っていた当時の思想というようなものではなく、彼自らはっきり知らなかった叙事詩人の伝統的な魂であった。・・・平家の哀調、惑わしい言葉だ。このシンフォニーは短調で書かれているといったほうがいいのである。一種の哀調は、この作の叙事詩としての、驚くべき純粋さから来るのであって、仏教思想というようなものから来るのではない。”
田中住男先生は、この一篇の文章の読解のために、膨大な時間をかけられた。私は、ほとんど完全に分かったと、その時、思った。おかげで、徹底的に精読することの大切さを学べたし、小林秀雄の難解な文章が、私にとって、とてもわかりやすく、近づきやすいものとなった。私にとって、この文章との出会いこそ、文学と人生への開眼を迫り、対象への接近法を示し、同時に優れた教授法を示す、かけがえのないものであった。
(完)
1987年4月27日 執筆 村田茂太郎
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