無知
“いくさ世(ゆう)を生きて(沖縄戦の女たち)”真尾悦子(ましおえつこ)を読んで
この本は第28回青少年読書感想文全国コンクール課題図書の一冊であったらしい。青少年とはいいながら、内容的に言って、高校生の課題図書ということであったに違いない。灰谷健次郎の“太陽の子”で沖縄への関心をかきたてられ、丁度、“あさひ”の図書の中にこの本を見つけ、私は黙って借りてきて、やっと読了した。スゴイ内容で、今まで沖縄に関して無知であった自分自身を恥じ入らせるものであった。
本は、アメリカではやっているオーラル・ヒストリーにあたるもので、沖縄戦に巻き込まれ、想像を絶する苦難を経て、ともかくも生き延びた人々の聞き書きをまとめあげたものであった。
太平洋戦史の中で、沖縄の占める位置は巨大である。日本本土に関しては、各地への空襲があり、例の広島・長崎への新型爆弾(原爆)投下があったが、アメリカ兵が上陸して陸戦をおこなうという事はなかった。ところが、沖縄こそ、アメリカ上陸部隊との激戦が各地でおこなわれ、沖縄人だけで十万を超える人命が失われた唯一の場所であった。日本軍と戦前の教育によって、降伏するよりは天皇のために自決するという考え方にならされてきた沖縄人は、アメリカ軍の攻撃の中で、玉砕していくケースが多かった。一方、連合軍としても、沖縄戦によって一万人を超す戦死者を出し、日本本土上陸作戦を展開した時の日本人の抵抗を、それから想像すると、心穏やかにならなかった。
トルーマンが原爆投下に踏み切ったのも、実は、これ以上の連合国軍の被害を防いで、一挙に勝ち取る方法としてであったらしい。おろかなのは、日本の軍部指導部であって、素直に早く降伏しておれば、沖縄も救われ、空襲による悲惨な被害も出ず、広島・長崎も無事であっただけでなく、8月9日のソ連軍の満州侵攻とその結論としての北方領土を占領され、ソ連領化することなど起きなかったはずなのである。もちろん、既に起きてしまった歴史の動きをかえることは出来ず、軍部のおろかさのために悲惨な事態が生まれてしまったわけである。
沖縄は戦争に巻き込まれるまでは、比較的穏やかな農業国のような状態にあり、戦争とは全く関係がなかった。従って、沖縄人としては、軍部によって戦争に巻き込まれ、一番悲惨な恐ろしい戦地と化し、兵士だけでなく、農民達が虐殺され、領土を破壊され、最終的には日本の領土ではなくなり、おそろしい差別と貧困を体験する事になったという事は、どうにもガマンのならないものであり、日本本土人に対して何らかの複雑な気持ちを持たざるをえないわけである。
実際、沖縄に滞在した日本軍は、悪い事しかしなかったようで、本土人である私など、いろいろ沖縄人の日本友軍による苦労譚や殺戮の話を知るにつけ、本当に申し訳ないという気持ちが湧いてくるのをどうすることもできない。
沖縄には精神病の人が全国で一番多いという。そして、この本には、その理由がわかるような恐ろしい話がいっぱいつまっている。高木敏子の“ガラスのうさぎ”では、直接、恐ろしい目にあっていない友人・知人・未知の人たちが、まだ心のゆとりをもっていて、十二歳の少女に情けをかけたが、この沖縄では、皆殺しの危機の中で、局限の状況で、ヤッと生きながらえている場合、心はすさんで、親子でさえ自分が生き延びる邪魔に思えるようになってくる。しかも、沖縄を守ってくれるはずの兵隊が、いい防空壕を先占めして、民間人を入れようとしない。兵隊の特権を使って、自分の身を守ろうとし、そのためには、泣き叫ぶ子供は平気で殺させた。そして、艦砲射撃と爆撃と機銃掃射の中で、民間人は逃げまどう。それは、実に恐ろしい体験であり、死ぬまでその記憶から抜け出せない。
語り手の一人、ノブさんは、いまだに戦争の夢をよく見て、うなされる。“生きている限り、あの恐ろしさは、どこへも消えません。死ぬまで、わたしにとっての戦争は終わらないんだと、そう思っています。”と語る。
彼女は十四歳であった。戦争が激しくなり、近くの丈夫な壕には民間人は入れてもらえないということで、近くの排水溝へ入った。幅一メートル、人ひとりがやっとくぐれる位の溝。奥行きは道路の向こうまで。そこに六家族、二十六人が入った。中腰のまンまというつらい姿勢。その中で約二ヶ月間の生活。タマのこないアメリカ軍の夕食時間に、物をとりにでる。十日目には家がなくなっていた。ドロドロの排水溝の中で、シラミだらけで声もたてられない。二十六人が一列にならぶ管の中では、トイレの始末が大変。奥の人は、袋やバケツに入れてリレー式に便を送って外に捨てる。しかし、ここでさえ、全滅の危機を迎えて、溝を出て、さらにおそろしい逃亡の旅にでることになる。クビのない死体や逆に女の首だけひっかかっている林を抜けたり、いわゆるホラー・ムービーで出会う恐ろしい場面以上の恐ろしい場面を体験しながら逃げまどう。
小説や映画では到底現しきれない、恐ろしい体験を無数に重ねて、しかも、なんとか生き延びる事ができた人達。彼女達は、その恐ろしさは体験した人でないとわかってもらえないと知っているので、今では、戦争については、本土の人とは語りたがらない。それにもかかわらず、十四歳や十五歳で恐怖の体験をし、必ずどこかにタマのアトやキズアトをかかえたままで生き延びてきた彼女達の表情は意外とあかるい。そして親切である。そして、中には、本土人以上に美しい標準語を話す人や、おどろくほどていねいで上品な人が居るらしい。
“様々な光景が、いまでもくっきりと浮かんでまいりますョ。子供をおんぶしている人を見て、通り過ぎようとしたら、首がありません。背中の子供は生きているようでございました。お母さんがふらふら歩いておりますけれど、その背中の子供だったらしいのが、もうぐちゃぐちゃで、腸か何か内臓が垂れ下がっているのにも出遭いました。戦争が恐ろしいと申しますのは、そればかりではございません。そういうむごい姿の人たちを見ましても、何とも感じなくなってしまうということでございます。・・・他人にかまってなどいられません。わが身がかわいいのでございますからね。・・・生きながらの地獄と申しましょうか。日本の兵隊は、乾パンでも何でも自分だけが食べて、そこに飢えた子供が居ても、一つと分けてやりませんでしたよ。”
沖縄の人たちは、戦争で苦しめられただけではなかった。昭和27年4月28日、サンフランシスコ条約の発効によって、沖縄が日本から切り離され、“屈辱の日”を迎えた。“その時、ワトキンズ少佐が言ったとおり、沖縄はネコの前のネズミに等しく、アメリカ軍政府の権力に服従するよりなかった。” “ぼくらは、とにかく、惨めな思いをさせられていましたからね。どうしても早く復帰したいと思いました。” “沖縄の人間はスプーン一本拾っても大騒ぎするけれど、アメリカさんは寄ってたかって沖縄の女を強姦しても、どうってことはない。” “基地内での給料は、沖縄人は最低でした。アメリカ兵の給料が十なら、沖縄人は一、本土から来た建築業者は五の割合であった。” “沖縄の女の人も、暮らしがあんまり貧しいから、少しでもいい給料が欲しくて、メイドになった。そして、アメリカ人に私生児を生まされ、やがて、捨てられてしまう。”
結局、戦後、異民族(アメリカ)統治下で、沖縄人は貧乏と差別で圧迫され続けた。本土は沖縄を切り捨てて、やがて繁栄を築いていったが、そのころ、沖縄人は自分の国をもたず、傲慢なアメリカ統治の下で、屈辱の生活を強いられていたのである。こうして、翻ってみると、私は沖縄について何も知らなかったと知った。無知は罪悪である。本土の人間は沖縄人に対して負債があるように思える。いつか、私は沖縄を訪問するゾと心に誓った。
(完 記 1993年7月13日) 村田茂太郎
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