付記:2018年8月時点での、卒業論文をめぐる私の追加感想。
拙著 「寺子屋的教育志向の中から」の“滝沢比佐子”に関する文章の最後に“私の卒業論文について”という文章を追加した。“滝沢比佐子”の中で、私が彼女に卒業論文の題名を生協地下で出会ったときに伝えたが、内容を説明する時間もなかったというわけで、もちろんギリシャ哲学を専攻していた彼女はギリシャを扱ったものと考えたはずである。ともかく、補足説明がいると考えて拙著の中に少し場違いな補足を加えたわけであった。
当時の京都大学哲学科の教授陣の顔触れは、純哲 野田又男、西洋哲学史 古代 藤沢令夫、中世 山田晶、近世 辻村公一 の教授4名であったが、藤沢令夫教授は1年間Princetonへということで、不在であった。
私は一応、古代哲学史科に属していたが、卒論ではギリシャは直接扱わなかった。内容的にKarl Marxを扱う形となったので、多分、辻村教授が主な審査官であったと思う。
時は1960年安保紛争を終えて、少し沈滞期にはいっていたが、ベトナム戦争が激しくなって、反戦運動が盛んになり、私は砂川基地反対闘争のデモに参加するために、仲間とはじめてバスで東京方面に出向いたりした。
そのあと、各大学で大学闘争が起こり、特に東大、京大、日大などが紙面をにぎわした。京大ではある教授がひとりでハンガーストライキを実行されたりして、学園封鎖、講義どころではなかった
私は哲学の作業は直接デモに参加することとは関係ないと思って、あまり積極的には参加しなかった。パリでは5月革命とかが起き、ドイツでは哲学者アドルノ―の講義中に破廉恥で挑発的な態度を示した女学生のことがニュースに報道されたりしていた。そのせいか、アドルノ―が、すぐそのあと、まだ60代の若さで亡くなったりして私は残念に思ったものであった。
ともかく、私の学士論文の表題を見た先生方は驚かれたことであろう。大学教授でもなかなか遠慮してそんな題名の論文など発表できなかったはずである。まさに無知なるが故の暴挙といえるものであったと思う。しかし、私にとっては最初の論文はこの題名以外に考えられなかった。結局、その後、アメリカにわたり、会計で職に就き、CPA試験をパスし、ある小さな会社の管理部門担当の副社長にまでなったが、学術的な論文は何も書けなかったので、いわばPublicの目には何もとまらなかったわけで、能力不足であったことを証明したわけである。Spinozaがアムステルダムのユダヤ人社会から抹殺され、細々とレンズを磨きながら、孤独の中で瞑想し、しかも天才を示す主著Ethica(エチカ)を書きあげたのと対照的である。
経済学者・森嶋通夫によると優秀な哲学者であったカール・マルクスはドイツの大学の哲学教授になりたかったそうであるが、運命が違う道を選ばせた。(私は世界の哲学史上カール・マルクスが最高の哲学者であったと今も思う。ソヴィエトや中国の共産主義はマルクスとは全く関係ないと思うが、自分の私生児の面倒を見ないでエンゲルスに任せ、事実として放棄したマルクスの人間的欠陥もスターリニズムの非人間的展開と関係あるのかもしれない。天才的な学者が私生児を生むというのは昔から起きていたことで、有名なデカルトの子供のケースだけでなく、ヘーゲルの場合はちゃんと引き取って育てたり、ゲーテはあとで正式に籍を入れたが、アインシュタインは誰かにひきとってもらったが早死にしてよかったとかいろいろあるようだ。)マルクスが間違っていた点は、人間は死んだら無にかえると信じていた点で、これに関してはサルトルも同じ。そして、私も心霊現象の科学を40年勉強するまでは、同じ考えであった。つまり死ねば無。今は私はSoul魂の存在、エネルギー状態での存在を疑わない。エネルギー状態になってからも 記憶、思考能力、個性 などすべてを保持するようで、なくなるのは肉体だけとか。すでに1924年にLos Angelesの医者・精神科医のDr. Carl Wicklandがその著「30Years among the Dead」という本の中でSoulの存在を証明していたわけで、私はSigmund FreudやCarl Jungがこの本を読んでいたのかどうか興味がある。最高に面白く、重要な著作である。これ一冊で教会宗教など抹殺できるほどのすごい内容に富んだ面白い本で、私はブログの最後に5回に分けて紹介したほどである。(ブログ 心霊現象の科学 その109からその113まで。)日本語に翻訳紹介する価値があると思って出版社にメッセージを送ったが反応がなかった。
最近、昭和40年ごろに出版された野田又男の「西洋哲学史」を手にする機会があった。(アマゾンJapanから購入。)予備校経由、京都大学に入学する前後の出版で、在学中も野田教授がそんな本を書いているとは知らなかった。私は岩波新書のデカルトやパスカルそして「ルネサスの思想家たち」などは読んでいたが、この「西洋哲学史」を見て、哲学史家というのは大変苦労のいる職業だなと感心した。ヘーゲルの精神現象学やスピノザを読んで理解するだけでも大変なのに、中世以降の主な哲学者・思想家の本を全部原語で読んで理解するというのは大変な作業である。ヘーゲル学者だけでもいろいろな解釈があり、アドルノ―の「三つのヘーゲル研究」などを読むと、ヘーゲル理解も大変な苦労を強いる作業で、ヘーゲルのすごさがまだ全面的に解明されていないらしいとわかる。ともかく、私は大学教授には向いていなかったということがよく分かった。
人間を頂点とする全自然史を哲学的に解明する、それを自覚と方法という視点でまとめるというのが私の生涯の課題であった、ただただ会計の職をこなしながら趣味的に自然を勉強するだけで終わった。しかし、今、かなり心霊現象の科学を勉強した後でわかったことは、まさに哲学の重要問題である宗教との関係を解明する地盤が得られたということであった。無神論者であった私は“宗教の起源”を一つの大事な研究テーマと当時から思っていたが、今、Spiritualistといえる立場にいることを発見して、偉大な過去の哲学者たちの宗教との対決を批判的に研究できる場にいるのを発見した。
キリスト教の影響下で育った西洋の哲学者たちの苦労は大変なものであったと思う。ブルーノー、スピノザ、ゲーテなどが汎神論者として私が好感を持てる存在であるが、あの目茶目茶なカトリックの支配する世界で自分を主張するのは大変なことであったろう。現にブルーノーは焼き殺されたわけで、一神教のおそろしさを象徴する事件であった。原始キリスト教の状態のままで、ほそぼそと信仰が守られる状態でキリスト教が生き続ければ、世界は全く違ったものになっていたであろう。ブログでも紹介した、中世に起きた、アルビジョワ十字軍として高校の世界史にも登場するキリスト教の異端征伐というCatharist征伐は、まさにキリスト教徒といえども、自分たちカトリック教会宗教の信条に違反するものはすべて抹殺、焼き殺すということを実地に示した恐ろしい事件で、この残虐行為で1万人以上の無抵抗なキリスト教信者を消してしまうことができた宗教とは一体何なのかと一神教宗教の恐ろしさをまざまざと感じさせる。したがって、私は一神教の起源にも興味はある。大体、宗教は基本的に寛容であるべきなのに、一神教はその寛大さが欠如する。
去年からTeaching CompanyのGreat Coursesで様々な領域の講義集を勉強しているが、特に自然科学―天文学、地球物理学関係の展開はすばらしい。Origin & Evolution of Earth というLecturesは本当に興奮する内容で、まだ1Billion Yearにならない地球が燃えている状態の時に月(のオリジナル)が地球をかすめる形で衝突し、地球自転軸が23.5度傾き、月は地球の成分を持ち運び去って、どんどん地球から遠ざかっていっているとか。衝突したあとは、しばらく月は地球の目の前にあって、ものすごいスピードで地球も月も回転していたらしい。それがわかったのは、なんと1969年の有名な月面到着以来の何回かにわたる月の岩石の調査研究からだとか。今や岩石学・鉱物学が地球の起源や生命の起源といった問題を解明しつつあるとか。あるいは、我々は太陽系宇宙の惑星のなまえとして、水金地火木土天海冥 と学んだが、今では冥王星は惑星の座から外され、Kuiper Beltのひとつになったとか。Kuiper Beltの外にOort Cloudという一群があるとか。太陽からはるかかなたのOort Cloudなど太陽の重力が本当にそこまで及んでいるのかと思いたくなるほど離れているが、Oort Cloudから一番近い恒星は太陽ということであれば、やはり太陽の重力で太陽系宇宙の一部を構成しているのだろう。科学が進歩し、測定器具が進化する中で、ますますいろいろなことが解明されていくに違いない。長生きはするものだと思う。地球の起源や海の起源も、最近はどうやら隕石説が有力らしい。隕石が水分を持ち込んで大きな海が出来上がるほど地球にいっぱいぶつかったという説である。
ともかく、生命が異星に存在する可能性は充分あるが、地球ほどに素晴らしい生命体がはびこった惑星は宇宙のどこにもないのではと思う。この美しく素晴らしい地球を大切に守らなければならないというのがいろいろな勉強で学んだことである。
哲学の成立次元 とはしたがって、私にとっては現在ということであり、現在がすべての問題をはらみ解決を待っているといえる。私が論文の最後で貧弱な論文と書いた横に鉛筆で“さうでもない。”と教授のコメントが記入してあったが、本当に私はラッキーであったと思う。
村田茂太郎 2018年8月20日
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わたしの卒業論文について
私の京都大学西洋哲学史科 卒業論文について
題名:哲学の成立次元
副題: 現実的な“学”としての哲学 ― 序論
当初、哲学者からの引用なしに論文を書くつもりでいた。引用する場合は宮本武蔵 “五輪書”その他を引用するつもりであった。わたしが純粋哲学科に属していたら、そうしたであろう。わたしは自分が西洋哲学史科に属している事を思い出し、やはり西洋の哲学者を扱いながら自分の考えを展開しなければ卒論としてパスしないかもしれないと考え始め、結局、マルクスを扱いながら自分の思考を展開する事にした。
普通、学部の卒業論文は有名な西洋の哲学者の本の一部、アイデアの一部を扱うかたちで自分の解釈を展開するという形をとることが多かったはずである。
わたしは“内的必然性”という考えに捉えられ、最初の論文は、でたらめな、恣意的な選択でなく、なぜ私がそれを扱わねばならないかという序文なしには次が展開不可能と考えるに至った。
題名は自信のあらわれをそのまま表明したような恐れ多いものー“哲学の成立次元”と決めたが、まさに恐れを知らぬ暴挙といえそうなものであった。しかし、わたしにはそれ以外の題名は存在しなかった。そして、自信満々、学部の卒業論文としては最高であろうと思っていた。なぜなら、学部で1年2年誰か西洋の哲学者について勉強して解釈し書き上げたものではなく、私の論文は私の半生のすべて、全存在がかかった論文であるという自覚があったからである。
京都大学哲学科の卒業論文は50枚プラス補注という制限があった。つまり、何百枚といった論文は必要でなく、卒論の内容を評価するのに50枚あれば充分という教授陣の自信と学生への配慮であったと思う。もちろん、沢山の卒論を読みこなすのに、くだらない内容で何百枚ということでは、評価するほうも大変な事になっただろう。お互いのためといえる。
しかし、そういう制限のため、わたしはいろいろな言葉を明確な概念規定することなく、不用意に通俗慣用的意味において無造作に使用するかたちになった。概念規定をしていけば、それだけで50枚にたっして、肝心の思想の展開がなされずに終わる事になったはずで、その意味で、言葉の厳しい意味での概念規定なしにこの論文を書き上げたことは許容されたのだと思う。
わたしは大学の哲学科で勉強するよりも、私の好きな哲学書を愛読する形で自分の思想を練り鍛えた。その最大のものといえるのは、当時、立命館大学名誉教授で立命館で講義しておられた 梯明秀(かけはし あきひで)経済哲学者のもろもろの著作であった。物質の哲学的概念、資本論の弁証法的根拠、ヘーゲル哲学と資本論、社会の起源、社会科学の学問的構造、経済哲学原理、資本論への私の歩み といった著作である。私の卒論は従って、全面的に梯経済哲学の影響下に書かれたといえる。マルクスと梯の二つの支柱をめぐって私の卒論は展開されているわけであるが、直接的にはマルクスの成長過程を辿る中で、私の哲学は展開される事となった。副題 “現実的な学としての哲学” というのは、梯明秀がヘーゲルをふまえて資本論を論理学の書として読み、現実的な学としての資本論というかたちで展開されていたのを踏まえた私なりの哲学的展開であった。したがって、黙って、最後に、この卒論を梯明秀氏に献呈ということばを添えた。
今、Internetで京都大学哲学科の情報に接すると、卒論を書くための準備作業とか先輩・教授たちのヘルプとか、ドラフト段階でのみんなでの検討とか、あたりまえなのか、わたしには当時信じられないようなプロセスが慣行されているようである。わたしは卒論を書き上げるのに他の誰にも相談せず、誰も頼らず、教授に相談もせずにひとりで書き上げた。そして、今、わたしの卒論の内容を見直すと、まさに哲学した内容と思うのに対し、哲学史科の論文は哲学者の論文ではなく、特異な解釈を展開する解釈学哲学史学であって、哲学そのものとは関係ないとはっきり感じる。
わたしは哲学を“自覚と方法”という形でまとめてしまう。個々の哲学者の解釈などは大事かもしれないが、またどうでもいいようにも思える。人間の自己実現、自覚の過程を方法的に展開というかたちで私の哲学はまとまる。わたしはマルクスで大事なものはなにかとたずね、主体性や弁証法などをとりだし、そういう方法を使って自分で問題解決を図る事、方法的展開を本当の哲学と考え、哲学者が言った事、書いた事の解釈をひねりまわずことなど、私にとってはどうでもいいことであった。それゆえ、わたしは卒論の中で私の哲学の構想まで展開し、今から考えると膨大な領域に干渉していったものだと感じる。自信のなせるわざであったろう。
展開が不十分になったり、重複したり、まとまらなかったりと、問題だらけであったが、面接においては、“マルクス哲学を独自に再構築しようとする真摯な展開”と評されたり、返還された卒論のなかに教授のコメントらしきものがぽつりぽつりと記されていて、わたしが後書き(跋文)のなかで、少し卑下しながら、“貧弱な論文”と書いたところに“さうでもない”という書き込みがあったりして、わたしは少しは私の意図が理解されたのかとうれしく思ったりした。三人の教授の審査の結果、評価は “A” であった。わたしは満足した。没になったり、最下位になるのではなく、A 評価を受けたという事は、正直、教授たちがまじめにわたしの哲学ぶりを評価してくれた事であろうと納得した。
わたしは当時、将来わたしが何らかの論文を書くときに、この卒論は序文となるであろうと考えていたが、情況がかわり、結局、何の論文もかけないで終わってしまった。Wittgenstein が、生涯で論文は一冊だけ(論理哲学論考)でおわり、学士論文がそのまま学位論文にもなりというかたちで展開したが、私の場合は、まあ、お粗末な展開であったため、うずもれてしまったということになる。今、読み返すと、やはり1960年から1970年へのあの精神状況の中でうまれた論文であったのだなあという深い感銘におそわれる。清書するという書き方でなく、ドラフトをまとめあげながら短い時間で書き上げる形となったため、原稿用紙に書くのに疲れが出て、どんどん汚い字となってしまったのは残念であったが仕方がない。
今の学部での卒論内容としては、あきらかに没になるにちがいないと思う。わたしはこういう内容の論文を自分の力で書きたいように書き上げ、それを読んでくださった教授陣が“A”評価をくださったことを、まことに幸運に思う。古き、よき時代であったという感慨に襲われる。今(2010年)から約40年前、1970-1971年ごろの事であった。
この卒論のコピーを読んだ、学習院哲学科のマスターを卒業した人が、こういう論文を認めて“A”評価を与えた京都大学の教授というのは、やはり立派なえらい学者たちだなあという感想を洩らした事がある。今、あらためて、その通りだと思う。まさに幸運であった。
卒論の内容展開は反スターリニズムの精神で、マルクスの成長過程を簡単に辿りながら、マルクス哲学で“生きたもの”を抽出し、主体性や自覚の展開を、ベトナム反戦や砂川基地拡張反対闘争などを材料にしながら、そして補注では、宮本武蔵や“孤剣は折れず”を引用しながら自己主張をしつづけた。未熟ではあるが非常に面白い論文になっていると思う。学的認識の成立根拠という、わたしがいろいろな社会思想を学び始めて以来疑問を抱くようになったことをめぐって展開したものなので、わたしのそれまでの半生のすべてをつっこんだ内容となっており、今読みかえしても面白いと思う。40年前、教授たちもその辺のところをわかってくれたのであろう。(
May 4th, 2010.記す。)
“哲学の成立次元”について
“哲学”は哲学史の中にあるのではなく、場所的現在において主体的に現実と対決するときに問題が表れ、それが歴史過程の中で統一されるとき、生きた弁証法として統一される、すなわち、“哲学の成立次元”は哲学史の中にあるのではなく、現在において個人が現実の矛盾と主体的に対決する中でつかまれ、それを歴史的に総括するなかで築かれるというのが私の意図するところ、根本命題であった。その展開を西洋哲学史科の論文として作成するために、初期マルクス、特に重要な“経済学哲学草稿”をあつかいながら、同時に当時のベトナム反戦運動などの体験を踏まえて、私の考える哲学の成立する場所を考察し、それに対して、西田幾多郎とは違った意味で「“場所”の論理」となづけ、主題の補足とした。
50枚という枚数制限があったため、わたしは補注を利用することにした。注はいわゆる参考文献に対する注ではなく、わたしのアイデアを補足する必要のあるものを補充する意味でつけたもので、本来なら本文の中で展開しながら記述したはずのものであった。たとえば“スターリニズム”という言葉に対する補注など、その典型である。
哲学の成立次元 ときけば、だれも古代ギリシャを思ってしまうようである。しかし私にとっては古代ギリシャではなく、“現在”が哲学成立の場であるという確信があり、哲学と哲学史の混同を避けねばならないと思う。
宇宙の発生から、全自然の頂点に立つ存在としての人間が、自己を自覚してゆく過程が人間史であり、科学も哲学も、結局、人間が宇宙的な自己を自覚してゆく過程として捉えられる。わたしは従って、“自覚と方法”というかたちで自分の哲学を考えるようになった。方法は、弁証法である。方法的に“自覚”を探求するというのが私の構想する哲学体系ということになる。卒論50枚という制約の中で、わたしは自己の哲学の構想まで展開することになった。含んでいる内容の豊富さはおどろくばかりである。そのどれも卒論のあと、探求できなかったのは残念であるが、能力不足であれば仕方がないであろう。
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誤字や引用間違いがあるのは残念である。本論の展開とは関係ないが、“西田幾多郎”を“西田幾太郎”と書いているのは自分でもどうしたのかと驚きである。清水幾太郎(いくたろう)の字とまざったのかもしれない。さらに、小林秀雄のランボーの詩の引用で、“何故に永遠の太陽を惜しむのか”とあるところを、“何故”と“に”を抜かしてしまっているのもまずい出来と思う。まあ、今更、仕方がないことであるが。
村田茂太郎
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