形式 “芭蕉雑感”
去年〔1984年〕あたりから、私は芭蕉の世界に深く沈潜するようになった。まえから、芭蕉は好きであったが、日本文学の極北であり、俳句の世界では、誰も真似ることの出来ない大天才であると本当に思い始めたのは、去年からである。
自分で俳句を作り、また、近代・現代俳句を味わった上で、芭蕉に向かうと、芭蕉の句が作為を感じさせない、きわめて自然な言葉をえらびながら、その内容がきわめて豊かで深いことに心から感心し、これこそ天才だと、今更にその偉大さを発見したわけであった。
近代や現代の俳人でも、個々の作品については、素晴らしいと思い、時々、思い返してみるものも沢山ある。しかし、私にとっては、芭蕉ほどに、自然と一体になって、苦労のあとをとどめないような、それ程に自然で完成した作品を次から次へと創出していった人は他にない。日本語の美しさの極限の世界が、その簡潔な字数の中に、生み出されているのを知り味わうのは、なんともいえない喜びである。
志賀直哉は、日本語は美しくないと思い、信じていたそうであるが、とんでもない話であり、私は芭蕉だけを本当に味わうためにも、外国人たちは、一生懸命、日本語を学ぶべきであると思っており、少なくとも、芭蕉や万葉集や道元や小林秀雄を自国語で読み味わえるという点で、私は日本人である事をうれしく思っている。
だが、こうした古典を単純に味読できない人が多くなりつつあり、漫画の氾濫の中で、一億総白痴化して、日本文化の伝統も死に絶えるのではないかという可能性も出てきている現在、一人でも多く、芭蕉の世界のすばらしさとその魅力を知ってもらいたいと思うのは私一人ではない筈だ。
旧東海道線が京都から彦根を過ぎて、大垣に向かう途中の、関が原 あたりを通過するとき、眼前に重量感ある秀麗な山が現れる。伊吹山である。私は静岡大学工学部の学生であったとき、大阪と浜松を往復する際、急行の車窓から四季折々の伊吹山を眺めるのが大好きであった。二、三月ごろには、山麓の民家まで完全に雪で白くうまった伊吹山の壮麗な姿は、いつまでも見飽きない光景であった。私は、いつか頂上に登ってみたいものだとは思っていたが、ついに、その機会をつくらないで終わってしまった。
新幹線では、旧東海道線からの眺望のようなものは得られなかった筈で、私の記憶にはっきりと残っていない。先日、私達のアメリカでの友人がはじめて日本に行くというので、少しばかり助言を行った。その時、京都や奈良の他に、車窓からのすばらしい眺望の一つとして伊吹山の事を伝えておいたが、新幹線ではどうだか、危うい話しで、頼りないアドバイスであったと、今、思う。しかし、友人に話しながら、私自身は工学部学生であった頃、今から25年近く前の伊吹山の姿が浮かび上がってきた。
さて、芭蕉に、伊吹を詠んだ句があり、その句を見て、私は旅に生きた芭蕉も伊吹山を好きであったのを確認し、我ながらうれしく思った。
戸を開けば にしに山有、いぶきといふ。花にもよらず、
雪にもよらず 只 これ 孤山の徳あり
其のままよ 月もたのまじ 伊吹やま (真蹟詠草)
この句は、詞書と調和して、一つの完成した名句の姿を示している。前書きの中で、“花にもよらず、雪にもよらず”と言い、そして句の中で、“月もたのまじ”と入れて、古来日本人が愛惜してきた花雪月とは関係のないところで、孤峰伊吹山のすばらしさを簡潔にうたいあげており、いかに芭蕉が伊吹の美しさを嘆賞していたかを歴然と告げている。
その芭蕉に、もう一句、伊吹山を詠んだ句がある。
折々に 伊吹をみては 冬ごもり
という句で、冬篭りをしながら、伊吹山を眺める事が出来る喜びを詠っている。
(アメリカにいると、古典を読んで、スグにでも行きたいと思っても、どうする事もできない。)
今朝は、とてもさわやかな天気で、まだ七月半ばなのに、秋の気配を感じてしまった。秋の気配を感じると、私はいつも古今集の藤原敏行の名歌を思い出す。
秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる
京都で下宿していて、八月を京都で過ごしたとき、炎熱焼けるが如き八月の京都で、立秋の八日前後になると、暑い下宿の部屋の中にいても、どこからとなく一陣のさわやかな風が通り過ぎていく。そのたびに、私はこの名歌を思い起こし、その名歌たる所以を了解するのであった。古今集の歌人達は、主に、京都に住んでいたから、敏行の名歌をまさに実感をもって確認していたに違いない。
大岡信の“折々のうた”によると、江戸後期の俳人で大伴大江丸という人物が、この名歌をもじって、次のような俳句を詠んだという。
秋来ぬと 目にさや豆の ふとりかな
この句も愛らしい名句だと思う。秋の気配を感じさせてくれるのは、風だけではないよ、畠では、さや豆もふっくらとして・・・。
ところで、芭蕉にもこの季節の移り目を詠んだ名句がある。
あかあかと 日はつれなくも 秋の風
という句であり、残暑の厳しさと同時に、それにまじる秋の気配を、たった十七文字の中にみごとに凝縮して詠みあげている。この句は、芭蕉の得意の句であったらしく、しばしば人に書き与えたといわれている。日本文芸の最高傑作のひとつである俳文“奥の細道”の中の一句である。
明治歌壇・俳壇に革命的な転換をもたらした正岡子規は、この句を正当に評価する事ができなかった。どちらかといえば客観的な写生に焦点をおく子規の文学観は、蕪村の方をより高く評価する方に向かった。子規の独断であり、連句排斥とも関係している。芭蕉は“発句は門人の中、予に劣らぬ句をする人多し。俳諧においては老翁が骨髄”と常に門人に言っていたのである。俳諧(連句)こそ、自分の芸術の本質なのだと自信を持って宣告している芭蕉であるにも拘わらず、その発句だけをとりあげて、芭蕉の芸術を論じきったつもりになる愚かさは明白である。子規は短い生涯に、それなりに天才的な大革新を遂行し、逝っていった。性急な判断やあやまちが生じても当然といえる。最近、私は、ようやく、連句の世界への関心を高めるに至った。現代俳句の素晴らしさと同時に限界を感じ始めたからである。
戦後スグ、桑原武夫は“第二芸術論”を書いて、現代俳句の芸術性を問題とした。桑原のとった方法も結論も満足なものとはいえない。他の文芸ジャンルを基準にして俳句を論じる事は、俳句や短歌の特殊性を見失った空論とならざるをえない。そのようにして、いろいろな問題を含んでいるにもかかわらず、その“第二芸術論”が俳壇に衝撃を与えたのは、誰もがいつかは感じるに違いない俳句に対する疑問を土台として発想されていたからであり、私もその疑問を共有するものである。
単純、素朴な表現形式ゆえに必然的に生まれてくる曖昧性といったもの、創作者の意図とは異なった風に解釈される事が多く、しかも、その解釈はそれでよいという曖昧性、それは、どこまでも、この短型式の表現につきまとうものであろう。俳句が作者の意図する文学空間を充分表現できたとしても、鑑賞者にとっては、作者の発想の根源に接近するのは近似値においてであって、それ以上は期待できない。
そのような問題を解決するものとして、“奥の細道”は位置づけられるのではないだろうか。句が生まれる状況や背景を、引き締まった名文で展開していく、この作品は、散文と韻文(俳句)が渾然一体となって、まさに完璧な文芸の新様式を示している。私はこの“奥の細道”に関する文献を読んでいて、二つのことに驚いた。一つは、この作品は芭蕉の没後はじめて発表されたのであり、旅行のあと、この40頁ほどの紀行文を芭蕉は数年間、推敲し続けたということであり、他の一つは、単なる旅行記ではなくて、文学的必然性のゆえにフィクションを混ぜながら構成された文学作品であるということであった。ある学者は連句の形式を中に秘めて書かれているという。もし、そうだとすれば、林直道氏による、百人一首の“秘密”の発見に近いものといえるかもしれない。いずれにしろ、死ぬまで推敲していたという事実が、この俳文のスタイルの完成と俳句との関係の重要さを語っている。
最近、私は、そうした考察を踏まえて、俳句の創造には、必ず、その状況を支える“詞書き”または“俳文”が必要であると考えるに至った。単独で親しまれ、どのように解釈されても何らかの感銘を与える名句は、芭蕉にも沢山あるし、近代・現代の俳人の句にも多い。それは、それでよい。しかし、より正確な表現を目指した時、俳句は俳文(或いは詞書き)を要求するというのが、今の私の実感である。
前の“伊吹山”の句は、句だけ見てもすぐれているが、二行の詞書を踏まえて、はじめて完璧な姿を示す事になる。“奥の細道”の中の秀句の一つ、”夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡“も、”三代の栄耀一睡のうちにして・・・“に始まり、”国破れて山河あり、城春にして 草青見たり と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。“で終わる、”平泉“の文中において、はじめて、その完璧な美しさを誤解なく示す事になる。
同様の事は、和歌についてもいえる。たとえば、万葉集の3249番に読み人知らず、の名歌がある。
式嶋乃 山跡乃土丹 人二 有年念者 難可将嗟
しきしまの やまとのくにに ひとふたり ありとしおもはば なにかなげかむ
これは、現代的に解釈するとき、“この日本の土地に、愛し合うあなたと私の二人が
いると思えば、何を嘆く事があろう“という意味の、とても、いさましく男女の愛を詠ったものとして解釈する事も起こり得、実際、歌人の中には、そういう解釈をする人も居るが、現在の一般的解釈としては、”愛するあなたのような人が、もし、二人いてくれたら、何を嘆き悲しむことがあるものか。“という形で落ち着いている。なぜか。この短歌の詞書きとも言える”長歌“(3248)がついているからである。
“しき島の やまとの国に 人多(さわ)に 満ちてあれども 藤波の 思ひ纏はり 若草の 思ひつきにし 君が目に 恋ひや明かさむ 長きこの夜を” (しきしまの 日本の国には、人が多く満ちているけれども、波うつ藤のように わが思いがまつわり、若草のように 思いが離れない あなたに逢う事を願って、明かすのだろうか、長いこの夜を。“(中西 進 「万葉集」)。この中の、”人多に満ちてあれども”という表現が、“二人ありとし”の意味をはっきりと限定しているのである。
和歌における“詞書き”が“和歌”とうまく調和し、それだけですぐれた文学作品として成功している例を、私達は“紫式部集”に見ることができる。百人一首にも少し形を変えて取り入れられている、紫式部の有名な歌“めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月影”は、単独ではいろいろな情況を想定して味わう事ができるが、この“紫式部集”第一番の歌につけられた詞書きを読めば、この作品が作者十六歳ころのものであり、幼友達であった女性に再会した喜びと驚きを詠んだものである事がハッキリする。
“早うより、童友だちなりし人に、年ごろ経て行きあひたるが、ほのかにて、七月十日のほど、月にきおひて帰りにければ” (ずっと早くから幼友達であった人に、何年か経ってから出会ったが、ほんの少しだけで、七月十日頃の月が入るのと競うようにして、帰ってしまったので。)そして、同時に、その情況を巧みに成熟したタッチで扱っているのを知り、私達は、紫式部が小説だけでなく、和歌においても、早くから卓越していた事を了解するのである。
このようにして、私は、詞書き、俳文そし“連作”形式が、俳句(そして短歌・和歌)の鑑賞を創作者の意図により近づけるものであると思う。芭蕉はその形式の完成者であった。一方、芭蕉が得意とした連句は、正式には、俳諧といって、俳句とは全く異なる世界であり、独自な文学空間を創出している、世界でも稀な文学形式である。芭蕉はその最大の完成者であると共に、破壊者であった。その点、万葉最大の歌人、柿本人麻呂と同じ位置を占める。人麻呂は長歌の完成者であると同時に破壊者であった。長歌が蘇ってくるのは江戸の良寛においてであった。それぞれの形式は、この二人の天才(人麻呂と芭蕉)のために存在した。
(完 記 1985年7月22日 Word Input 2010年7月23日 村田茂太郎
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