ブログ1000件目特別エッセイ
ブログ 自殺論 (ある記憶)-残されたものの痛み ――― わたしの著作「寺子屋的教育志向の中から」からの転載
2014年11月6日
近く、わたしのブログが1000件目に達するので、記念して、なにか内容のあるものを載せたいと思い、いろいろ考えた末、わたしの著作のなかから 「自殺論」 を転載することにした。既に、このブログの中で、いくつか“自殺”に関係した記事を展開した。2012年2月26日のブログとして「いじめと自殺」という古いエッセイ(執筆は1986年2月)、2012年4月30日のブログとして「自殺論その他」と題して アーサー・ケストラーとその妻の自殺をとりあげ、2013年4月25日のブログとして、その続きとなる、「Cynthia
Koestlerの自殺をめぐって ならびに テオドール・アドルノーの妻 について」というエッセイを展開した。わたしの自殺に関する関心の“原点”を示すものとして、ここに私の著作から「自殺論」を紹介することにした。これで、私の自殺に関係した文章はすべてブログで読めることになる。これで私も満足である。心霊現象の科学に関する私の関心の一部はこのクラス・メートの自殺と関係している。昔、「原点が存在する」という題名の本が東大出身の詩人・評論家谷川雁によって1960年代に出版され、私も買って読んだことがある。たしかに”原点”は存在する。私の場合、”自殺”に関しては、この1966年の個人的な体験がソウであった。
この私が京都大学文学部学生時代のときのクラス・メートの自殺は、私の人生に起きた最大の衝撃的な事件であった。まさに私は虚無の深淵に直面し、そのなかに半年ほどおぼれそうになりながら漂っていたといえる。この思い出、“ある記憶” は19年目の思い出と書いてあるから、1985年に書いたものである。中学3年生に配ったはずである。当時、すでに日本では小学生・中学生でも自殺するものがいて、私は無関心ではなかったし、わたしの苦い体験(自殺体験ではなく、友の自殺に衝撃的影響を受けた人間としての体験)を生徒諸君に知ってもらうことによって、自殺の考えを拒否してもらう一助になればと思ったものであった。同じ意向で「いじめと自殺」も執筆した。
今年は2014年、この「自殺論」執筆以来すでに29年も経ち、あの苦渋に満ちた体験からは48年経ったことになる。しかし、50年経とうが何年経とうが、”原点”は消えることがない。いつまでたっても当時の苦渋に満ちた思い出は消えない。今も、このエッセイを読み返しながら涙が出てくるのを止められなかった。48年経っても、あのショックはいつまでも新鮮であり、いつまでも私を苦しめる。
わたしは、この心霊現象の科学への関心の結果として、直接 Mediumと電話で話したこともあり、 Los AngelesのMediumを訪問してMediumが感じることを聞かせてもらったことがある。そのとき、かならず、自殺した彼女の霊Spiritがわたしのまわりにやってきているか訊ねたものであった。2014年のMediumとのアポイントメントでは、私にとっておどろくべき内容が展開され、なるほど、そういう“可能性”もあったのかと目が覚めるような思いがすると同時に、自殺した彼女のSpiritがわたしを認めて、Mediumに“象徴”言語・イメージで語りかけようとしたのかと感激したりした。(”あとに残されたものの痛み”に関しては、私のブログ「心霊現象の科学をめぐってーその82 Suzane Northrop “The Séance” 」を参照。若くして自殺した女性がMediumに語ったという話が紹介されている。) わたしの学生時代は、もちろんマルクス研究が盛んで、宗教的な人間などほとんどいなかったはずである。したがって、誰かが死んでも、まさか霊界から話しかけるとか、霊界とコンタクトするなどというアイデアは浮かばなかったはずである。2年前、Spiritualistのメッカとして有名なNew York、 Lily Dale Cityのサイキック・Mediumと1時間電話で話し合ったとき、ある瞬間、そのMediumが苦しそうに咳をして、わたしの友人知人でLung Cancer肺がんで亡くなった人がいるのかと訊ねたことがあった。わたしはそんな人は知らないと応えたが、あとで、あるクラスメートは肺がんで、その頃、ごく最近に亡くなっていたことを知り、もしかして、50年近く無沙汰になっていたが、わたしがMediumにコンタクトしていると知って、まわりにやってきたのかもしれないと思った。Mediumは通常、固有名詞、特に名前をみつけるのが困難らしい。まして、日本人となれば発音さえむつかしいであろう。英語なら、たとえば マクドナルド とかというLast Nameなら、マクドナルド・ハンバーガーStoreなどのイメージをMediumにしめし、それをMediumは名前なのだと解釈するという進展をする。村田 などというLast Name、あるいは 茂太郎 などというFirst Nameはイメージであらわすのは不可能である。
わたしは、この心霊現象の科学への関心の結果として、直接 Mediumと電話で話したこともあり、 Los AngelesのMediumを訪問してMediumが感じることを聞かせてもらったことがある。そのとき、かならず、自殺した彼女の霊Spiritがわたしのまわりにやってきているか訊ねたものであった。2014年のMediumとのアポイントメントでは、私にとっておどろくべき内容が展開され、なるほど、そういう“可能性”もあったのかと目が覚めるような思いがすると同時に、自殺した彼女のSpiritがわたしを認めて、Mediumに“象徴”言語・イメージで語りかけようとしたのかと感激したりした。(”あとに残されたものの痛み”に関しては、私のブログ「心霊現象の科学をめぐってーその82 Suzane Northrop “The Séance” 」を参照。若くして自殺した女性がMediumに語ったという話が紹介されている。) わたしの学生時代は、もちろんマルクス研究が盛んで、宗教的な人間などほとんどいなかったはずである。したがって、誰かが死んでも、まさか霊界から話しかけるとか、霊界とコンタクトするなどというアイデアは浮かばなかったはずである。2年前、Spiritualistのメッカとして有名なNew York、 Lily Dale Cityのサイキック・Mediumと1時間電話で話し合ったとき、ある瞬間、そのMediumが苦しそうに咳をして、わたしの友人知人でLung Cancer肺がんで亡くなった人がいるのかと訊ねたことがあった。わたしはそんな人は知らないと応えたが、あとで、あるクラスメートは肺がんで、その頃、ごく最近に亡くなっていたことを知り、もしかして、50年近く無沙汰になっていたが、わたしがMediumにコンタクトしていると知って、まわりにやってきたのかもしれないと思った。Mediumは通常、固有名詞、特に名前をみつけるのが困難らしい。まして、日本人となれば発音さえむつかしいであろう。英語なら、たとえば マクドナルド とかというLast Nameなら、マクドナルド・ハンバーガーStoreなどのイメージをMediumにしめし、それをMediumは名前なのだと解釈するという進展をする。村田 などというLast Name、あるいは 茂太郎 などというFirst Nameはイメージであらわすのは不可能である。
最近のわたしの“心霊現象の科学”の探求結果は、自殺者は灰色の世界をうろつきつづけるわけではなく、家族の霊や友人の霊と合流して、いわば成仏し、Spiritとして成長していくという形を示してくれるものが多く、やっと安心できるようになったというのが私の霊的世界理解の現段階であり、今年のMediumの展開もその結果であろうと思うに至っている。
おなじ私の本の中に、「心霊現象の科学への私の歩み」と題する文章がある。これも、やはりブログにコピーすべきと思う。ブログで「心霊現象の科学をめぐって」という題名でたくさんの文章を発表しているわけだから、その“出発点”を示した文章は欠かせないように思う。本は手に入らないだろうから、せめてブログで公表すれば、わたしの主要な関心である「心霊現象の科学」に関するわたしの探求の遍歴も、よりまとまって内容のあるものとなるであろう。いずれ、「自殺論」同様、コピーしたい。(ブログ1001回目に実行 2014年11月7日)。
逆に、私自身はコンピューターやInternetにうとい人たちにも、ぜひとも私の「心霊現象の科学」探求の跡を読み、知ってもらいたいと思うので、ブログ・データーをまとめて本にしたいと思っている。いつになるかわからないが、ぜひ実行したいと思う。盆栽クラブのメンバーでInternetを扱う人は数人しか居ないので、私より若い人でもコンピューターが苦手な人も居ると知り、Hard Paper本も必要なのだと悟った次第である。
村田茂太郎 2014年11月2日
今これを書いている11月2日(アメリカ時間 Pacific Time)は、日本では11月3日である。それは、期せずして、彼女の命日!である。48年が経ったということ。この間、わたしの哲学の友人も癌で病没し、クラス・メートのひとりであった社会学者もやはり癌で亡くなったことを知った。ほかにも亡くなった人はいるかもしれない。わたしは人間50歳を過ぎると、死に対しては平等になり、年とっているから早く死ぬとはいえないと思っている。日本人平均寿命がいくら80歳90歳に延びようと、死は個人的な体験であり、統計とは関係がないのはあきらかである。ただ、それぞれ満足して死ねればよいのだが、若くして死ぬと満足などはありえないであろう。
10月31日、Halloween NightにCalifornia の Santa Anaで三人の若い女生徒(14歳?)がクルマにひき殺された。ほんとうにいつ死に遭うか誰もわからない。学校でのShootingで撃ち殺された若者のニュースもでていた。まさに私が約30年前に書いた「現代における無常観の胚胎」である。心霊現象の科学をある程度勉強した今、子供たちにMoral道徳指導だけでなく、死Deathについても一応の教育が必要であると切実に思う。
私も死を意識する時期にさしかかった。11月2日のニュースで、Oregon州で尊厳死を実行した(つまり自殺した)若い女性の話を知った。脳腫瘍で寿命あと半年とかと宣言された女性である。助からないとわかっていて、苦痛が増大するばかりということであれば、“尊厳死”は正統な行為であると思う。ただただ肉体を生かしておくのが能ではない。Soulは死ぬ時期を知っているようであり、若くして死ぬことになっても、それは駄目という話ではない。機械を使って、いたずらに命だけ延命しておくのは人間の尊厳を無視した行為だと思う。そこには死に対する恐怖心があり、まちがった生命観がある。今では私はERで救助されると、ただ肉体が生きているだけの状態で、自分で生きることも死ぬこともできないことになるかもしれないという不安感を抱く。したがって、ERがくるのは勝手だが、それまでに死んでしまいたい、つまり、“手遅れになって死ぬ”のが今の私の願いである。若い人なら、なんとかして助からねばならないが、充分生ききった今、願うことは、昔がそうであったように、へんに延命しないで、自然に普通に死ねることである。
私も将来オレゴン州に移転することを考えたほうがよいかもしれないと思う。Washington州に移りたいと思ったりしていたが、Oregonもいいところである。雨が多いのと寒いのは老人にはこたえるが、一人で生きるようになれば、いつでも法的に死ねるところがありがたい。気候的には南カリフォルニアはたしかに恵まれて最高といえるが。
村田茂太郎 2014年11月3日
以下に掲げる “自殺論(ある記憶)”― 残されたものの痛み はオリジナル・手書きの原稿をWordで、横書きで仕上げて、それを、縦書きに変更して、2011年に出版社と推敲している段階の文章を、このたび、ブログ用に横書きにコピーしたものである。したがって、日付がアラビア数字と当用漢字表示のMixになっている。Wordに横書きでInputしたとき、日付はアラビア数字で通したが、出版時、縦書き表示に変更必要ということで、アラビア数字を当用漢字表示に出版社のほうで変更した。
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“自殺論(ある記憶)”― 残されたものの痛み
自殺論は人間にとって重要な課題であり、それを論じる角度も様々でありうる。そして、そのどれもが重要である。つまり、哲学的・社会学的・心理学的・生理学的といった学的立場と歴史的・文学的といった見方をすべて総合した形の研究が必要である。そして、既に、自殺の研究として、さまざまな業績がつまれてきている。私がここで、述べようとするのは、ある人間の“自殺”をめぐる個人的な印象記であり、十九年目の回想である。
1966年十一月五日。土曜日。私は一時限目の教育学の講義を受けていた。隣に座ったクラス・メートの男性が、私がまるで当然、知っているかのごとく、“朝日新聞はずるいな、記事を載せていやがらん”とささやいた。私には何のことを言っているのか、さっぱり見当がつかなかった。誰か自殺したんだってと、頭のどこかで、ことばを聞き取ったようだった。だが、まだ何のことだかわからなかった。講義が終わってから、はじめて、私たちのクラス・メートの一人が自殺したということを知った。そして、その人が、実は私が内心、好意を持っていた女性だと知ったとき、はじめて私は、どうすることも出来ないようなショックが全身を走るのを感じた。私は自分の手も足も、いや、全身がこきざみにブルブルとふるえはじめるのを感じた。クラス・メートたちは三々五々と教養部A館地下室に集まりだした。私は自分の身体のふるえを誰にも感づかれないようにしながら、みなの動作をうかがい、頭の中では、一体どうなったのだろうと、何度も反芻していた。どうやら、わかったことは、三日の夜中に、ガスと睡眠薬により自殺した彼女を、家族は翌日、密葬したらしいということであった。クラス・メートは既にすべてが終わってしまっても、線香をあげに行きたいと考え、みんなで、ゾロゾロと歩いて家に向かった。
その日の夕方、私は静大工学部を卒業して、既に社会人になっている友人を迎えに出かけた。朝からのショックで、虚脱状態のようになっていたが、表面は平静を装い、仕事の途次、わざわざ立ち寄ってくれた親友との再会を心から喜んだ。その日の晩、友人は汚いアパートの狭い部屋に泊まってくれた。普通なら、飛び跳ねるほどうれしいことであったが、その朝の哀しいショックで、ともすれば精神が虚ろになるのを懸命に抑制して、その日を終え、翌、日曜日、私は友人と連れ立って、京都案内に出かけた。土曜日も日曜日も、食欲は全く無かったが、友人の手前もあって、私は無理をして一緒に食べた。そして、その夕方、再会を約して、友人と別れた私は、部屋に帰って一人きりになったとき、はじめて精一杯、彼女のことを思い出し、考え、そして泣いた。そのとき、私が一番仲良くしていた友人が、部屋にどなりこんできた。その前の日、友人が来なければ、もちろん、私は彼のところへ、スグに知らせに行って、二人で話し合っただろう。彼は私が知っていたのに、スグ知らせなかった、殴ってやると息巻いてきたのであった。私は事情を話し、あやまった。その晩から、私は下痢をした。その時、頭脳は興奮し、高ぶっていたが、また、一面では非常に冷静な部分があって、私自身の下痢反応を分析し、なるほど、心が動転して、食欲も何もない状態になっているとき、無理をして食べても、結局、消化・吸収細胞も働かず、何もならないのだなあと感心していた。
そのときから始まった私の心の苦悩は、収まるまでに六ヶ月要し、本当の意味では未だに終わっていないといえる。私はクラス・メートがケロッとした様子でいるのを不思議そうに眺めていた。校庭のイチョウの木が黄葉し、まっ黄色にかわっていくのを眺め、爛熟というのはこのような光景をさすのに違いない、やるせない物悲しさに満ちてと思ったりした。完全に、この世から、一人、突然消え去ってしまったという空虚感を、私は全面的に感じていた。十月中ごろから書き出していた日記は、この出来事を境にして、ほとんど毎日、つけるようになった。
私は、それまで、新聞で受験生が悲観的になって自殺したというニュースを見るたびに、かわいそうにと思いながらも、バカな奴だなあという他人事的な気持ちを抱くのが常であった。いわば、それまで、私にとっては、死は外在的なものであり、他人の死に過ぎなかった。この時、生まれて初めて、本当のショックを感じていた。既に、父の反対を押し切って、工学部を退学し、受験勉強をしなおして、京大文学部に入学したわけで、少しのことでは驚かないはずであった。そして、他のクラス・メートを見ても、二~三人を除いて、普通と同じように見えた。
私が当面した問題は、“一体、なぜ”ということであった。秀才として現役で入学してきた彼女には、将来がばら色に輝いていた筈であった。受験に失敗して自殺というのとは、少し、はなしが違うのである。私に残された仕事は、自分で十九歳になりたてで死なねばならなかった彼女の当時の思想に出来るだけ接近することであった。そして、それをしながら、私は自分の思想を彼女のものと比較し、練り直していかねばならなかった。そして、自分なりに納得するのに、少なくとも半年はかかったのであった。
そして、私は、単に、思想の問題だけでなく、もしかしたら、もう少し、私が敏感でありさえすれば、彼女の自殺の決意をとめることが出来たのではなかったかという点で、いつまでも悩み続けた。そこに、運命の気ままな戯れとも呼ぶべきものを認めたく思う。
それまで、無関心だった私は、秋になって、急に、彼女をすばらしいと思い始め、彼女のアパートに遊びに行きたいと考え、機会を捉えて、彼女に“好きだ”と言おうと思っていた。時は、ベトナム反戦運動が高まっていく時点であり、私達はクラスでベトナム戦争について論じ合い、十月十四日と二十一日には、反戦デモ行進に参加した。私は彼女と手を取り合って、デモの中に居て、単純に喜んでいた。
そのあと、大学から、講義が終わって、帰り始めるとき、今日こそは、彼女に告白しようと思って、吉田山のほうに行こうとしたとき、彼女はいつものアパートの方角ではなく、自分の家のある方向に去って行き、私はうちあけるチャンスを失った。そのあと、しばらくして、友人と二人で彼女の下宿へ行って、少し、おしゃべりしたが、その時は、既に、何も言えなかった。彼女はあるとき、他のクラス・メートと私の下宿を訪れたが、十二時ごろなのに、もう、電気も消えて、寝ているみたいだったので、起こさなかったというようなことを告げたので、私は模範生振りをひやかされて、なんとなく恥ずかしく感じた。彼女はきのうも、朝の六時ごろまで寝ないで考えていたというようなことを言ったので、私は驚いた。私には徹夜して考えるような習慣も無かったし、深刻な問題もなかったのだ。
そうして、そんな日々を送っていた頃、私達はガリ版刷りのクラス文集をだした。このときも、大学寮でガリ版刷りを行うのを彼女は手伝ってくれるはずであったが、来なかった。この文集に彼女は、小説を発表した。私が下手な字でガリ版きりをやった。題が何であったのか、何でもよく覚えているはずの私だが、忘れてしまって、思い出せない。彼女が死んでしまってからは、読み返しもしていない。今だと、どう思うだろうか。読み出せば、きっと、涙がポロポロでてくるに違いない。私の鈍感さが、もっとも悔やまれたのは、この時である。
何もかも、手遅れになってしまってから、わかったのでは、もう遅い。しかし、運命のいたずらとは、このようなものなのであろうか。その短編小説こそ、彼女の遺書であったのであり、自殺予告に他ならなかったのだ。文学的に内容を吟味する前に、精神分析的に吟味していれば、疑いもなく、自殺の予告として、何らかの手段がとりえたはずであった。もっとも、自殺は、いったん、決意してしまえば、もう取り返しがつかないといわれたりする。結局、何がどうあっても、どうすることも出来なかったのかもしれない。人はどうでも思えるし、自分の好きなように考えればよい。私にとっては、好きだと告白しようとまで思った女性が、ヒントをほのめかしているのに、気がつかないで、とうとうこの結末を招いたという苦い苦い体験だけが残った。
彼女の死の意味を追体験することだけが、私に残されていた。私にはあのとき、恋の告白が出来ていれば、或いは、あの小説をもう少し、まじめに取り上げていれば、何とかなったのではないかという、どうしようもない、やりきれない気持ちがあとあとまで残った。
ほんのわずかな付き合いの間に、私は彼女から二冊の本を借りていた。一冊はサリンジャーの“ライ麦畑でつかまえて Catcher In The Rye”で、彼女はすばらしいと言い、私もスグに読了して、すばらしかったといって返した。二冊目はジャン・ジュネの“泥棒日記”という本で、私の好みではなく、遅々として、なかなか進まなかった。そうこうしているうちに、彼女は死んでしまい、私は急いで読み終わった。そして、それを読み終わって、私は彼女へ接近する手がかりをつかめたように思った。彼女は自分の気に入ったと思われる箇所に、赤線を引いていたのだ。そして、それは、ジュネが精神の孤独や苦悩を表明しているところに引かれていた。人間の孤独、この問題が、彼女の関心の主要な部分を占めていたのだ。
彼女の死で、ショックを受けた日から、毎日、書き始めた日記は、かなりの量になり始め、その中で、私は私のやるせない思いを告白した。二週間ほどたっても、依然として、私は苦悩から解放されず、このままでは、どうかなると思い、日記を書き写して、彼女のお母様のところへ送った。いわば、死後のぶざまな愛の告白であった。そうしておいて、ほんの少しサッパリし、今度は、読み終わった本を返しに訪問した。そのあとも、私は何度か家を訪問することになった。私は、だんだん、亡くなった彼女を理解するようになり、まだ若かった彼女のほうが、人生への思いについては先輩であったことを知った。私はどうしようもなくなってしまった彼女の死を、私にとって意味あるものとするには、彼女を本当に理解してやることだと考えて過ごし、時には、私自身、やるせない気持ちになって、自殺の考えを拒否していながら、魅かれていくのを感じるようになったりした。
そうして、約半年たって、ようやく強く生きる勇気がわいてきた。そして、その苦悩の日々の中で、私は自分を本当に愛してくれる人、自分を理解してくれる人が居る限り、どんなことがあっても自殺はしないと決心した。死んでしまった人間に対しては、人はどうすることも出来ない。生きている限り、あやまることも、再出発することも、ほとんどなんだってできるのである。自分のことを気にかけてくれる人が居る限り、人は自殺をするべきでない。これが、私が下した最も強烈な彼女への批判であり、あとに残されたものの恨み言であった。死に比べれば、なんだってがまんできる。死は絶対の虚無であり、反応拒否である。死には美しいところは一つもない。希望の喪失であり、永劫の孤独であり、とりかえしのつかない断絶である。あれ以来、どれほど、私は彼女の早すぎた死とその決断を残念に思ったことであろう。生きている限りは、何だってできるのだ。一度、亡くなった生は、どうすることも出来ない。ただただ、私に虚無の深淵を指し示すばかりである。このようにして、私は苦い体験を通じて、生きている命の尊さをいやというほど、味わった。大阪の家に帰って、犬を抱いてやると、生きている生命の暖かさが気持ちよかった。死者をして死者を葬らしめよ、なんだかそんな文句があったけ、と私は考え、自分は生きねばと決心した。
私は、この、はじめての、クラス・メートの自殺で、ショックを体験し、半年も苦悩し続けたせいで、そのあとは、少しのことでは驚かなくなった。京都大学は日本で学生の自殺が一番多いという不名誉な記録を持つ。苦労して、受験勉強を終えてきたはずなのに、なぜ死なねばならないのか、生きたくても死なねばならない時がやってくるのにと、それまでは、考えていたが、死にたい人は、やはり死ぬに違いないとも思うようになった。
彼女がなくなってからも、私が直接、知っているだけでも、四人の人が自殺をし、卒業してロサンジェルスに住むようになってからも、一人のクラス・メートが自殺をし、知人の教授が自殺した。京大文学部の私が居たクラスから三人の人が自殺した。最初のショック以来、私は何を聞いても何とも思わなくなった。ただいつも、死ぬのは簡単だ、生きるのこそ難しい。八十歳、九十歳まで生きれた人というのは、それだけでも賞賛に値すると、私は考えるようになっていた。
ある特殊な情況の中で、死にしか自由がないときは、自殺も許されよう、たとえば、狂気を前にしたゴッホの場合、避けられぬ死を前にしたときなど。それ以外は、どのような困難も引き受けて、生きねばならない。自殺を途中でした人は、その責任を放棄した人だ。それが、私の自殺否定論であった。十年や二十年、生きただけの人に、人生の重みや苦悩がわかるものか、本当に自殺したければ、八十年、九十年、充分、生ききって、その上で、自殺すればよい。私には、それ以外の自殺は全く無駄死にに思われる。
その後、私はロサンジェルスで超心理学Parapsychologyの本を沢山読んだ。霊媒Mediumの研究もこちらでは盛んである。私は、単純には、信じられないのだが、ある種の霊媒を扱った本では、自殺者との対談が書かれている。自殺者は死後も全く同じ状況の中に居て、ただ灰色の世界で、どうすることもできないイラダチの中に居る。現世の苦悩は、現世で解決しなければならず、死後は生者に語り掛けられない、非常に腹立たしい世界に居て、時には自分が死んだことさえ知らないという話が、アチコチの本で書かれていた。もし、本当にそういう世界があるとすれば、自殺は、結局、苦悩の解決にならないわけである。
何年経っても、私は、最初の、彼女の自殺に対しては、いつまでも鮮やかな記憶を保ち、鈍感な私の反応振りを、未だに苦痛をもって思い出す。大阪の家にあるはずの彼女の短編小説を、まだ読み直す勇気はない。あとに残されたものの痛みは今も続く。
(完)
村田茂太郎 1985年九月二十五日 執筆
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