「心霊現象の科学」をめぐってー総まとめ その2/7
心霊現象の科学をめぐってーその18 The Haunted Universe その3 UFO
”心霊現象の科学をめぐって その13 The Haunted Universe その2” で、D. Scott Rogo の同名の本の目次を最後に紹介しました。
今回はMiracleをSkipして UFO に入りたいと思います。
わたしはUFOに関する本も沢山集めてあるのですが、あまり読む気にならなかったので、今回はRogoの本を中心に、そしてRogoもとりあげている知のジャイアントー偉大な心理学者というよりも、”人間”の学問の巨人、カール・グスタフ・ユングの小さな本 英訳 Flying Saucers をとりあげます。
今、ユングのこの本を読んでいる途中ですが、やはり、ユングはすごいと思いました。吉本隆明などは知の薄っぺらな次元で物事を展開しているような印象さえ持ちます。
わたしは、この本や有名な自伝を読んで、ユングと小林秀雄が対話することが出来ていたら、すばらしい知的冒険であっただろうと、失われた機会を残念に思います。
このユングのFlying Saucers を読むと、ユングがまさに当時、現代の問題であった、UFOに関して、積極的に関心を抱き、かなりな量のUFO文献に目を通し、自分のこれまでの研究成果をふまえて、堂々と、おそれることなく、この扱いにくいUFO問題に自分の意見を投げかけた、その大胆さにも驚嘆を覚えます。
そして、D. Scott Rogo によると、Rogoの意見ではユングはまちがっているが、そのエラーにもかかわらず、すごく重要な考えを展開している、そしてそれはRogoの考えるUFOに関するアイデアと共通しているということを認めています。
カール・ユングは1875年7月26日に生まれ、1961年6月6日に亡くなっています。
この Flying Saucers のドイツ語オリジナルは1958年に出版されています。英訳は1959年。私の持っている本は1969年。Rogoの本と同じーA Signet Book, New American Library.
すでに80歳を超え、原水爆実験や人工衛星(スプートニク)などみな知った上での意見の展開です。ここでは、ユングの本自体ではなく、Rogoの解釈をとりあげます。
The Haunted Universe からの引用です。 P87-88. A Signet Book, New American Library。 わたしが適当に意訳します。
UFOs may not be dependent on any one person's psychic projection, as Sanderson's encounter would suggest. They often mimic a cultural aptitude. In other words, our entire culture maybe projecting UFOs psychically. In the last chapter (Mysteries & Miracles), I cited considerable evidence that groups of people might project a collective psychic force to create what can best be called "Miracles." A similar explanation might exist for UFOs.
Ivan Sandersonが彼のUFO体験を述べた中で一つのアイデアを展開したように、UFOsは、ひとりのサイキックのアイデアから生みだされたとはいえないようです。 UFOはまるで、われわれの文化のもつ性向を模倣するようなことがあるからです。別の言葉で言うと、われわれ全体の文化がサイキックにUFOを生み出しているかもしれないのです。(ここではまだ未展開ですが)前章ミラクルに関する考察の中で、ミラクルといわれる現象は、沢山の人の集合によるサイキック・エネルギーが統合されてあらわれる可能性が強いということを、例を挙げながら展開しました。このUFOに関しても同じような説明が可能かも知れません。
It was the great psychoanalyst C.G. Jung, in his famous little book Flying Saucers: A Modern Myth of Things Seen in the Sky, who eloquently argued, from a purely psychological standpoint, that UFOs represent the manifestations of a cultural need. Jung did not believe that they were objective craft darting about the skies, but rather that they existed in the minds of those who saw them. Thus, they became a psychic reality. The UFOs, according to Jung, were projections reflecting a general unrest among mankind- a literal "call to heavens" in our chaotic times.
偉大な精神分析学者 C.G. Jung が、有名な”Flying Saucers 空飛ぶ円盤-空に見られた物体に関する現代の神話” という小さな本で、純粋に心理学的な観点から、みごとに論じあげましたーUFOsは文化的な必要性があらわれたものであると。ユングはUFOが客体的に空中をとびかう物体だとは信じていません、むしろ、UFOを見た人の精神の中に存在するものであると見ています。従って、UFOはサイキックな実体となったのです。UFOは、ユングに依れば、人類の間の一般的な不安を反映した産物だというわけです、文字通り、現代の混沌とした時代に”天への叫び”がもたらしたもの、と見ているといえます。
I believe that Jung made two errors in his argument. To begin with, UFOs are at least semi physical. They are objectively and collectively seen, they have been photographed, and have been left remnants behind, such as burned grass or fungus-like waste. Secondly, Jung was preoccupied solely with our modern interest in UFOs, which began in the late 1940s after Kenneth Arnold's Mt. Rainier sighting. But UFOs have been reported for centuries.
わたしRogoは、ユングは彼の論述の中で二つの誤をしていると思います。まず、UFOは少なくとも半ばは物理的に存在する実体です。UFOは客観的に、また、ひとりだけでなく、同時に何人の人にも見られています、そして写真にも撮られ、なにかが存在したという痕跡を残していますー燃えた芝生とかFungusカビのような残骸を残していたとか。第二に、ユングは現代のUFO現象、それは1940年代のケネス・アーノルドによるレーニア山でのUFO発見から始まりますが、に気をとられていますが、UFOは何世紀も前からその報告がなされています。
Nonetheless, despite the flaws in Jung's rationale, he was telling us something very important about UFOs; that we are creating them and that we have a cultural need for their appearance. The fact that they have materialized in other cultures and in other times as real objects does not force us to overhaul Jung's views too substantially. Simply recognizing that man has a vast psychic potential locked within him completes the gaps in Jung's theory.
しかし、ユングの論理の展開に欠陥があるにもかかわらず、彼は私たちにUFO現象について、何か非常に重要なことを語っています。つまり、われわれがUFOを生み出しているのであるということ、UFOが現れてくるのは、われわれは文化的にそれらを必要としているからであると。別な文化、別な時代にもUFO現象があらわれているという事実は、このユングの見方があまりにも偏っているといって、彼のアイデア全体を捨ててしまわねばならないということにはなりません。単純に、人間は自身の中に厖大なサイキック・エネルギーを蔵しているのだと認めさえすれば、ユングの理論にあるGapは完全に埋められるのです。
つまり、UFO現象は人間のサイキック・エネルギーが集合的に生み出したものであるというD. Scot Rogo のアイデアが、ユング プラス Rogo で完成するわけです。
村田茂太郎 2012年4月28日
心霊現象の科学をめぐってーその19 犬猫の場合、Nandor Fodorから
ユングやFairies そしてMiraclesの関係で、Nandor Fodorの”Between Two Worlds” を読んでいますが、そのなかに犬と猫の場合に関する話がのっています。
猫に関しては感動的な話で、この本をご存知でない方も多いと思われますので、簡単にここに紹介させていただきます。
”The Haunter is a Cat" と題するエッセイです。例によって、英文を引用し、意訳をつけます。
The question of telepathic element is important. Animal lovers will tell you that sometimes they get a message from their pet as clearly as if it were spoken. The occasion usually is that the animal is in peril of life or is actually dying. It is precisely in such eventualities that in human beings telepathy reaches its highest efficiency. We may, therefore, assume that the mysterious mental operation by which as S.O.S. is sent is the same, whether an animal or human being is in extreme distress.
テレパシーが働いているのかという問いは重要である。動物愛好者はまるで直接放話しているかのように時々、ペットからメッセージを受け取るという。そういうことが起こるのは、その動物が危機的状態にいるか死にそうなときである。人間の場合も、まさにそのようなときにテレパシーが最高の効果を発揮する。従って、われわれはこの不思議な精神が稼動して、S.O.S.を送るのは、動物も人間も同じようで、危難に面したときであるといえるであろう。
The late Grindell-Matthews told me a still more extraordinary story. His cat struggling in the arms of a London Veterinary surgeon against suffocation by chloroform, not only sent him an S.O.S. across the Atlantic, but also "televised" the scene of its last moments. In a signed statement Grindell-Matthews says:
亡くなったGrindell-Matthewsが私に特別な話をしてくれた。彼の猫がロンドンの獣医によってクロロフォルムで殺されそうになっているときに、S.O.S.をアメリカにいる主人に送っただけでなく、最後の場面をまるでテレビを見るようなかたちで、送ってきたと。
私は1924年に生後6ヶ月の小さな黒い猫をもらった。彼女は屋根の上で遊ぶのがすきであったが、或る晩、この屋根から8Feet下にころげおちた。番人が見つけてバスケットに入れて自分のところにもってきてくれた。みたところ、歯が折れ、背中が折れているようであった。獣医に電話して、来てもらった。注意深く調べたあと、獣医はできることは眠らせることだといった。わたしが抱いてやると、まるで助けてと訴えているようであった。私は彼女を死なしてはならないと感じ、彼女は苦痛を感じているのかと獣医に訊くと、下半身が麻痺しているようだから、苦痛は感じていないだろうとのことであった。明朝、X-rayで調べて、一体どうなっているのか詳しくみてみるということになった。翌日、X線はあきらかに背骨が折れていることを示していた。獣医はそんなに苦しんではいないだろうとの意見であった。それで、私はあらゆる手段を使ってその猫を助けてくれるように依頼した。約二週間後、わたしが会いに行くと、猫はとてもうれしそうであったので、そのままPick Up して、家に帰った。三週間から一ヶ月、私は二時間ごとにBrand's Essence を夜も昼も与えた。だんだん強くなり、走り、遊ぶようになった。そして時々、立とうと努力するようであった。数ヶ月経つと強くなり、よくなっていった。わたしが研究所から帰るのをいつも待ち、一度も私から離れようとしなかった。わたしのベッドで眠り、その愛情のこまやかさは人間的であった。
事故から約一年経って、私はNew Yorkにでかけなければならなくなり、猫を置いていかねばならなくなった。そして、3週間経った或る朝、5時ごろ、冷や汗をかきながら私は目覚めた。
I had had a most awful nightmare of the cat struggling in the hands of a man in a white smock, with a goatee beard, evidently about to destroy her. The bedroom was reeking with chloroform and when my secretary came at 10 o'clock I instructed him to shoot a direct cable to my flat in London, to which I received no reply, asking if the cat were well. All the rooms of the apartment in New York seemed to me to be flooded with the smell of chloroform though no one else could detect it.
私は、ヤギ髭を生やし、白い上っ張りを着た男が、あきらかに猫を殺そうとしており、その猫が男の手から逃げようともがいているという、恐ろしい夢を見て、目が覚めた。ベッドルームにはクロロフォルムの臭いが充満していた。10時に秘書がやってきたとき、ロンドンの自分の部屋に直接ケーブルを打つように指示した、猫が大丈夫かどうかとの質問であったが、それに対する返事は無かった。New Yorkのすべての部屋がクロロフォルムのにおいでいっぱいであるように私は感じていたが、ほかのひとは誰も感じていなかった。
I made arrangements to leave at the earliest possible moment, and ten days later I arrived in London. During those ten days, I could not get away from the smell of chloroform. On my arrival at the flat, I was told that the cat had pinned and refused to eat anything from the day I left London, and the housekeeper thought that it would be kindest to have her destroyed. She had been asked to give me this news in reply to my cable.
私はすぐにでも帰れる準備をし、10日後にはロンドンについていた。その10日間、私はクロロフォルムのにおいから逃げることは出来なかった。私のアパートに帰ってきてから、事情を聞かされた。猫はやつれてしまい、ロンドンを去った日から何にも食べなくなってしまった、それで家政婦が死なすのが最善の処置だろうと判断した、そしてケーブルには返事しないで、直接このニュースを伝える事にしたとのことであった。
Two or three days later I checked up on the time and date, and they absolutely tallied with the time I had the nightmare in New York. The veterinary surgeon (whom I had never seen or heard of in my life) had a goatee beard.
二三日後、わたしは日時を調べてみた。私がNew YorkでNightmareを見た日時とぴったりであった。私が一度もあったことも聞いたこともない獣医はヤギ髭を生やした男であった。
By what manner of means did the agony and death struggle of the cat under chloroform reach Grindell-Matthews’s mind? The scent was apparently televised. The cat could not have done it. Mr. Grindell-Matthews's awareness must have been instantaneous. The only possible speculation that fits the case is that those whom affection binds together are, like the trees of a forest, always in contact below the level of consciousness. As the uprooting of a single tree is communicated to the other members of the sylvan community by the vibrations of the soil, so may be the psychic earthquake of death reach one who loved and unite him, at the greatest crisis of life, with the object of affection.
どういう手段で、クロロフォルムで死のうとしている猫の苦痛とそのあらそいが、彼のMindに届いたのであろう?においは明らかに電送された。猫にはやれなかっただろう。彼の察知は瞬間的であった。このケースを説明できるアイデアは愛情でつながったもの同士は、森の木々のようなものかもしれない、いつも意識の下でつながっているのだ。それは丁度、一本の木を根こそぎにするような行いが、大地の震動によって森の共同体のメンバーに伝わるようなものである。死というサイキック的な大地震が愛した人につながり、最大の生命の危機において、愛情という形でつながるから、こういうことが起きるのであろう。
わたしは Nandor Fodorという ParapsychologistはReasonableなまともな人のように思います。ほかの件でも、彼の言っていることは私を納得させます。
彼が森の木々のアイデアを出して、瞬間的なTelepathicな出来事の説明をしているのは、なかなかすばらしいと思います。
それにしても、このGrindell-Mathews という人と猫の関係は見事なものです。食べなくなれば栄養注射でもやるべきではないか、と私は思いますが、この出来事は1924年のことだといいますから、仕方がなったのかしら。なんとなく、ひどい話に思えます。
これでわかるのは、麻酔のクロロフォルムがラクに死ねるものではないということで、別項 自殺に関する文章で、この睡眠薬、麻酔を扱う予定です。
村田茂太郎 2012年4月30日、5月1日
心霊現象の科学をめぐってーその20 犬猫の場合 その2 Nandor Fodorから
その19で、猫の例をあげました。それは全く感動的な猫と人間の関係を示していました。それは悲劇でもありましたが。Nandor Fodor の解釈もすばらしいと思います。
今回は、犬の例を、同じくNandor Fodor からあげます。これは、恐い話でもあるので、Nandor自身の体験談も加えておきます。
”The Haunter is a Dog" 亡霊が犬の場合。
Apparently, it makes no difference whether the ghost is human or not. One would expect a ghost dog to be less frightening, Pierre Van Passen's blood chilling story tells us otherwise!
明らかに、Ghost亡霊が人間であるかそれ以外であるか、違いはないようである。ひとは犬の幽霊はそれほど怖くないと思うだろう、しかし、Pierre Van Passenの血も凍るような話は、別なケースもあるということを教えてくれる。
パリから1時間の距離にある彼の家で、夜の11時に、地下から階段を上っているときに、彼は何かが彼にさわって通り過ぎたように思い、見ると、大きな黒い犬が降りていくのが見えた。彼は、家の中を探し、彼の二匹のPolice Dogを家の中に入れて、一緒にさがした。犬は別にいらだったサインも見せなかった。次の夜も同じ時刻に黒い犬が降りていくのを見かけた。時計仕掛けのように、この現象は毎晩同じ時刻にくりかえされた。そして、突然、それはやんだ。彼は5週間、フランスを出なければならなかった。彼が戻ってきたとき、Maidはこの家には亡霊が棲んでいる、もうイヤだと宣言した。そこで、近所のひとが、19歳になる息子を連れて、重い棒とレボルバー(銃)で武装してやってきてくれた。
Van Passen は書いている:
We sat in my room, with the door wide open and all lights in the house on full blast. And sure enough, at the stroke of 11, we heard the patter of dog's feet coming down from the second story...A big black dog stood at the foot of the stairs in the vestibule downstairs. The dog looked up at us. My neighbor whistled and the animal wagged its tail. We started down the stairs, keeping our eyes on the apparition. We had not gone three steps when the outline of the dog grew fainter and fainter and presently vanished altogether. There we searched high and low once more, but no trace of a dog.
私たちはドアーを大きく開け、家の明かりをすべて煌々と照らし、私の部屋ですわっていた。そして、まちがいなく、11時のサインとともに、私たちは犬の足音が二階から降りてくるのを聞いた。大きな黒い犬が階段の下、階下への降り口で立ち止まり、私たちを見つめた。近所から来た人が口笛を吹くと、その動物はおしっぽをふってこたえた。私たちは階段をおりようとした。目をその犬の亡霊に向けながら。三階段も降りないうちに、犬の輪郭がぼけてきて、どんどんうすくなり、とうとう完全に消えてしまった。私たちは二階も地下も、もう一度調べてみたが、犬の気配は無かった。
So far the story is just remarkable: the dog showed signs of recognizing humans and vanished, like the Cheshire cat, in front of the three people. They tried to joke about it, calling it "Fido, the phantom poodle." Then Pierre Van Passen decided to have his two police dogs watch the apparition.
そこまでは、きわだった話ということである、つまり、犬は人間を認知し、そして消え去った、丁度、不思議の国アリスのなかの 有名なCheshire Cat のように。彼らはそれに関して冗談の話題にし、”Fido まぼろしのプードル”と呼びさえした。そこで、Pierre Van Passenは彼の二匹のPolice Dogsにもこの亡霊を見せようと決心した。
This led to horrible scene. The dogs pricked up their ears at the first noise on the floor above and leaped for the door. The sound of pattering feet was coming downstairs as usual, but I saw nothing. What my dogs saw I do not know, but their hair stood on edge and they retreated growling back into my room, baring their fangs and snarling. Presently they howled as if they were in excruciating pain and were snapping and biting in all directions, as if they were fighting some fierce enemy. I had never seen them in such mortal panic. I could not come to their aid, for I saw nothing to strike with the cudgel I held in my hand. The battle with the invisible foe lasted less than two minutes. Then one of my dogs yelled as if he were in the death throes, fell on the floor and died.
この私の企てが恐ろしい結果を招いた。犬たちは最初の二階からの雑音に対して耳をそばだて、ドアーにとびかかった。いつものように下りてくる音がしたが、わたしには何も見えなかった。犬たちが何を見たのかわたしは知らない、しかし、彼らの毛は逆立ち、うなりながら、私の部屋に戻った、牙をむき出し、うなりながら。やがて、彼らはまるで拷問の痛みにあっているかのようなうめきを発し、あらゆる方向にかみつき、かじろうとしていた、それはまるで彼らが凶暴な敵と格闘しているような感じであった。わたしは今までに彼らがこんなに瀕死の恐怖にあったのを見たことが無かった、しかし、私には何も見えなかったから、助けに行くことすら出来なかった。わたしは手に棍棒をもっていたのだが。見えない敵手との戦いはものの二分もかからなかった。そして、一匹の犬がまるで瀕死の苦闘をしているような叫び声を上げた、そして床に倒れ、死んでしまった。
An invisible dog, fighting and killing a police dog---surely this is material for a thriller. Only one story rivals it in horror; haunted Ballechin House in Perthshire, England, which Lord Bute had leased for an investigation by the Society for Psychical Research.
見えない犬、警察犬と戦い、ころしてしまうーたしかに、これはスリラーのテーマである。これに匹敵するホラーストーリーはイギリスではBallechin幽霊屋敷だけである。
Can a dog return from the dead? I have personal contribution even though I do not know that my dog was dead or alive somewhere dreaming himself back to my house so vividly that we heard the patter of his feet and something much more credible.
犬は死んでからかえってくる事が出来るのか。ここで、私は自分の体験を語ることが出来る。私の犬が死んだのか生きていて、もどってくることを夢見ているのか、たしかなことはわからないが。(もちろん、死んでいることは、Fodorは知っている。)犬の足音や、もっと確実なことを訊いたのだが。
I gave away the dog because it chewed up valuable things during the night. It was a bad day for us. My daughter sobbed during the night and we were all very upset as the dog was very affectionate and we loved him. I thought that the society to which the dog was returned would give him away to somebody else. It never occurred to me that dog might be destroyed, and -subsequently- I was afraid to inquire.
わたしは飼っていた犬を、夜中に貴重品を噛むということで、もらってきたSocietyに返してしまった。そのため、わたしたちにはとても気分の悪い日であった。犬自体は非常に愛着があり、私たちはみな彼を愛した。わたしは、そのもらってきたSocietyが犬を返せば、他の適当なところにまたもらってもらうのだろうと思っていた。犬は殺されるかもしれないということは、一度も頭に浮かばなかった。その後も、恐くて、訊けなかった。
犬はわたしのベッドルームの前の小さな通路で眠るのがいつものことであった。夜になって、突然、私は目が覚めた。なにかがドアーを入ろうとしてか、おこそうとしてか、引っかいている音がした。それは、今まではそんなことはしたことがなかったのだが。それから、私と、すでに目覚めていたワイフが、犬の足音がDrawing Roomのほうに遠ざかるのを聞いた。それから突然、娘が犬に教えたやり方で、ピアノの鍵盤をたたく音が聞こえた。娘は寝ており、私とワイフのほかには誰も居ないのであった。わたしの罪の意識が生んだ結果で、ワイフとも共有する事になったのか、それとも生きている犬の夢のあとか、死んだ犬が亡霊として訪れたのであろうか。別に恐怖は感じなかった。ただ、Wonderment感嘆だけがのこり、それは二度と繰り返されなかった。
I have heard many similar stories. It stands out in all of them that loving animals never come back to hurt or scare. It seems as if they would only appear to give a message of continued existence.
私は同じような話を沢山聞いた。すべてに通じていえることは、愛された動物たちは傷つけたり、怖がらせたりするためにかえってくることはない。彼らがあらわれる唯一の理由は、この世が終わっても、また別の次元があって、存在し続けているということを伝えようとしているようだ。
The life substance or the personality that makes up a devoted animal may persist for a while. Whether it endures, that is the great question which concerns human beings and animals alike.
生命の実体というか、献身的な動物をなりたたせている個性は、死んでからも、しばらくは持続しているようだ。それが、しばらくというのではなく、ずっとそうなのかどうかは、人間にも動物にも関心のある最大の問題である。
適当に意訳しながら、Nandor Fodorの話を紹介しました。
犬も猫も、サイキックな面から見ると、人間と同じようなものだということがわかります。より繊細だということは別にして。
これを読むと、わたしは死んで無に返るのでなくて、PepeやSashaやDuchessやSandyその他、ももろの愛した犬猫が私を待っていてくれているのかもしれない という楽しい期待が生まれてきます。
そして、犬や猫といえども簡単に死なしてはいけないということがわかります。
村田茂太郎 2012年5月1日
心霊現象の科学をめぐってーその21 Dr. Nandor Fodor “Survival”
Dr. Nandor Fodor に関してはすでに何度か取り上げてきました。
ここでは、PastorであるAllen Spraggett というひとの1967年に出版された ”The Unexplained" という本を手がかりにして、Nandor Fodor というハンガリー人の精神分析学者兼Parapsychologistについて展開したいと思います。
Fodorは1895-1964ということで、69歳でなくなりましたが、その少し前にこのSpraggettはFodorにInterviewをしました。それが、この本に載っています。
1964年といえば、私が何度も引用し、参考にした彼Fodorの有名な本”Between Two World"が出版された年です。いわばこの本はFodorのPsychic Investigatorとしての総括みたいなものだったわけです。
わたしの蔵書を調べてみて、Fodorの本で”The Search for the Beloved" という本を持っているのがわかりました。これは、内容的にPsychic Investigationではなく、精神分析学の系統の本のようですが、彼のParapsychologyへの関心が直接影響しているような、内容のようです。つまり、まだ生まれる前のPrenatal Traumata が産まれた子供のPsychic Lifeに影響をあたえることを、Hypnosisその他を使って研究した本です。母親の妊娠中の生理的精神的反応がTelepathicに胎児に影響するといった研究。
FodorはPoltergeist研究で直接Freudと知り合う事になり、フロイトからその研究に対するお褒めの言葉をいただいたわけですが、Fodor自身はあくまでも、批判的な科学者として対応し、有名なフロイトのDeath Wish へも、厳しく批判("The desire to die is not human.")したことでも有名です。
すでに何度も既述してきましたParapsychologistのHereward Carrington が、際立ったMedium Eileen Garrett にであって、やっと生者とは独立したControl Soulの存在を確認できたように思い、Life After Death が存在するという結論に達したことは記しました。
Dr. Nandor
Fodor は彼自身の本の中では、Life after Death を直接確認した文章は書いていないということで、このInterviewerである Allen Spraggett が直接 Fodorに、人間にとって最も大事なこの問題Human Survivalに関する率直な感想・意見を聞き出しています。
今、このInterviewでのFodorの意見というのを読むと、すでに挙げたサイキック Rosemary Brown ”Unfinished Symphonies"のControlともいうべきフランツ・リストの亡霊Spiritが展開した理論、つまり、この地球上での人生はいわば幼児期みたいなもので、違う次元でますます発展していかねばならないということ、この人生をまともに真剣に生きれば、次の次元で、さらなる魂の向上が望まれるといったリストの説明と同じような考えをFodorが抱いていたことがわかります。Rosemary Brownの本は1971年出版で、1964年に亡くなったFodorがBrownを知っていたとは思えませんから、彼自身の研究成果から導いた意見でしょう。
死後のHuman Survivalに関する証明はむつかしい。絶対的なといえるのはほとんどない。しかし、自分は三回それを確認出来るような経験をした。ひとつはTrumpet Séance でオヤジの声をきいたとき、ほかに・・・・。
Psychical
ResearchはSoul(Psyche) の存在を認め、Modern PsychologyはSoulの存在を認めていない。それは、たとえていえば、ナイチンゲールの存在を認めないで声の研究をするようなものだ。
このSpiritualな経験を構造が解明できないから存在しないなどといえない、今はなぜ、どう機能しているのかわからなくても、そういうことが起こるということは事実であり、われわれはそれを知っている。知るために理解しなければならないというものでもない。わからなくても、知っているということはある。
わたしが死んだら、この世の人とCommunicateしたいとは思わない。After-deathの状態を探求するほうが重要で、それはこの世に残してきたことについて心配するよりも、大事なことだ。Spiritualな発展が不可能で、この地上の生命に何時までも執着するようなひとは、別として、ふつうは、そんな瑣末な事にこだわっていられず、もっと自分のSpiritの向上を目指すはずだ、なぜなら、この世の人生はまさにKindergarten にいるようなものなのだから。
人間の生命というのはわれわれが自覚するよりも大きなものである。われわれはそれがいかに大きいかを知らない。われわれは成長という目的から見れば、幼稚園に居るようなものだ。
わたしは幸福とか不幸というのは人生の目的ではないと思う。目的は成長ということだ。そして成長するためには、社交的で、他の人のためにならねばならない。Growth と Service これらが、人生の二つの基本的目標だと思う。わたしはこの肉体が滅んでも、そのGrowthは継続すると思う。なぜならそれは基本的な宇宙の過程といえるものだから。・・・われわれがこの幼稚園をさるとき、われわれはさらに成長してゆく…
というような、Interviewの展開で、Nandor Fodor自身は、死後の生命の存在の証明はむつかしいが、自分は三回それを確認したといっていました。そして、リスト同様、この地上の生命は幼児期にあり、違う次元に移って更に成長し続けていかねばならないというのが、彼の結論でした。
彼によるとフロイトもMysticであったが、ただ精神分析学もまだできたばかりで、Mysticismと関係があるなどということで、学会から問題にされなくなると困るので、いわば隠していたようなもので、フロイトのテレパシーに関する彼自身の意見その他はみな彼フロイトの死後発表されたということです。
そういえば、有名な、フロイトの、生まれ変われるのならば、次回はParapsychologyの研究をしたいという意見は、Hereward Carrington(当時、American Psychical Research のDirector)への手紙で1921年に表明されたといわれています。”If I had a life to live again, I should devote myself to psychical research rather than to psychoanalysis."
村田茂太郎 2012年5月5日
心霊現象の科学をめぐって - その22-29
その22-オーラ についての感想 その1
先に、Eileen Garrettというすぐれたサイキックは子供のころからオーラ で動植物のすべてがすぐに健康状態かどうかがわかったという半自叙伝のなかのお話を紹介しました。(その3)。
わたしはサイキックでもなんでもありませんが、彼女の話は信じます。
見える人には見えるということであって、それはたとえば赤外線写真を撮れば人でも動物でも、とくに発熱体である温血動物は熱を発しているのが写真に写るので証明できます。人間は動物のなかで、知的に一番発達したため、大事な機能を退化させていったように思います。
したがって、オーラという、人や動植物など生体を蔽うカバーのようなものがあってもふしぎでないし、それを見える人が居てもおかしいとは思いません。よく、健康な人のオーラは明るい色をしているが、病気を持っている人や死にそうな人は暗いオーラを示しているといいます。本当だと思います。
わたしたちはみなある程度はサイキックで、強弱の違いが在るだけだと思います。
たとえば、幸せに満ちた家をおとずれたとき、あるいは不幸な家をおとずれたとき、私たちは言われなくても、この家はあかるい幸せな家庭だなとか、金持ちだけど不幸な家庭だとか、それとなくわかるものです。
さて、誰もが経験するものに、「背後に視線を感じてふりかえったら誰かが凝視していた」というケースがあります。これは頻繁に誰もが体験しているはずです。イギリスの生物学者であたらしいScience、Morphogenetic Fields の説を唱えている Dr. Rupert Sheldrake は表題に「The Sense of Being Stared At] という題名の本を発表しています。世界中からのそうした背後に視線を感じたケースの報告を集めて、何か在るのかをしらべようとしています。 表題のつづき”And other aspects of the Extended Mind" という名前から見て、Extended Mind の働きと見ているようです。主に、統計データで埋められた本ですが、彼はイギリス本場の正当科学の領域で、異端と見られながら、たくましく自説を展開している興味深い学者です。
そこで、この背後からの視線を感じる というのは探偵小説では特に重要な働きをしていますが、どういうことでしょうか。
私の理論は、このオーラ説を背景にして、人間は自分では感じなくても丁度、ヴァン・アレン帯のように、自分の身体をオーラの遮蔽幕が蔽っている、そして誰かが見つめる視線が放つエネルギーをその自分のオーラの幕がキャッチして、なんとなく第六感が働く、そういうことではないかと思っています。いつか、オーラをCatchできるほど科学が進化する日が来るのか、ただの妄想で終わるのかというところですが、わたしはある種の人、Eileen Garrettその他たくさんいますが、彼らの能力の方を信じます。M.B. Dykshoornなどもそういう能力、普通の人には信じられないような超能力をすべての領域にたいして保持していたようで、”人間”の解明のためには重要な存在であったと思います。
村田茂太郎
2012年2月29日
その23 - オーラについての感想 その2
今日、わたしのPsychic Science 蔵書の中から、”The Aura" オーラと題する本を見つけました。著者はWalter. J. Kilner で Human Atmosphere という題名で1911年に出版され、わたしのもっているのは1973年に Samuel Wiser, Inc. から出版された本の1974年第二版です。
この著者はイギリスの医者で、丁度、19世紀末、レントゲンが発見され、X線を使い始めた頃で、彼は病院のDirectorとしてX線をつかって活躍していました。
Clairvoyant透視者がオーラがみえるというのを信じ、探究熱心な彼は、一方ではOccult文献を深く調べ、一方では科学者として、何とかして普通の人間にもオーラが見えるようにしたいもの、丁度、レントゲンがX線によって、人体を別な視点から見えるようにしてくれたように、と思いました。彼の研究のベースはしたがって、物理的にあるいは生理的に人体から発生するオーラという自然現象を(つまりオカルト的でなく、自然に生命体に生じる現象として)なんとか自分も見てみたいということでした。
彼はそして、自分でさまざまな実験の末に、オーラを見ることができるレンズ(Filter)を作るのに成功し、それをつかって、健康な人や病人のオーラを観察し、このオーラをみることによって、病人の診察効果があがると確信をもつようになり、この本を書いて世間に発表したわけです。
残念ながら、当時の科学者・医者は、いつの時代もおなじことですが、あたらしい発見をまじめにとりあげず、無視しました。それはオカルトだと思ったようです。著者はオカルトも勉強しましたが、彼の研究内容は科学的であり、実際の効果を確かめたうえでの発表だったのですが。
1921年ごろ、やっとそれを好意的に評価する意見もあらわれましたが、すでに時遅く、彼は1920年に亡くなっていました。
1958年にSemyon と Valentina Kirlian という夫婦のソビエトの科学者がオーラを写真に撮る Photographic Technicを発表し、それが今ではKirlian Photography として知られています。UCLAのDr. Thelma Moss もソビエトを訪問して、その事実を知り、そのあとUCLAでも実験して、彼女の『Probability of the Impossible] という本の中にも、写真を載せていました。
このKirlian Photography はたとえば、Big Leaf Maple かえでの葉っぱの一つを半分きりとって、その装置で写すと、半分ちぎれているにもかかわらず、全体の姿がうつり、もちろん切れたところもちあがって見えるということがわかりました。そして、葉っぱの全体が、まさに発光するオーラで蔽われていたのです。そして、もちろん、人体で研究しやすい指の写真をいっぱい撮りました。そして、指からもオーラが発光している状態がうつっていました。この葉っぱの一部がなくなっているのにもかかわらず、写真にうつることから、人間の体の一部がなくなっても、痛みを感じたり、まだ在るように感じたりすることの説明が在る程度可能なようになりました。
1911年のDr. Kilner の工夫は、写真カメラではなく、丁度、日食を観測するときに黒いFilterつきのめがねを用意するように、彼はFilterを作ろうとしました。Coal-tar Dye を工夫して、Dicyaninという物質を作り、めがねのレンズに塗ってBodyを見ると、なんと、オーラが見えたのです。その後のいく度かの実験で、そのFilterをはずした素眼でもオーラがしばらくは見えたと報告しています。
彼は自分の作った装置を使って、病人のオーラ、健康人のオーラといろいろなケースのオーラの図を自分で描いて研究しました。
Dr. Kilnerだけでなく、Oscar Bangall 1937年も有名です。アメリカではThelma MossのほかにDr. Stanley KrippnerなどがやはりKirlian テクニックで研究し、 The Kilrian Aura という本を Rubinとの共著で発表しています。
したがって、オーラはあるかないかではなく、オーラはあり、それが普通の素人でもみえるか、サイキックなClairvoyantのような人しか見えないのかという違いです。オーラの研究も健康な人と病人との違い、病人でも病気の種類によって、また色や力強さ、その他いろいろ研究材料はあります。ユーリー・ゲラーは強烈なオーラを発し、それを異物に転移することもできたそうです。
村田茂太郎 2012年3月7日
その24 - オーラについての感想 その3
この前、Dr. Kilnerの1911年に出版された本を見つけ、そのなかにFilterを自分で作って、動植物のオーラを観察して、充分納得した後で、この本を出版したが、まじめに相手にされなかったというお話をしました。
今日、わたしが36年前(1976年)に買った本を見つけだし、その中に、かなり詳しく、オーラを観測する技術について書いてありました。
Handbook of Psychic Discoveries という題名で、著者は Sheila Ostrander と Lynn Schroeder。
この名前を聞けば、すぐに思い当たる本があります。 ”Psychic Discoveries behind the Iron Curtain"という本の著者なのです。この本が爆発的な影響力をふるって、アメリカでのPsychic Science の研究が本格化し、一挙に一般大衆の目にとまるようになり、Pyramid Powerなどが騒がれだしました。
丁度、わたしが興味を持ち出す頃(1975年、拙著のなかの、”パラサイコロジーへの私の歩み”)にあたっていたわけで、さまざまな興味深い本が出版されました。わたしは古本屋まで探して、いろいろ興味在る領域の文献的探究に入っていったものでした。
それはさておき、このHandbookのほうには先述の Kirlian Photography だけでなく、Aura Detector (?) Schlieren System まで紹介されています。そして、Dr. KilnerのDicyanin dyeについても、ちゃんと書かれています。Kilner System をFollowして研究しているグループもあるようです。一方、たくさんの科学者はNegativeな態度を取っているということです。 このHandbook は1974年の出版ですから、その頃の話です。
このAura Goggkes とか Filtersはちゃんと市販されているそうです。(1974年の話)。
また、オーラを見るという別の方法、Schlieren Systemについても、100ドルほどで売られているが、自分でPrimitiveなものを作れば、数ドルで作成可能、などとも書かれています。
この本には、Energy Fields Detectors ということで、Burr Volt Meter, Schlieren System, Supersensitive Multipliers, Kirlian Photography, Sergeyev Detector、Tobiscope Biometer, Gulyaev aura grams, Complex bio electronics equipment など、それぞれ独自のFieldsをDetectする装置がリストされています。
このHandbookにはAura Training Technique まで述べられています。
Many people have learned to see emanations and fields around bodies of living things and believe that practice develops the ability to perceive this energy surround. They say the ability is akin to learning to look in the right way, and with the proper focus.
と書いて、サンプル オーラ Trainingテクニックを紹介していますが、ここでは省略します。
これを読んでいて、わたしはカールスバード洞穴の“こうもりの飛翔”(拙著のなかの”コウモリの飛翔”)を見たときの事を思い起こしました。いったん、こうもりが ある一団となって雲のように飛んでいくのがわかると、はなれたところにいても、あれがそうだとわかったわけで、一度もそういうものを見ていないと、全然気がつかないということでした。
ともかく、このHandbookは情報量が豊富で、役に立ちそうだとわかりました。
この本の著者はVirginia Beach のSleeping Prophet といわれたPsychic Edgar Cayceの言葉を引用しています。つまりサイキック現象は、そのうちに誰でも直接見られるように科学計測機器も進歩するだろうと1939年に言っています。ということは、科学が遅れているためにサイキック現象を目で確認できない情況に在るが、サイキック現象は存在すると保証し、宣言している事になります。
Edgar Cayce は重要な存在で、科学者は彼の残した資料を無視できないと私は思います。
特に夢の研究では、ものすごく重要だと思います。
ともかく、オーラの研究に関しては、まじめにオーラが見えるような装置を作ろうと考えている人が居たということを知るのはうれしいものです。現象を否定するのではなく、あるとしたら、どうすればCatchできるかという方向で科学はすすんでいってほしいものです。
最近、Reincarnationで有名な(1950年代)Bridey Murphy の話に関して、当時のMediaや教会の牧師がReincarnationを否定するための証拠を捏造して、Bridey Murphyを否定しようとしたが、1962年の段階で、Brown大学の有名な名誉教授C.J. Ducasseがすべての反証をくつがえし、やはり、Bridey Murphy の証言自体は正しい、しかし、それからすぐにReincarnationに行くのは問題で、昔の誰も知らないような情報がどうして、Paranormalな形でその女性に獲得されたのかということが、問題だと書いている文章を読みました。つまり、確かにBridey Murphy の情報は正しいということまでは認めるが、Reincarnationまでは認めないという証言。この名誉教授の反証はみごとで、最後にReincarnationを認めるのかなと思ったら、Paranormalな形で獲得と言い換えて、おわり。そこで、彼が転生を認めないにしても、人間には非常に驚くべき特殊な能力が在るということを認めているわけです。Reincarnationを認めればすべてが簡単に説明できるけれども、それ以外で説明しようとすれば、難問。Reincarnationは難しい問題です。
いずれ、そのうちに Dr. Guirdham の Cathars and the Reincarnation に触れます。
村田茂太郎 2012年3月8日
その25- オーラについての感想 その4
わたしはEdgar Cayceの本をたくさん持っています。ほとんど、みな1980年以前、つまり30年以上前に買ったものです。Psychic Science関係の本を集中的に購入したのはやはり1976年前後で、たいがいはそのころに手に入れたようです。
さて、そのEdgar Cayceの本をしらべてみて、「Edgar Cayce on ESP」 という本が見つかりました。
その中に、Chapter7 Auras というのがあります。
これが見事な要約で、これをそのまま引用して、訳をつけようとしましたが、Copyright問題になるといけないと思って、要点だけ記します。
Edgar Cayce は子供のころから、Eileen Garrettと同様、人間を見ると、ちがった色の蔽いをつけた存在として見え、それが誰もそのように見えると思っていて、あるとき、自分だけそのようなオーラが見えると気がついたそうです。
そして、Garrett同様、このオーラでそのひとの気分とか病状とかみなわかったといいます。
そして、なかなか分析的で、色によってどのように違うかまで、しらべたようです。
彼によると、オーラはそのひとの精神的・身体的状態をしめすかたちで外に現れたものです。オーラを見ればそのひとの内部がわかるというわけです。
そして、赤色、橙色、黄色、緑、青、白、灰色とかと分類して、白が完璧、いわば白に向けて成長するべきということで、青はSpiritual精神的、緑はHealing Friendly、黄色はHealth, Well-being,橙色はColor of the Sunということで、VitalなThoughtfulness、赤はForce, Energyという調子です。よくないのはGrey灰色で、これは病気、深刻で死にそうな人はもうオーラがなくなっているとか。
オーラはいわば、地球を外部から防御しているヴァン・アレン帯のようなものかもしれません。死がちかづくと、蔽いもなくなるのでしょう。
ここでCaseyがオーラはふつうのひとにも見えているはずだという説明があります。つまり、あのひとは黄色が似合うとか、あのひとは色があっていないとかというとき、それはそのひとのオーラを感じ取って、それにあったものは、そのひとにとっても外から見ても合い、そのひとのオーラにあっていないものは、外から見た人も、おかしな色合いの服を着ていると感じるそうです。
自分の発するオーラにあった色を好むといっています。
Cayceが子供のころから知っていた男性がBlueのオーラを発していて、すべてをBlueで調達していたのに、あるとき、Maroonカラーとか赤色を自分で択び始めたので、その男性は自分でも驚いたとか。そのうちに、すべてをScarletカラーで調達して自分でもさらにおどろき、それが何年かつづいたとき、自分が神経質で疲れやすくなっているのに気付き、赤に混じって灰色があらわれはじめました。病気があらわれはじめたのです。そこで、健康管理に気をつけだすと、Blueがではじめて、オーラが、赤からBlueになり、すっかり健康になったとか。
Cayce felt this was not at all uncommon. "The majority of people do see auras. I believe, but do not realize it. I believe anyone can figure out what another person's aura is in a general way, if he will take note of the colors which a person habitually uses in the matter of clothing and decoration. How many times have you said of a woman `Why does she wear that color? It does not suit her at all.' How many times have you said, `How beautiful she looks in that dress? The color is just right for her. She was made to wear it.' In both cases you have been reading an aura. The first woman was wearing a color which clashed with her aura. The second woman was wearing a color which harmonized with her aura. All of you know what colors are helpful to your friends, and bring out the best in them. They are the colors that beat with the same vibrations as the aura, and thus strengthen and heighten it. By watching closely you can discover changes in your friends as they are reflected in a shift in the color predominating in their wardrobe."
ということです。普通の人も、気付いていないけれどもオーラを感じているというわけです。
オーラは二つの面があって、Physical と Spiritual。そして、オーラは”Not a Cause, but a Result”、つまりその人間の現状を結果として示しているというわけです。
"As we react to various conditions, we emanate or send out certain vibrations... We ourselves throw off energy, since we are constantly building and have built within ourselves. Our reactions are radiations which form themselves into color. That which we as individuals radiate, or throw off as energy, is the aura."
そして、Edgar Cayce "On Religion and Psychic Experience" という本の中でも Aura をとりあげ、Dr. Kilnerのオーラを見ようとする工夫を評価し、それがまじめに、ほかの領域ほど真剣に探究されなかったのは残念といっています。
村田茂太郎 2012年3月9日
その26 - “科学と迷信の間” (序) 村田茂太郎
何年か前、母の会文集用に、ユングとシンクロ二シティに関する短い文章を書いたことがある。それ以前にも、小学六年生の生徒に、“予知とテレパシー”という文章を書いて、説明したことがある。これらは、私が最も関心を持っている領域の一つである。そして、私は誰もが関心を持っている領域だと思う。
さて、十九世紀から二十世紀へと、“科学”の時代になるに従って、実験と証明を根本とする科学の精神が広く、深く行き渡ったおかげで、人々は安易に“ありえそうにない”事を信じなくなった。これはすばらしい態度である。それ故、これまで信じられてきた様々な出来事や能力が“迷信”という言葉で軽く扱われるようになっていった。たとえば、幽霊を見たとある人が言っても、“幽霊の 正体見たり 枯れ尾花”式に、何らかの合理的な説明を行うのが常であった。
“自然”とは、ふつうの、ありきたりの、わかりきった、これまでの科学で、証明も実験も説明も可能な現象や能力という意味であり、“超自然”とか“超能力”とかは、ありえず、頭のふるい人が信じているだけのもの、というのが常識の通用する、この世界での見方であった。
ユーリー・ゲラーという男が念力でスプーンを曲げるといっても、そんなことはありえない、トリックに違いないと考えてかかるわけであり、もちろん、それでよいわけである。はじめから、何でも信用するようでは、科学も何も成立しない。
実際、いつの世にも、インチキを職業とする人が沢山いたし、今も沢山居る。ただ、昔、偉大な科学者ヘルムホルツがこの領域で非科学的であったように、今も、非科学的な人が多いということが問題である。ヘルムホルツは幽霊とか念力とかといった現象や能力を、科学的に、証明し、実験して見せてくれても、自分は信じないといったと伝えられている。これは、実は科学者らしくない態度である。世の中に、インチキが多いのと同様、はじめから、そのようなことはありえないと信じてかかるヘルムホルツのような観念的な人が多かったおかげで、この超自然・超能力の世界の探求は随分、発展が遅れた。ホンモノかインチキかといった次元での証明にとどまっていて、更に深く、追求していけなかったわけである。
そのような困難な情況を克服しながら、超心理学の研究は発展してきた。アメリカの偉大な心理学者・哲学者ウイリアム・ジェームズはインチキが多い事を嘆きながらも、全部を否定してしまうのではなく、たとえ、何百人、何千人の自称超能力者のほとんどがインチキであっても、もし、その中に一人でもホンモノがいれば、科学者はどうしてそういうことが起こるのかを、まじめに研究しなければならないという態度をとった。そして、事実。ミセス・パイパーという超能力をもった霊媒(Medium)の Séance に何度も出席して、その不思議な能力を解明使用と心がけた。
幸いにして、約百年間に上る、この領域の研究は、それまで民間では“第六感”といわれてきた超能力が実在する事を実験的に証明できるところまで進んできた。精神分析学の創始者フロイトは、自分が生まれ変わってこられるなら、次回は超心理学の研究をやりたいといったと伝えられている。ユングは博士論文“いわゆる霊媒力の生理学的・心理学的研究”で、まともに、この領域と取り組んだ。UCLAのドクター テルマ・モスは、このようにして、それまで常識的にも科学的にもありえないと思われてきたことが、もしかして、本当にあるのではないかというような、全く否定できない状況が生まれてきている事を伝える本を書いた。
この領域は、まさに膨大であり、それへの接近は科学的な慎重さを必要とする。しかし、もし、ある現象、ある能力が、どうもホンモノらしいとわかれば、それでは、どうして、それが起こるのかといった研究に進んでいかねばならない。いつまでもトリックだ、インチキだといっていたのでは、科学は進歩しない。
この領域は科学(物理学・化学・生理学・医学・心理学等)と哲学と宗教がからんでくる最も問題に富んだ領域であり、神話学や民俗学、人類学とも絡んでいる領域である。運命や魂や死と生の問題である。日本語では、テレパシー、透視、念力、予知、霊媒、転生、憑き、離魂、幽霊、易、催眠術、魂、占星術、手相などが、みな、この領域に含まれる。
研究態度としては、事実は事実として認め、その説明をいろいろな角度から探ることが大切である。たとえば、デジャー・ビュー(Deja Vu)という現象がある。普通の人でも一生に何度か体験するときがある。ある場所を始めて訪れたのに、いつかは思い出せないが、とても親しんだことがあるような気がする、そういう体験のことである。これは、体験だから、人々がそう思うのをウソだか何とかいっても、はじまらないので、それでは、どうしてそのような体験がおこりうるのかということを、あらゆる可能な角度から説明しなければならない。状況や内容にもよるが、たとえば、私が今まで読み調べた限りで考えられる説明としては、次のようなものがある。(一般的にいっての話で、それぞれの場合によって、その妥当性も異なってくるのはいうまでもない。)
<Deja Vu デジャー・ヴュー の説明> (なんだか、嘗て、見たことのある景色・光景だといったような体験を如何に説明するか)
1 Reincarnation (転生) 百年前、二百年前、ともかく、いつの時代かにその場所に生きていたとする説明、うまれかわり。
2 Possession(憑き) いわゆる死者の霊が乗り移ったとする説。ある場所に眠っていた霊が、そこに来た人に瞬間的に取り付いて、あたかも、自分が過去に体験していたかのごとく感じるというもの。
3 Out Of Body Experience (離魂)眠っている間に、魂が身体を離れて旅行し、既に見知っているため、はじめてきても、記憶があるように思うというもの。
4 Telepathy (テレパシー精神感応等) Psychometry 第六感の鋭い人などが、テレパシーでその情況の中から、過去をキャッチして、まるで、自分の体験の如く感じるというもの。
5 心理学的説明(1) テレビ・映画・本などで、いつか見知っていたのだが、そのうちに、完全に忘れてしまったようになり、何かで見たということも忘れてしまうのだが、記憶の底にのこっていたため、いつかどこかで見たような気がするというもの。
6 心理学的説明 2) 実際、一度も見たことも着たこともないのだけれども、風景とかというものは、よく似た景色がいっぱいあるため、漠然とした印象が、まるで過去に体験したように思う働きをうみだすというもの。
まあ、主なものを挙げると以上のようになる。最後の 5,6 の説明が、最も自然で納得のいくものである。しかし、世の中には、“転生”や“憑き”や“離魂”でないと説明しにくいようなケースがいくつもある。ドクター イアン・スチーブンソンは“二十の転生らしきケース”という古典的な研究を発表した。インドやイスラエルやレバノンやアメリカ・インディアン等の地域での、生まれ変わりとしかいえないようなケースをいくつも集めたもので、この種の研究では必読文献となっている。
また、“離魂”に関する研究の中でも特に有名なものとして、超能力者ブルー・ハラリーとその愛猫スピリット(魂)を使った実験がある。
ブルーとスピリットをそれぞれ別の部屋に隔離しておき、観察者が自分自身で、そして装置も使って、ネコを監督しておく。夜中、ブルーが睡眠状態に入る。猫の檻には誰も近づけない。そのうちに、ネコがまるで誰か親しい人が来たかのごとく、身を摺り寄せて、ゴロゴロとのどを鳴らし始める。そして、またたくまに、それも終わり、ネコはまた元のおとなしい状態に戻って寝込む。時間やその他、いろいろな情報は、すべて正確に記録されている。そして、ブルーの方が起きだして、何時何分にネコの部屋を訪問してきたと報告する。確かめてみると、まさに、その時に、ネコが誰か訪問者を迎えて、歓迎したかのごとき反応をしていたのであった。
蛇もつかって行われた。この方も、彼が訪問してきたという時刻に、誰も居ない部屋で、まるで、誰か侵入者を見つけたかのごとく、ガラガラ蛇はガラス窓に向かって猛然と飛びついたのであった。人間でも鋭敏なときには、気配らしきものを感じたりするが、他の動物となると、より野生的で自然状態に近いので、様々な器官がより鋭敏である。明らかに、蛇やネコは、ブルーという人間を構成している何かの一部に触れたのである。それを、昔の人は“魂”と呼び、“ひとだま”とかと呼んで、怪談を構成する中心的な要素としてきた。
このようにして、現在、それまで、迷信として扱われてきたものが、単なる迷信で済ませなくて、その中に、何かがあるかもしれない、今の科学装置では捉えがたいある種のエネルギーがあるのかもしれないと、思われだしている。そして、フロイトやユングが人間の内部の無意識の世界を解明する道を開いて以来、ますます、人間の持つ驚嘆すべき能力が明らかになってきている。
(完)
1984年3月18日 執筆
その27 - “予知とテレパシー” 村田茂太郎
1966年10月21日、イギリスのある街で悲劇が発生した。鉱山の街 アベルファン(Aberfan)にある Pantglas Junior School がボタ山のなだれにあって、埋まり、大人を含む約150人の生命がうしなわれた。
この事件を1ヶ月ほど以前にまでさかのぼって追跡した医者が居た。Dr. J.C. Barker といい、彼はその調査によって“予知”の研究に大きな業績を残した。彼は彼が調査結果からひきだした結論を元に、イギリスにBritish Premonitions Bureau をつくった。それは、アメリカの研究者の関心を捉え、2年後の1968年にアメリカにCentral Premonitions Registry がつくられることになった。
Barkerのアベルファン自己研究の結果、明らかになったことは、次のようなものであった。事故の起こる約1ヶ月前から、何人かの敏感な人は、ボタ山の山崩れのような出来事を夢の中に見始め、それが事故の日に向かって、一週間ずつ近づいていくにつれて、その夢の内容がだんだん本当らしい夢になり、発生、一週間前には、独立に16件の予知夢があり、そのうちの一人は、彼にとって全く意味を成さない A-B-ER-FAN という字がつづられるのを見た。犠牲者である子供達も、二週間ほど前に、自分がクラス・メートと共に、死ぬ夢を見ていたことが親の報告からわかった。
一方、William E. Cox という研究者は、別な角度からの研究を行った。彼は28件の列車事故について調査した。彼の調査方法というのは、たとえば、1952年6月15日のシカゴでの Eastern Illinois Train の列車事故に関して、同じ時刻の、同じ列車の、乗客数を、その事故当日から一週間前まで調べるとともに、同じ曜日について、一ヶ月以上まで、週ごとにさかのぼって調べ、事件後の数日をも調べるというものであった。この事故に関しての調査結果は次のようなものであった。
9、68、60、53、48、62、70
9、35、55、53、54
9 が事故当日、乗り合わせていた乗客で、同じ列車の前日の乗客は68名であり、同じ列車の一週間前、二週間前の乗客は、それぞれ、35名、55名であった。いったい、この数字は何を意味しているのか。W.E. Coxは、乗客のかなり多くの人が、ハッキリと意識しないで、何らかのイヤな予感(第六感)を感じ取り、知らないうちに、いつも乗る同じ列車を避けていたに違いないと判断した。あるいは、アベルファンのケースのように、鋭敏な人の中には、列車事故の夢を見たり、感じ取ったりしていた人がいたかもしれないが、そういうことを考えに入れなくても、いわゆる、普通の人々が、なんとなく何かを感じ取り、自然と事故を避けていたといえるわけであった。
様々な学者の研究結果を総合してみると、いまや、以前にはありえないとか、起こりえないとか、信じられないといわれていた出来事が、実際起こっており、しかも、それにスペッシャルな能力を持った人だけでなく、普通の人々が、そうした出来事を体験したり、情報を無意識のうちにキャッチしたりしているということがわかった。人間を研究する科学は、今や、新しい次元を示しているのである。Parapsychologyの名の下に、膨大な領域にわたって、様々のすぐれた研究結果が明らかにされつつある。UCLA医学部の助教授Thelma Moss Ph.D.(当時、1980年以前、79歳で逝去)は“Probabilities
of the Impossible” という本を書いた。題の意味は、それまでの科学では、不可能だとか、ありえないとかといわれていたものが、現在では単純に否定してしまうことが出来なくなり、もしかして本当に起こっているのかもしれないという、蓋然性Probabilityの領域に達しているという意味である。テルマ・モスは、その中で、信じられないような話だけれども、本当にあった話であり、アベルファンの話しを知っている人には、そういうこともありうるだろうとうなずくような話を書いている。
科学を専攻するUCLA大学院生が、ある日、突然、Dr. Thelma Moss に会いたいといってきた。約束の日に会うと、その青年は、まず何も言わずにこの絵を見てくれとさしだした。その絵は、あざやかに、自動車事故の現場を描いていた。それから、青年は話し出した。本当に、こんなことがありえていいのだろうか、という調子で。約一週間前に、自分の妹が恐い夢を見た。その夢があまりにも鮮やかであったので、絵をほとんどかかない妹が、その恐ろしい場面を描きとったのであった。妹が友達とクルマでドライブしていて、大事故に遭い、ほかの女友達は怪我をしただけであったのに、妹自身は死んでしまうという場面であった。そして、一週間後、妹が描いたのと全く同じ状態の自動車事故で、他の乗客はケガですんだのに、彼女だけが死んでしまった。
全く、信じられないようなことが、現実に起こっているらしい。この方面の科学的探究はやっと始まったばかりである。これまで、科学者は、そんなことはありえない の一言で片付けてしまい、何か異常な出来事が起こると、それが本物かインチキかといった議論ばかりしてきたため、ほとんどそれ以上の科学的解明もなされなかった。19世紀末からの偉大な研究者たちの努力のおかげで、この研究困難な領域も、やっとまじめに取り上げられ、少しずつ、研究成果が現れてきた。有名なDr. J.B. Rhine のESPやPKに関する実験的証明から、最近のDr. Stanley Krippner, Dr. Montagu Ulmann らによる Dream Telepathy と Dream Precognition の研究など。
人間が夢を見る状態というのは、完全な眠りの状態と違って、脳波は活躍をしており、学者たちが Altered State Of Consciousness 意識の変様態 と呼ぶ、特殊な状態にあり、このとき、脳細胞は異常に鋭く、柔軟になっているので、無線探知機のように、外部から届くエネルギーをキャッチし、それをそのまま夢の中に織り込んだり、少し変形させたりして夢の中に取り組むということが、彼らの実験・研究から明らかになった。
これは、フロイトの夢分析、クライトマン、アセリンスキーによるREM期(Rapid Eye Movement)急速眼球運動の発見につぐ、一大革命的な研究であり、Dr. Krippnerはそれによって、テレパシーと予知の能力を、普通一般のひとが持っているということを、ライン博士とは全く違った方法で、実験的に証明したわけである。
予知ということが、科学的・哲学的に何を意味するのかは、まだ誰も何も言えない状態で、今のところ、黙々と証拠を集めている段階といえる。
(完)1980年4月 執筆
この項は、特別なテーマであるので、コメントを入れさせていただく。この文に関しての責任は私(村田茂太郎)にある。数年前、二年ほどの間にParapsychology(テレパシー、予知、透視、PK, Haunting、Hypnosisなど)の英文研究文献約200冊読了した。興味のある人に対しては、本を紹介してもよい。ただし、すべて英語の文献。その中には古典的あるいは歴史的といわれる名著もある。一度は、こういう話をしておきたいと思った理由は、いろいろある。第六感というのは、本当にあり、大切にすべきで、何かいやな予感がしたら、その予感に従って、避けるべきということを強調しておきたかったこと、それから、次の理由による。
数年前、東北地方で、成績優秀な小学上級生が断崖から投身自殺をした。それは、本人にとっては、特別な意味を持った実験であった。当時、お墓でとった写真に人の顔らしいものが出ているといった話、或いは、そうした探求が、小学生や中学生の間ではやり、彼らは非常に真剣に、そして純粋に追求していた。小学校全体でも問題になったりしたが、残念なことに、こうした領域をまともに、真剣に扱えるだけの知識と能力をもった教師はほとんどいなかった。バカらしい話しだとか、もういいかげんにやめろといった態度が、教師のとった反応であった。そうした中で、生まれたのが、この一つの小さな悲劇であった。彼は自分が死んで、あの世からメッセージを送り、(彼はひそかに、何かを、どこかに隠していた。)、その事によって、死後の世界があるということを証明しようとしたらしい。その結果がどうなったのか、誰も知らない。ムダな死であったといえる。私が今まで集めえた情報を彼のケースにあてはめてみると、彼は全く死ぬ必要は無かったし、死んで、誰かがメッセージどおりのものを見つけたとしても、それは、死後の世界があって、彼がそこから指示したということにはならないということであり、それがParapsychologyの現段階が示している姿である。Parapsychologyの最近の異常な進歩は、人間が全く驚嘆すべき能力、昔の人なら全く信じられないような能力を持っているということを明らかにした。そして、それは、死後の世界をもちださなくても、いろいろな説明が可能だということを示している。
1980年4月 執筆
その28 - “シンクロ二シティ”Synchronicity 村田茂太郎
最近(1979年ごろ)、私が、特に興味を持っているのは“偶然の一致”という出来事である。
例えば、ある劇場の切符のナンバーと、コートをカウンターに預けたナンバーが同じであったとか、フレデリック・チャンスというモーターサイクリストがクルマと衝突したが、ナント、相手の男の名前も全く同じであったというケース。
私たちの日常生活においても、それに類したことを、時々、体験することがある。そして、それらには、いわゆる“第六感”がからんでいるのもあれば、全く何の覚えもないような場合もある。みなが経験していることではあるが、普通は“偶然の一致”ということで片付けてしまい、このことについて、まじめに考えた人は少なかった。
ドイツの生物学者パウル・カンメラーというひとは、毎日の生活でぶつかる偶然の一致を克明に記録して、そこから何らかの“意味”を見出そうとした。そして、彼は“偶然の一致”では片付けられない何らかの“法則性”があるということを、ケース・スタディによって、少なくとも立証したと信じた。科学的研究の第一歩であり、方法的にも正しく、さすがに、相対性理論というとてつもない理論を考え出したアインシュタインは、その努力の価値を相応に評価した。
しかし、この種の研究を世界的に有名にしたのはスイスの偉大な心理学者カール・ユングであった。彼が何度も語った有名な話。ある女患者と書斎で話していて、たまたま、話題が夢に見たエジプトのスカラベ(黄金虫)に及んだとき、窓に音がして、開けると、時季はずれに、しかも明るい外から暗い部屋のなかに、黄金虫が飛んで入った。
ユングの研究も模索的で曖昧であるけれども、“シンクロ二シティ”Synchronicityの名の下に、自分の体験の意味を捉えようとした大胆さは評価されてよい。最近では、このシンクロ二シティをまじめに研究する人がふえている。アーサー・ケストラーもそうであり、最近、“信じられない偶然の一致”Incredible Coincidence という本を出版したシンクロ二シティアラン・ヴォーンなどがそうである。この本はとても面白く、こうして収録された多くのケースを見ていると、確かに何かあるのではないかという気がしてくる。
ユングはこう考えた。宇宙には、科学の世界を形成している原因・結果という法則性と同じ程度に重要で、全く別な法則が働いているに違いない。そこでは、二つ以上の意味のある出来事が“偶然の一致”としか言いあらわせないような形で同時に起きたり、交互に起きたりするのだ、と。
そう考えることによって、テレパシーや予知を説明できると考えた。自然界には、混沌の中から秩序を生み出そうとする隠れた力が働いているらしい。シンクロ二シティとは、それを理解しようとする努力の一つであるが、ユングによれば、それは、哲学的見地ではなく、経験的な概念なのである。
ユングの例の女患者は、黄金虫の出現によって、コチコチの彼女の価値観を一挙に変え、治療も成功することになった。(完)1980年ごろ 執筆 (その29 No Essay)
心霊現象の科学」をめぐってーその30 立花隆“臨死体験”(上下)を読む
“臨死体験”とは文字通り、死に臨んだ体験、つまり、事故または病気その他で瀕死の重傷を負い、多くの人から死んだと思われた人が蘇生して、その体験を話した結果、「臨死体験」と呼べる特別な体験をする人が多いとわかり、エリザベス・キューブラ・ロスとレイモンド・ムーディの影響で急速に世界中に知れ渡ったケースのことを指す。立花隆はこの二人と直接Interviewしただけでなく、その後の研究で、この“臨死体験”に関する権威と思われるに至った科学者達にも会い、いろいろと疑問を質しながら、自分の結論までを考察・記録したルポルタージュがこの「臨死体験」で、上下で約1000ページにわたる膨大な本であるが、いろいろ面白い体験話などが引用されていて、最後まで退屈しないで読める重要な本である。
この本は 臨死体験 に関しては、この時点での“総まとめ”といえる。
立花隆の結論から記そう。
臨死体験 に関して二つの考え方がある。ひとつは“現実体験説”、ひとつは“脳内現象説”である。現実体験説は、臨死体験した人は実際に“あの世”または“次の世界、次元”を垣間見て生還したというもの。脳内現象説は、臨死にいたる肉体の異常な条件が脳の内部でそういう体験を生み出したというもの。出血多量、心拍停止その他で酸素が欠乏し、炭酸ガスがふえていくなかで、脳に障害が発生し、その結果、臨死体験といわれる体験をしたというケースがたくさん生まれたわけで、別に死後の世界を垣間見たわけではないという。そして、実際、脳研究家が大脳側頭葉を刺激したりすると、まさに臨死体験にあらわれたといわれている現象があらわれるという。
「死の向こう側に行った人は、誰一人としてそれによって得た知識をこちら側に持ち帰ってくれない。だからこそ、死は永遠の謎であり、永遠の不安と恐怖の対象でありつづけてきたのである。」
「そういう状況の中にあって、ただひとつ、臨死体験のみは、死のプロセスに関する当の情報を与えてくれるものと受け止められた。臨死体験というものが存在すると知られるや否や、それがたちまち世の異常な注目を集めるようになったのは、これまで謎とされてきた死に対して、それがはじめて光を投げかけてくれるのではないかと期待されたからである。」
「臨死体験が本当の死のプロセスで起ることそのままなのかどうか、またそうだとしても、死のプロセスのどの部分なのかについては、研究者の間で見解が一致していない。しかし、体験者達は、ほぼ全員が、それが真の死のプロセスそのものであると考えている。自分はたまたま途中で引き返してきたが、もし引き返さなければ、自分はそのまま死んでいただろうと考えている。未来のいつかある日、自分が本当に死ぬ日がやってきたら、自分が臨死体験で体験したと同じことを、もう一度再体験することになるだろうと考えている。
臨死体験によって、自分ははからずも死のリハーサルを行ってしまった。自分にとっては、死はもはや未知の現象ではない。何も知らないときは、死は恐怖だったが、実際にそれを体験してみると、そこには恐怖すべきものが何もなかった。むしろ、気持ちよいといったほうがよいくらいだったというのが、臨死体験者の感想の最大公約数である。」
「現実体験説の人は、自分の体験は途中までは、生から死へ移行するプロセスだったが、その先は本当に死後の世界へ一歩足を踏み入れた体験だったと考える。自分は死後の世界の一部を体験してから戻ってきたのだと考える。そして、そのどちらにも苦しみはなく、喜びに包まれていたと感じる。特に死後の世界は、神々しいばかりの光に包まれ、筆舌につくしがたいほど美しい、永遠の真理と心のやすらぎに満ちあふれた素晴らしい世界だったと感じる。かくして、現実体験説に立つ人は、死のプロセスに対しても、死後の世界に対しても恐怖を抱かなくなる。つまり、死に対する恐怖がいっさいなくなるのである。」
「脳内現象説に立つ人はどうか。彼らは、臨死体験を死後の世界体験とは考えない。臨死体験は、はじめから終わりまで、死のプロセスの体験であると考える。それは真正の死のこちら側、すなわち生の最終段階における意識体験であると考える。だから、臨死体験によって、死のその部分に対する恐怖はなくなる。死後の世界に対する恐怖は、どうかというと、脳内現象説に立つ人たちは、もともとそういうものはないと考えている。死のプロセスのあとにくるもの、生の最終段階のあとにくるものは、無だと考えている。死後の世界は存在せず、意識の存続もありえないと思っている。意識を保持しているものは、脳なのだから、脳の死とともにすべてが終わるのだと考えている。」
「では、私(立花隆)はどう考えているのかというと、基本的には、脳内現象説に立っている。つまり、基本的には、物質的一元論で、この世界は説明できるだろうという科学的世界観の側に立っている。
しかし、一方では、本当にそうだろうかという懐疑心も常に持っている。
科学というのは、まだあまりにもプリミティブな発展段階にある。科学をよく知らない人は、現代科学が達成した華麗な業績の数々にただ目を奪われているばかりだが、・・・科学はまだ知らないことばかりなのである。科学は自然の謎を解くことに挑戦しつづけてきたが、解かれた謎はほんの一部で、大部分はまだ依然として謎のままに残っている。
・・・特に、この臨死体験の問題がからむような、生命科学、脳科学、あるいは人間の意識、心理がからむような問題になってくると、科学はほとんど何もわかっていないのに等しいといってよい。
・・・人間存在の中核にあるのは、自己という意識の主体である。それは同時に行動の主体であり、思惟の主体であり、情動の主体でもある。自己というものはそのようなものの統合体としてある。その自己意識の座が脳のどこにあるのか、その意識はどのように作り出されるのか、そういったことはまるでわかっていないのである。
・・・脳には、視角系が集めた情報を受け取る認識主体がどこかにあるはずである。・・・ところがそういう肝腎かなめのところが全然わからないのである。
・・・脳機能の世界的研究者であるペンフィールドの業績をいろいろ紹介したが、彼も若いころは、脳研究が、人間の精神世界の神秘をすべて解き明かすだろうという一元論的信念に燃えていた。・・・いくら研究に研究を重ねても、脳の内部に自己意識の中枢が見えてこない。そこで晩年、ペンフィールドは一元論を捨てて、二元論の立場に立ち、脳は意識の中枢ではないと考えるにいたった。
・・・ペンフィールドは、臨死体験という現象は知らなかったから、生前、臨死体験については何も言及していないが、もし彼が臨死体験の解釈をめぐって二つの立場からの論争があるということを知ったら、どうしただろうか。若いときなら文句なしに脳内現象説の立場に立っただろうが、晩年の彼なら、確実に現実体験説の側に立っただろうと思われる。
・・・脳内現象説には、現実の脳研究から、脳と自己意識の問題がさっぱり解明されないという大きなウイーク・ポイントがあるのである。
・・・そういうわけで、わたしも基本的には脳内現象説が正しいだろうとは思っているものの、もしかしたら現実体験説が正しいのかもしれないと、そちらの説にも心を閉ざさずにいる。
ただ、実をいうと、私自身としては、どちらの説が正しくても、大した問題ではないと思っている。
臨死体験の取材にとりかかったはじめのころは、私はどちらが正しいのか早く知りたいと真剣に思っていた。それというのも、私自身死というものにかなり大きな恐怖心を抱いていたからである。
しかし、体験者の取材をどんどんつづけ、体験者がほとんど異口同音に、死ぬのが恐くなくなったというのを聞くうちに、いつの間にか私も死ぬのが恐くなくなってしまったのである。
これだけ多くの体験者の証言が一致しているのだから、多分、私が死ぬときも、それとよく似たプロセスをたどるのだろう。だとすると、死にゆくプロセスというのは、これまで考えていたより、はるかに楽な気持ちで通過できるプロセスらしいということがわかってきたからである。
そして、そのプロセスを通過した先がどうなっているのか。現実体験説のいうようにその先に素晴らしい死後の世界があるというなら、もちろんそれはそれで結構な話である。しかし、脳内現象説のいうように、その先がいっさい無になり、自己が完全に消滅してしまうというのも、それはそれでさっぱりしていいなと思っている。
・・・いずれの説が正しいにしろ、いまからどんなに調査研究を重ねても、この問題に関して、こちらが絶対的に正しいというような答えが出るはずがない。少なくとも、私が死ぬ前に答えが出るはずがない。・・・どちらが正しいかは、そのときの(自分の死ぬときの)お楽しみとしてとっておき、それまでは、むしろ、いかにしてよりよく生きるかにエネルギーを使ったほうが利口だと思うようになったのである。
“死ぬのが恐くなくなった”ということ以外に、もう一つ、臨死体験者たちが異口同音にいうことがある。それは、“臨死体験をしてから、生きるということをとても大切にするようになった。よりよく生きようと思うようになった”ということである。死後の世界の素晴らしさを体験した人は、生きるより死ぬほうがいいと考えるようになるのではないかと思われるかもしれないが、実際には、逆なのである。みんなよりよく生きることへの大きな意欲がわいてくるのである。それは、なぜか。体験者にいわせると、“いずれ死ぬときは死ぬ。生きることは生きてる間にしかできない。生きてる間は、生きてる間にしかできないことを、思い切りしておきたい”と考えるようになるからであるという。それはそうだと思う。・・・生きてる間は生きることについて悩むべきである。」
立花隆「臨死体験」からの引用が随分長くなった。大事な話なので、そして立花隆が上手に要約しているので、そのまま引用させてもらった。立花隆は、自分は脳内現象説に立つといっている。なぜ、そういうことになったのかは、この本で述べられた彼自身の様々な体験からきていると思われる。探求心旺盛、知識欲旺盛な立花隆は、イルカの研究やAltered
State of Consciousnessの研究で有名なジョン・リリーの“瞑想タンク”やスタニスラフ・グロフの“ホロトロピック・セラピー”などに積極的に参加し、臨死体験者が語ったと同じような体験があらわれるのを自分で確認し、臨死体験者が語った体験はまさに脳内でおきる現象であると確認したわけである。そして、この自分の体験で、いわゆる宗教界の教祖がもったとおもわれる宗教的体験その他、あらゆることを臨死で無い状況で体験したため、これが死後の世界との接触と解釈することは出来ないと考えるにいたった。
ただ、脳内現象説で説明できないケースがいくつかあり、その大きなものはいわゆる体外離脱Out
of Body Experienceらしきものであったが、これがまた自称派が研究室で体外離脱をこころみても、成功したためしが無い。いろいろな器具を身体に取り付けて体外離脱をこころみても、自分の家にいるときと違って、調子が外れるのか、どれも科学的に納得できる成果をうまなかった。しかし、臨死体験者の話の中には、本当に体外離脱して、外から見ていたと判断するほか無いケースがいくつか確実にあり、もしかして、現実体験説が本当かもという懐疑を残すわけである。そこで、立花隆も、結論はでず、自分が死んだときに自分でわかって納得するだろう、それまでは、どちらでもよい、Openでいよう、ただ、死というものへの恐怖はなくなり、今の生を大切にしようと思うにいたったと書くわけである。
すでに私は、この「心霊現象の科学をめぐって」というエッセイ集の中で、Out
of Body Experience体外離脱が魂の存在有無の検証に重要であるということは述べておいた。また、Rosemary
Brownの話も記した。小林秀雄が科学の扱える範囲に関して、限界を知っておくことの重要性を若者につげているという話も書いた。立花隆も現在の科学の段階としては、まだプリミティブであると考えていることは、先の引用で明らかだ。
立花隆のこの本「臨死体験」は、まさに臨死体験をめぐっての研究・ルポルタージュで、様々なサイキックを調査というものでないので、特に“死後の世界”の研究には欠かせないと思われるMedium霊媒については触れていない。わたしはすでにCarringtonのEileen Garrettをめぐる意見などを紹介してきた。CarringtonはEileen GarrettというすぐれたMediumに出会って、死後の世界を確認できたという。わたしはRosemary BrownのUnfinished Symphonyを読んで、彼女の書いていることが本当なら、“この世”は“あの世”の準備段階、違う次元に移るだけというのは、本当かもしれないと思う。
立花隆の、この本を書くに当たっての参照文献のなかに、わたしが特に重要と考える D.
Scott Rogo の本への言及が無い。Out
of Body Experienceに関しても、Rogoの研究は無視できないと私は思うのだが。
ともかく、面白い本であった。立花隆の本ではほかに“脳を鍛える”という本を以前読んだが、これも面白かった。東大生への講義であったとか。
村田茂太郎 2012年11月15日
立花隆 Tachibana
Takashi「臨死体験」文春文庫〔上〕ISBN4-16-733009-1
〔下〕ISBN4-16-733010-5
心霊現象の科学」をめぐってーその31 サイキック Irene Hughes について
臨死体験 だけでは、死後の世界が存在する科学的証明にはならないというのが立花隆の本の結論であったが、彼自身は死後の世界を垣間見たと言う現実体験説を捨てる気にもならず、もしかして、死後の世界があるのかもしれず、どちらでもOKという立場を表明し、ただ、この臨死体験の研究を通して、死というものに対する恐怖心が無くなったということが書かれていた。
死後の世界があるにしろ無いにしろ、誰もが臨死体験者が語るような経路を経て死んでいくようなので、その体験者のいうことが、瀕死の状況で脳内生理学的反応が生み出すものであれ、本当に死後の世界の境界線まで達したのであれ、だれもが死がこわくないどころか、すばらしいという体験をするようなので、そういうことであれば、死ぬまでの苦痛はともかく、最終時点では安らかに死ねるということがわかり、死ぬことはこわくなくなったというのが、臨死体験者の体験談であり、それを読んだひとが、それを知って、ありがたく感じることになる。
この死後の世界、または“あの世”があるのかどうかは、臨死体験では結論が出なくても、この現実世界にかなり実在する本当のサイキックには、多分、科学的証明以前の当然のことであろう。科学的にというので、困難が生じ、むつかしくなってしまうのであるが、Rosemary
BrownやEileen
Garrettその他の本当にすぐれたサイキックにはわかりきったことであったろうと思われる。Eileen
Garrettなどは、自分でもその不思議な力の謎を解明しようと努力したが、Eileen
Garrettに出会って、死後の世界の存在することを確信した人が、すでにブログで紹介した科学者Hereward
Carrington であった。彼は、Medium Eileen Garrettの霊界の助手Spirit Guideが独立に存在することを知って、その結論に達したのであった。
シカゴのサイキック Irene Hughes に関する本を読むと、彼女も若い頃(4歳ごろ)からサイキックで、ほかの人と違っていたそうである。わたしは1977年度のProbeという雑誌にWorld’s Top 40
Psychics という記事が出ていて、そのなかにIrene
Hughesが載っていたので、Wikipediaで調べてみた。そうすると、驚いたことに、彼女は今年2012年、101歳で亡くなったということがわかった。わたしが1970年代に読んだ本では、すでに1950年代でサイキックとして有名であったと書いてあったので、昔の人だと思っていたが、つい最近までサイキック・コンサルタントをしていたようだ。もうすこし、早く気がついていれば、連絡を取ったのにと、少し、残念である。
私の手元に“Psychics”という本がある。A Berkley
Medallion BookでIn-depth
Interviews by the editor of Psychic Magazineと副題がついている。1972年の出版で、わたしが買って読んだのは1978年。本当に世界的なサイキックと言われる人物をInterviewしたもので、Arthur FordやEileen Garrett、Peter Hurkos, Douglas
Johnsonその他、計9人のサイキックが登場している。その一人として、Irene
HughesもInterviewを受けており、InterviewをしたのはReliableなParapsychologistといえるAlan Vaughanである。彼は”予知“に関する本や”偶然の一致Coincidence“に関する面白い本を書いている信頼できる人物である。
Irene Hughes May 1910~February
2012 101歳。
このPsychicという本によると、1961年、大きな手術のあと、彼女にJapaneseのSpirit Guideがあらわれた。彼(Japanese
Spirit Guide)はIreneのFutureについて予言をした。Ireneはそれが夢だったのではないかと思った。そこで、そのSpirit
Guideは自分の娘の名前と住所を述べ、Cornell
Universityで勉強中だと伝えた。不思議に思って調べたところ、本当に娘から返事があり、父親が約2ヶ月前に亡くなったということであった。
このSpirit
Guideの存在(Eileen
Garrettの場合)がCarringtonに死後の世界の存在を確信させたわけであるが、Irene
Hughesの場合も、すでに子供の頃からサイキックとして有名であったが、このJapanese
Spirit Guideの出現で、彼女がProfessional
Psychicとして世の中に出現するようになり、特に“予知”の領域で有名になった。1967年にDurhamのPsychical Research
Foundationを訪れて検査してもらい、有名なParapsychologist W.G. Rollからホンモノのサイキックと告げられた。しかし、もちろん、ホンモノのサイキックはそんなことを人から告げられなくてもわかりきったことなのだ。
Irene HughesはEileen Garrettと同様、4歳頃からFairyと話し合うことがあったが、それはSpiritであったようだ。そして急にすべてがわかるようになった。兄弟姉妹が何を考えているか、どう感じているか、誰が家にやってくるか、手紙が届くかといったすべてが事前にわかるようになったという。実は、母親がCherokee Indianの血を引くサイキックであったので、Psychic
Reading などをやっており、娘のIreneにサイキックであることはNormalだと教えて育てたという。
彼女はこのAlan
VaughanとのInterviewで、DurhamでのW.G. Rollによる検査を語りながら、自分の意見を述べている。わたしも同感なので、引用しよう。いつものように私の意訳。
And
then I had a complete psychiatric examination. That was a lot of fun because
the psychiatrists were afraid that I would know everything that they were going
to do. 検査を受けたが、それはとても面白かった。なぜなら、検査をする人たちは、自分達が何をしようとしているか、すべて事前に私にわかっているに違いないと心配していたらしいから。
However,
I feel that parapsychologists really should go back to the old methods of
sitting with mediums week after week and let their abilities be used in a natural way rather than using superficial
methods of testing. The statistical methods are fine, but they may not really
prove the person’s real abilities. I feel that parapsychologists could
determine better how ESP operates if they worked with a person more closely. しかしながら、私は、パラサイコロジスト達は、本当はMediums霊媒と一緒にSéanceで、何日も何週間も座って、Mediumsが自然にその才能を発揮するのをみるべきで、皮相なテストなどで時間を費やすべきでないと思う。統計的な方法は、それでよいけれど、その人の持っている本当の能力を測るということにはならないだろう。わたしはパラサイコロジストがもっとその研究対象であるサイキックと密着して作業すれば、そのサイキックのESPがどのように機能するかなどよくわかるにちがいないと思う。
これは、本当のサイキックはみな感じることで、Eileen
Garrettなども同じように感じたし、M.B.
Dykshoornのように、J.B.
Rhineの研究に付き合って、失望した人もいる。
Psychic(Magazine): Do you believe that
survival in any way conflicts with the idea of reincarnation? あなたは何らかの形で、あの世で生きつづけるということが転生Reincarnationの考えと矛盾すると思いますか?
Hughes: No, I do not. I
believe that survival of the spirit after death very definitely confirms
reincarnation, because there must be spirit like that to reincarnate into
another physical body. いいえ、矛盾するとは思いません。わたしは、Spirit魂があの世でいきつづけるということが、決定的に転生があるということの確認になると思います。なぜなら、別の人間の肉体に生まれ変わるためには、そのようなSpiritがなければならないからです。
このInterviewにはそのほかに“予知”をめぐって面白い議論が展開されているが、ここでは省略する。なにしろ、Interviewer が“予知”の本を書いた人であり、Irene
Hughesは予知で有名な人なのだから。ひとつだけ。
Psychic: Do you think it’s
possible that some disaster could be averted by warning from psychics? あなたはサイキックからの警告で、ある種の災難は避けることが出来ると思われますか?
Hughes: Absolutely! Many can be. This is why
prophecy was used in the old days to warn nations about other nations invading
them, and what they should do. So I feel that it certainly can be very valuable
in preventing tragedies and accidents from happening even down to the
individual’s personal life. もちろんですわ。たくさんの災難が避けられるにちがいありません。それが、どうして昔から、“予知”が他国からの侵入の予想やそれに対する備えなどで利用されたかということですわ。ですから、私は、悲劇や災難が生じるのを避けるのに非常に役立つと信じます。これは、個々の人の人生問題についても言えることです。
ということで、Irene
Hughesの紹介は終わることにする。死後の世界、“あの世”の存在の研究は、“臨死体験”だけでなく、ホンモノのサイキックをもっとNaturalな状態で研究することで、徐々に解明されていくであろう。
村田茂太郎 2012年11月18日
「心霊現象の科学」をめぐってーその32 “臨死体験”とは?
2009年8月、私はリトル東京での龍谷大学主催の講演会にアメリカ人の隣人をさそって女房と一緒に参加した。そのとき、講演者・京都大学教授のカール・ベッカー博士は日本語と英語でかわるがわるに上手に講演をされた。内容は“仏教と死”をめぐってであったと思う。開口一番、“あの世がなかったら仏教は存在しない”といわれたのが印象的であった。つまり、仏教はあの世の存在を当然のこととしてみなしているということなのだ。なるほど、そういわれれば、そうだなあと思った。
さて、そのとき、ベッカー博士は、日本で、自分で扱われた臨死体験について話された。まだ若い青年が事故にあって、絶望的な状態にいること49日。そして突然、49日目に彼は生き返った。そして、その若者が話したことは、まさに臨死体験と呼ばれる現象であった。
彼は見知らぬ老人から“お前が来るのはまだ早い、早く帰れ”といわれて、49日目に意識が目覚めたわけで、そのとき、その若者が見たこともない老人というのが、実は彼がうまれる前に亡くなって、当然、知らないはずのおじいさんであったということが、あとで調べた写真像から判明した。若者は、彼が、外からみると意識不明の“臨死体験”で出遭った老人はこの写真の人物だといいあてたのである。
立花隆の“臨死体験”研究によると、いわゆる臨死体験者はお国によってそれぞれ特有の体験をする様子であり、キリスト教圏の場合は偉大なる光とイエス・キリストにであったとか、トンネルをくぐると、雪国ではなく、光の世界であったとかと報告し、アジア・日本の場合はトンネルではなく、三途の川をはさんで“来いとか来るな”とかというやりとりがあったとか、きれいな花が咲き乱れる花園に居たとかという。すでに仏教やキリスト教に、少なくとも、なじんでいるはずの大人の臨死体験はそういう特有の偏見があらわれるので、何も知らないはずの、ちいさな子供で臨死体験にあったケースを調べた人は、サンタクロースの格好をしたひと(キリスト)にであったというような話から、それぞれ自分の脳内で一般的に起る、低酸素・過二酸化炭素等の状況の中で、細胞が死に行く前に、モルヒネに似たエンドルフィンを分泌し、いろいろな化学反応の結果、臨死体験とよばれる体験を生むという結論を出した人もいるわけである。ある種のイメージが現れ、それが文化的・教育的背景で加工され、宗教的な説明がなされるわけで、体験自体は花園や光のなかということにちがいない。
立花隆は自分で、いろいろな実験や体験をして、なるほど、まさに宗教的ともいえる現象があらわれるのを確認し、(従って、いわゆる宗教の教祖たちも、自分の肉体を熾烈な限界状況に置くことによって臨死体験をし、それを宗教的体験として展開したに違いない)、しかも、それが臨死体験でもないことから、多くの臨死体験は、死後の世界、あの世に直接接したのではなく、脳内体験に違いないと考えるにいたった。酸欠状態等の中であらわれる特有の反応をイメージから言葉に置き換えるときに、それぞれの文化圏を反映して、キリスト教的な状況を描いたり、仏教的な状況を描いたりするが、ことばで表さなければ、それは光があふれていたとかといったイメージを見ただけということにちがいないということになった。
問題は、もし自分の脳内体験で臨死体験現象が出現ということであれば、どうして、自分の知らない人に出会って、それが見たことも無いけれども、自分のおじいさんであったと確認できたのか、亡くなった人たちにであったということになるのか。そして、瀕死の状態で、Out-of-Bodyの状態になり、自分の身体を上から眺めていたとか、ベッドから抜け出して、ほかの場所に行き、あるところに靴を見かけたという報告がなされ、調べてみると、Out-of-Body をしたその人以外に知るはずも無い情報がぴったりあたっていたというようなことがおこるのか。
いわば、脳内体験説では説明不可能な事態が臨死体験の個々のケースで存在することがあるため、立花隆も脳内体験説はやはりまちがっていて、本当に、体験者は死後の世界をのぞいてきたのかという印象もすてきれないということになるようだ。
“あの世”説をとれば、すべてが簡単に説明されるのである。
Rosemary BrownやEileen
Garrett、Irene
Hughesそのほかのホンモノのサイキックには、“あの世”あるいは“この世とは違った次元”が、死後に待っているというのは、わかりきったことらしい。すでにこのブログの「心霊現象の科学」で引用したRosemary
BrownのHusbandの話をもういちど思い出してみる。RosemaryはHusbandに“あなたの亡くなった先妻が子どもを連れて立っている”と告げ、Husbandが、亡くなった先妻は流産したから、自分達には子供がいないとRosemaryに伝えたところ、その女性が、“流産したが、別の次元で立派に成長し、今、自分と同じ丈になっている、それがこの子だと”Rosemaryに伝えた。これは堕胎ではなく流産の話であるが、すでに形を成した状態で流産したら、あの世では立派に成長していると言う、ある意味でおそろしい話であった。堕胎した場合などどうなるのだろう。想像するのもおそろしい。やむをえない場合を除いて、堕胎はするべきではなく、はじめから計画的な受胎調節が大事だということになるであろう。妊娠してからではおそいのである。性教育も心霊現象の科学を考慮して展開しなければならないのかもしれない。
村田茂太郎 2012年11月19日
「心霊現象の科学」をめぐってーその33 Sandra Gibson “Beyond
the Body”を読む
1979年にPaperbackが出版され〔Tower
Publications, Inc. Belmont Tower Books$2.25〕、メモによると、わたしは1979年4月には読了している。GoodともInterestingとも、なにも書いていない。あまり印象に残らなかったにちがいない。Croiset the Clairvoyantとか Mathew ManningのLinkとかは一度読んだだけで、鮮烈な印象が残ったので、多分、わたしのその当時の関心がこの本の内容とは関係ないところに向いていたのであろう。
今度、33年ぶりに読み返してみて、まったく初めて読むような感じであった。この2月ブログ開設以来、“心霊現象の科学”に関するものを再読し始めたおかげで、そして、わたしも成長したのか、今回、この本は非常に面白く読めた。最後にVery Goodと記載したほどである。
この本の裏表紙に“The making of a Medium-A True Story!”と書かれている。まさに、その通りである。わたしは2月以来、いつも引用するRosemary
BrownやEileen Garrettなどのサイキックの自伝または回想録、自己分析の記録などを読んで、Mediumは最初から、若い頃からMediumサイキックぶりを発揮し、それを肯定する母親そのほかのひとがヘルプして、自分はほかの人と違うということに対して、特にNegativeにもNervousにもならずに成長していったということを当然のことのように思っていたが、このSandra
Gibsonサンドラ・ギブソン(ペンネームで、1947年生まれ、この本を書いたときは約29歳。教育学、心理学関係でPh.D.を取得、Husbandも精神分析、心理学、カウンセラー関係でPh.D.を取得)のこの本を読むと、Medium―shipを自分が、本人がAcceptすることは、大変なことであり、また、まさに指導者とその道の教育が必要ということを始めて知った。
Sandraは13歳の頃から、普通の子どもとしては異常な体験をし始め、一時、おさまっていたが〔15歳から23歳まで〕、24歳の時から、あたらな展開を見せ、それは予知、テレパシー、Past
life Memory その他が関係してくる事になった。結婚してヨーロッパ旅行をして、スペインの古いお城を訪れたとき、自分が今のHusbandに、その昔、恋人同士でありながら、この城の城壁から突き落とされて死んだことを思い出し、高所恐怖症があらわれた。そのあと、イギリスで、今度は、彼女が男性で、今のHusbandが女性で、その女性から愛されていたのにもかかわらず、Playboyブリを発揮して、結婚まではいたらなかった、そういう実話なのか、夢なのか、想像なのかわからない場面が鮮烈な夢としてVividにあらわれてくるようになり、このままいくと、自分は気違いになるか、悪霊につかれてダメになるに違いないと感じて、Prana
FoundationというPsychic Consultingを訪れた。そして、何度も、やめようとかという思いにとりつかれながら、自分のこのいわば恐怖の体験の真相を究めたいという思いで、ひとりのConsultantとつきあいはじめ、彼の指導で、何度も、もたもたしながら、1年半かけて、自分の能力を発見し、開発し、Ph.D.をその間に取得しながら、Medium―shipを所持したひとりのサイキックとして成長していく話で、最初のConsultingに入る前から、1年半後にそれを終了するまでの記録Journalを本(Journal
of a Psychic)にまとめたものである。本にするアイデアは、彼女のSpirit Guideが提案し、Followして成立したものらしい。つまり、本当に懐疑的な人間が、自分のサイキックな能力を発見し、コントロールしながら、その才能を伸ばして、PublicにMediumとして通用するほどに成長するまでの話である。
ここには、Reincarnation転生が出てくるし、Edgar
Cayceエドガー・ケーシー同様のSleeping Prophet眠れる預言者的な、あるいはカウンセラー的な、病理学的な診断まで登場する。そのとき、彼女自身はいつも、それがホンモノか、自分の内部の意識の変容態から来た情報なのかと疑問に思い、自分のからだがほかのものにPossessedされることを極端におそれていた。そのため、時期が熟するとPast Life Therapyを受け、自分が夢で見たりしたことが、すべて本当のことであったと知る。そして、なぜ、そんなにPossessionをこわがるのか、ということなど、彼女の恐怖の真相がこのPast lifeの実態から(?)解明される。トラウマの真相に対決すると、トラウマは消えるということで、彼女は自分のいろいろと消極的な行動の原因が、実はその昔、サイキックな能力を悪用して人々をだましたり、その結果、火あぶりの刑で殺されたり、悪い霊に自分の身体をのっとられてしまったという体験と、それを償う形でその後の人生が展開してきたということなどを知らされ、自分でも確認し、そのため、今のLifeでは生活態度がNegativeになり、なかなか、心を無にして、良いGuiding
Spiritがうまく働ける状態にならなかったということであり、それがわかった時点で、彼女は自信をもってPositiveに自分の才能を発揮していく決心がつく。
そのうち、自分の能力を訓練してAuto-writingやTelepathy, Trance-medium性を発揮するようになり、Husbandが助けて、ふたりでTrance-mediumのSessionを何度も家でもち、またコンサルタントのヘルプで能力を開発する中で、彼女はまさにEdgar CayceがTranceの状態で、名前などを聞いただけで、そのひとの何が問題かとか、自分のHusbandの身体のどこが、具合が悪いかなどを判定するあるいは判定できるようになる。Medical
Doctorでもない彼女が、HusbandのProstateがおかしくなっているから、こういうフルーツ・ジュースを飲めとかいいはじめ、彼女自身はそれを信じないで、ドクターに相談しろと言うが、Husbandは彼女の診断どおりに行動して、元気になる。
そういうことで、結局、Reincarnationの悪夢かなにかで苦労した彼女が、コンサルタントの指導の下、自分の天分をひきだし、カウンセラー、Mediumとして大成していく。
これを読んでいて、わたしはEdgar Cayceが何も特別なわけではなく、ひとりのすぐれたサイキックであったとわかった。このSandraも、Trance-medium-shipに慣れてくると、知らない人の名前をもらっただけで、一応、それらしき問題をあてるわけである。彼女はそれをいつも自分の意識または深層意識から来た情報で、ホンモノかどうかわからないという疑問を持っていたが、コンサルタントは彼女の判定Readingは当たっているという。
そこで、彼女は、自分はコンピューターの端末で、それが意識または深層意識から中央のCosmic な意識につながって、その中央情報局にいわばAkashic
Recordといわれる個人の情報がたくわえられていて、Spirit Guideが名前をいわれただけで、その人の情報をひっぱってくることができるのかもしれないと考える(これは私の解釈で、この本ではAkashic
Recordなどという言葉はでてこない)。Edgar CayceがSleepingのTrance-mediumの状態で、いろいろな質問にたいして、おどろくような答えを残したように、彼女も名前を聞いただけで、そのひとはアルコールに問題があるとか、自己破壊的傾向があるとか、ともかく、本人である彼女が全然知らないことを、自分の口からいうことになる。
この本は日本語訳がでているのかどうか知らないが、とても面白い。まるでSFを読んでいるようなところまである。彼女はどこかのPlanetからいわば左遷されてきて、また戻ることになるかもとか、彼女のSpirit GuideはEarth
lifeのガイドをつとめるだけでなく、どこかのPlanetでは肉体を持って存在しているとか。Earthでは時間と空間が支配しているが、そこでは、つまり“あの世、別の次元”(?)では、時間も空間もないから、すべてが瞬間で、思うように動けるとか。そして、Earth
lifeはまだまだ幼稚な次元で、いくつもの段階を経て成長をしていかねばならず、そのひとつのいわば学習過程として地球上の生命としてあらわれたわけで、これは、まだはじめの段階にすぎないとか。まるで、Rosemary
Brownの Unfinished Symphonyで彼女Rosemaryのガイドを勤めたフランツ・リストがRosemaryに説明したのと同じ話である。つまり、この地上のLifeはいわば幼児期で、この世の生命がおわってから、あたらしい次元がスタートするので、死はおわりではなく、はじまりであるということ。
Past lifeとReincarnationに関しては有名な本もいっぱい出ている。わたしもたくさん読んだ。このSandra Gibsonの本を読むと、この地上の生命は何度も転生するように見える。
彼女は本の最後に近いところで、思い出された自分の過去の人生を列挙しているが、少なくとも6回以上転生しているようだ。Another Planetでの拷問と殺害、メソポタミアで大きな男性、1200年代Possessed、ヨーロッパで1400年代サイキック・パワーの悪用で追われて岩にあたって死ぬ。スペイン1500年代、高貴な身分の女性で若い王子(今のHusband)の愛人で、口論で城から突き落とされて死ぬ。1600年代アムステルダムでにせもののMediumとして人々をだまし、そのうちPossessedされ、火あぶりで死ぬ。1800年代イギリスで彼女は男性、女(今のHusband)をもてあそんで結婚せず。という転身(男に生まれたり、女に生まれたり)をくりかえす。
そして、Future彼女の将来-もう一度、地球上で、今度は平和な主婦として、サイキックで子どもを持ち、おだやかで幸せな生活をおくる。それがこのEarth lifeの最後で、そのあと、My Home Planetにかえる。
この彼女が何度も夢で見た過去の記憶が、Foundationでコンサルタントの助けで、催眠状態で思い出すPast
lifeの数々で確認され、彼女の夢はまさに彼女の過去の人生であったとか。
この本に引用されたりする本にLawrence LeShanの「The
Medium, The Mystic and The Physicist」や「How
to Meditate」がある。どれもこの本の中で信頼できる内容ということで、高い評価を与えられている。拙著の中の「癌と人生」というエッセイは、彼の本「You
can fight for your life」の紹介であった。この彼の本がMeditationその他で、ふたりのPh.D. Candidatesに役立ったのは事実のようだ。
この本を読みながら、わたしはほかにJane Robertsの Seth
Speaks やFrederick LenzのLife Times その他を読んでいる。そうすると、このSandraの本で書かれた何度もの“転生”Reincarnationの話が、Lenz Ph.D.のLifetimesやSeth
Speaksの中の話と通じ合って、ここにもまた別の転生の話があったのかということになる。わたしが2月から計画しているArthur
Guirdhamの「Cathars and Reincarnation」の紹介予定(まだ未筆)も具体的な転生の記憶の話で、それがとても興味深い。Dr.
Ian Stevensonの有名な「20 cases suggestive of Reincarnation」はインドその他の子どもの記憶の話であるが、あまり面白くない。このSandraのAnother
Planetの話を読んで、立花隆の「臨死体験」の中で、エリザベス・キューブラ・ロスとのInterviewで、話が“眉唾物”というか、変な方向に行きかかったことを述べている部分があるのを思い出した。(上巻489-490ページ)。
――――――――
―ロスさん自身は、臨死体験以外に、体外離脱をしたという経験はありませんか。
あります。何度もあります。・・・
体外離脱してどこに行くのですか。
いろんなところに行きます。その辺の屋根の上にとどまっていることもあれば、別の銀河まで行ってしまうこともあります。ついこの間は、プレヤデス星団(すばる)まで行ってきました。そこの人たちは、地球人よりもずっと優れた文明を持っていて、“地球人は地球を破壊しすぎた。もう元に戻らないだろう。・・・”といっていました。
・・・・私には昔から幾つかのスピリチュアルな体験があります。・・・
・・・ロスとのインタビューは、この奇妙なやり取りで終わった。・・・
しかし、それにしても、彼女がついこの間体外離脱してプレヤデス星団に行ってきたといいだしたときにはびっくりした。思わずまじまじと彼女の顔に見入ってしまった。あるいは彼女がこの問題についてそれ以上話そうとしなくなったのは、それが原因かもしれない。
・・・どう考えても、これは夢ないし入眠時幻覚なのではないかと私は考えている。
――――――
わたしは、このSandra GibsonのHome
PlanetとかEarth Lifeとかという話を読んでいて、このキューブラ・ロス、立花隆のプレヤデス星団の話を思い出した。サイキックは、この、時間と空間に縛られた地球的宇宙以外に、時間も空間も無いParallel宇宙にアクセスでき、そういうイメージを生み出せるのだろうかと思ったわけである。
スピリチュアルとかサイキックということと関係のある話で、ただ単純に体外離脱Out-of-Body-Experienceということではないのかもしれない。
さて、このSandraの本のなかに、1年ほど前に亡くなったはずの彼女のおばあさんがHelp
me!助けて!と彼女にコンタクトしてくる場面がある。おかしい、もう亡くなった筈なのにということで、彼女のSpirit/Guideに相談し、結局、White LightのPositiveなEnergyのイメージを送り、おばあさんはもう死んでいるのだから、別の次元に移るようにメッセージを送り、ほかのSpiritがヘルプしてくれるように頼んで、やっとおばあさんは死んだことをさとり、死後の世界のLimbo?から解放され、うまく昇天していくという話である。
これを読んで、そしてほかの本も読むと、Rosemary Brownの本でリストのSpiritがのべた、死ぬと近親者とか友達が待っていて、迎え、案内してくれるから、死んでも心配ないということであったが、それは、どうやら、うまく(?)死ねた場合の話で(つまり、成仏できるような環境で死んだ場合?)、そうではなくて、自分が死んだことにも気がつかないで、薄明のような中をさまよっているというケースもあるようだ。
Frederick Lenz, Ph.D.は、そのLifetimesという本の中で、The Tibetan Book of the Dead という本を簡単に紹介しているが、(わたしはこの本「チベットの死者の書」の英語版を持っていて、これから読むつもりであるが、ここでは、このLenzの紹介を述べる)、それによると、死者の魂が転生によって再生するまでに、いくつかの魂の遍歴を経る事になる。この魂の異次元での遍歴がConfusing(ややこしい)なので、Advanced StudentsにこのBardo Planeといわれる世界を事前に案内しておこうというのが、このTibetan Bookの書かれた目的、つまり、死んでから迷わないようにという話で、ということは、やはり死んですぐに、いわゆる極楽浄土にうつるわけではないということかもしれない。以下はLenzのLifetimes〔True Accounts of Reincarnation〕からの引用。Fawcett Crest Books, ISBN: 0-449-24337-0 1979、Page
96-97.
The Book of the Dead explains that
immediately following a person’s death, he may not realize he has died. After
he had recognized that his body had died, he will become distressed and will
try – without success – to enter his old body. After death the soul may linger
in its old environment on earth for several days, visiting familiar places
where it has lived during its former life. In some cases the soul will also
linger to observe its former body’s funeral and to see to what extent others
mourn its death.
チベットの死者の書によると、人は死んだアト、すぐには自分が死んでしまったことに気がつかず、しばらくして、それがわかると、落ち込んで、もう一度、自分の身体に戻ろうとするが、もちろんうまくいかない。そして、死後数日間は自分が親しんだ場所をうろついたり、自分の葬式を眺めたりする。
According to the Book of the Dead, after
the soul has lingered on earth for a time, it will feel a pull to go beyond
this world. At that time it will begin its journey through the higher worlds.
The first world the soul enters into after it leaves the physical world is a
vital world filled with chaos. The Book of the Dead describes many
unpleasant-looking beings who live in this vital world who try to torment the
soul. After staying in the vital world, the soul will then enter into a mental
world that is composed of abstract ideas and qualities. After passing through
this world, it enters into a number of beautiful psychic worlds filled with
pleasing colors, scents, and beautiful beings that will help the soul on its
journey. Finally, the Book of the Dead describes the soul’s own world, where it
will rest and reflect upon the experiences it has had in its most recent
lifetime. After it has rested for some time in its own world, it will retrace
its course and be reborn.
死者の書によると、それからSoulは異次元世界の方に引っ張られ、その異次元でのSoulの旅をはじめることになる。Vitalな世界からMentalな世界、Psychicな世界と経て、最後にSoulのOwn Worldに達する。そこで安らぎ、自分が去ってきた死ぬ前の世界について反省する。そういうことを経て、しばらく休んでから、また次の地上での生命に生まれかわる。転生がはじまる。というのが、この「死者の書」の記すところであり、要するに、死と転生の間を、Soulがとまどわないように説明したものということになる。この簡単すぎる要約は、Lenzの本によったもので、いずれ、わたしは自分が所持しているエジプトの死者の書とチベットの死者の書(どちらも英語版)を読んで、このブログで紹介したいと思っている。
ここで、言いたいのは、立花隆が言うように、死ぬ前に“臨死体験”に描かれたような、すばらしい気分を味わったアト、本当に死んで“無に帰す”のか、臨死体験が描いたような極楽浄土・あるいは天国のような世界に移れるのか、それは死ぬ前にはわからない。どちらであってもよい、ともかく、死ぬときに人間は苦しまないで次の次元または無に移れるということでよいということなのだが、もし、死んで次の次元に移るようなことになった場合、この死者の書に描かれたような、ある種の段階的移行があるかもしれないということを知っておいたほうが、安心して死ねる、ともかく、薄明の中で1年も2年もさまよわないですむということなのである。
Sandra Gibsonは、この「Beyond
the Body」を書いた後、読者の反応がすごくて、Best sellerになり、続編「Beyond
the Mind」(1981)を書くわけで、そのとき、自分のおばあさんが死んだことを知らないで1年間、薄明の中をさまよっていたという話から、Limbo(宙ぶらり)状態に居るSoulがGhostの一つの原因ではないかと考え、いわば、サイキックMediumとして、このLimbo状態に居るSoulへのコンサルタントをすることも大事ではないかと考えたことが記されている。以下はPage
9-10 の直接の引用.
“Well, if we really do survive death, then
we presumably take our personalities with us. We may not be that much different
right after death than we were right before death.” さて、もし本当にわれわれが死後も生きているのであれば、われわれは当然生前の個性もそのまま持ち込んでいるはずである。そうなると、われわれは死後も生前とあまり変わらないということになる。
“True. Raymond Moody’s Life After Life is one of a number of studies that supports that
idea.” その通り。ムーディのLife after Lifeはその考えを支持する研究のひとつといえる。
“If that’s the case, it seems that a lot of
those supposedly dead people may have problems. Some of them may be confused,
may not realize that they’re dead. Others may refuse to accept their
condition.” もし、そういうことが、本当に起っているのなら、死者といわれるひとはたくさんの問題を抱えていることになる。あるものは、戸惑って、自分が死んだという自覚が無いかもしれない。あるものは、これが死んだ状態だということを拒否するかもしれない。
“Aren’t there supposed to be guides on the
other side to help them at that time?” でも、そのときに、別の次元で死者をヘルプするガイドがいるはずではないの?
“I do think there are guides. But maybe
some people are closed to hearing them. Remember that day when I felt the
presence of my grandmother in my study? She had been dead a year, but I felt
she was telling me that she was very confused, Only after I convinced her that
physical body had died did she listen to the guides.” 私はガイドはいると思う。しかし、ある種の人々はガイドの意見に耳をかそうとしないのではないか。私が書斎でおばあさんが居るのを感じた日のことを覚えている?彼女は死んで1年経っていた、それにもかかわらず、おばあさんは戸惑った状態にいると私に伝えたように思う。わたしが彼女の肉体はすでに死んでしまっていると納得させて、やっと彼女はガイドの意見に耳を貸したのだ。
“Granted. Maybe some people who have
recently died are not receptive to the guides. So, what happens then?” その通り。もしかして、死んだばかりの人はガイドを受け入れないのかもしれない。もし、そうであれば、どういうことになるか?
“I am wondering if these confused people
become what we call `ghosts’, hanging around their former homes. It’s their
effect upon the people who are alive that interests Me.” 私は、もしかして、これらのわけがわからなくなった状態に居る死んだ人々が私達が“幽霊”と呼ぶものになって、自分たちのもとの家のまわりを徘徊しているのではないかと思う。私が興味を引かれるのは、そうした人の生み出す効果が生きている人に与える影響ということだ。
“Are you talking about possession?” あなたはPossession憑きについて話しているのか?
“Partly. I think possession can happen. But
maybe there’s telepathic rapport between the dead and the living.” 部分的にはソウ。私は、Possessionは起りうると思う。しかし、もしかして、死者と生きているものの間に、テレパシーが働くのかもしれない。
ということで、Sandra Gibsonは自分の過去を知って、生き返ったようになり、Ph.D. を取得して、カウンセラーをはじめ、なんと、自分が指導を受けたPrana FoundationのPresidentに推薦され、Foundationの発展に貢献するという話である。これを読むと、ReincarnationもNaturalに起るように見える。ともかく、わかりやすく、面白い本であった。
村田茂太郎 2012年11月24日、26日 執筆
「心霊現象の科学をめぐって」ー その34 Arthur
Guirdham 「カターリ教徒と転生」The
Cathars and Reincarnation
[The Cathars and
Reincarnation] by Theosophical Publishing House ISBN: 0-8356-0506-X 1970, 1978
Sandra
GibsonはPast
Lifeのメモリーを、夢と催眠術Past
life therapyで確認したが、それは歴史上の具体的な名前と結びつくところまでは行っていなかった。しかし、彼女にとっては、それは事実に等しいインパクトをもつものであった。
アーサー・ギルダムの「カターリ教徒と転生」という本を読むと、20世紀の若い女性が700年前の13世紀に起きた大事件の渦中にあって、恐ろしい目にあったことが語られ(異端として火あぶりの刑で焼き殺される)、彼女の場合、かなり事実として証明されるほどに有効なPast
Life Memoryであることがわかる。彼女のNightmareにでてくる人物が、スペイン異端審問の記録の中に残っていたため。
この女性(Mrs.
Smith匿名)は13歳頃から、夢におそろしい体験を具体的なかたちで見るようになり、20年後に、精神分析医であるDr.
Arthur Guirdhamに相談に行ったことから、このCathars(キリスト教徒カターリ派)に関する、有名なReincarnationの話ははじまる。Guirdhamも、この女性も、13世紀に起きたCatharsの悲劇については特に目立った知識はもっていなかった。あとで、Guirdhamは自分で調査し、Mrs. Smithのほうは特にたちいって調べるようなことはしなかった。
わたし(ムラタ)は高校生の時、世界史で、ヨーロッパ中世に起きたキリスト教徒のエルサレム聖地回復運動=十字軍の話は名前だけは知り、そのなかには少年十字軍とか、イギリスのRichard
the Lion Heartedリチャード獅子心王などの名前がでたことを覚えている。そして、ひとつ特異な十字軍があったことも。名前だけだが、アルビジョア十字軍Albigenses’s
Crusade(1209-1229年)といわれているものである。
アルビジョア十字軍は、名前は十字軍だが、アラブ占拠のエルサレムをキリスト教徒のために回復しようというのとは違って、これはキリスト教内部での“異端”征伐であり、ピレネー山脈にちかいLanguedoc方面で栄えたキリスト教の一派Cathars派を異端として抹殺した恐ろしい出来事であった。1万人以上のまじめなキリスト教徒が、ただローマ・カトリックと違うというだけで、異端の宣告を受け、何百人もの僧侶が火刑でころされ、庶民も入れてTotal1万人以上のCatharsが虐殺された事件である。丁度、島原の乱のようなものであるが、Cathars派は島原のChristianたちのように鮮烈な戦いはしなかったようだ。カターリ派の平和愛好の僧侶たちは、カトリックが自分達を異端として、火あぶりの刑で抹殺するとは思っても見なかったに違いない。これは中世後半、異端審問で反対派を火あぶりで処刑し、魔女狩りでつぎつぎと無差別に反対派を焼き殺していった、同じやりかたのはじまりだったかもしれない。一神教は自分だけが正しいと信じると、平気で無差別に反対派を抹殺してゆけるという恐ろしさを保持している。キリスト教内部での粛清で、ローマ・カトリックの方針(三位一体説等)に従わないキリスト教徒(異端)は暴力的に抹殺された。これはフス戦争、そして宗教改革までつづき、魔女狩りとなっていく。
昔、高校生の頃、受験勉強補助教材として買った“数研出版―世界史辞典”の“アルビジョア十字軍”を見ると、こう書かれている。=13世紀初め、南仏のアルビ地方に流行したキリスト教カターリ派の一派。教会と対立抗争し、1209年法王イノケンチウス3世はこれを異端として討伐行動を起こし、教徒はトゥルーズ伯レーモンをいただいてこれに反抗した。20年にわたって仏王と教徒の間に悲惨な闘争がくり返され、教徒の全滅となって終わった。この戦いをアルビジョア十字軍ともいう。
時は有名なイノケンチウス3世の時代であった。この辞典の情報によると、1229年に戦いはおわったように書かれているが、丁度、島原の“隠れキリシタン”のように、カターリ派は存在し続け、1242-1244年のまた別の虐殺(200人の僧侶の火刑など)となっていったことが、この女性のPast
Life Memoryから、そして歴史的資料からわかる。
この中世をテーマに歴史小説を書いた有名なフランスの小説家Zoe
Ordenbourgは、このカターリ派のアルビジョア十字軍の物語をくわしく展開しているようであり、もしかして、このひともカターリ派の記憶を持って生まれた人間の一人、つまり転生の一人なのかもしれない。
Cathars キリスト教徒は無抵抗主義ともいえる、寛大で、穏やかな、東洋的・仏教的な信仰(菜食主義、Non-resistance)をもった集団で、当時、カトリックの法王権力は最高に強力になっていたころで、平和にすごしているCathars派を殲滅しなければ、自分達カトリック教の将来があぶないと信じて、“異端”殲滅のための“アルビジョワ十字軍”を起こした。その虐殺の指導をおこなったのは、これも世界史に名を残している“シモン・ド・モンフォール”の父親で、のちに彼は暴徒に殺された。
この若い女性(Mrs.
Smith匿名)のPast
lifeの記憶が、これまで不明であった歴史を書き換えることになった。彼女の記憶がHistoryとして記された。たとえば、それまでCatharsの僧侶は黒い衣装を身に付けていたといわれていたが、この女性が黒ではなくDeep
Navy Blueの衣装だと主張し、やがてほかの資料から、彼女の方が、それまで歴史的に信じられていた情報よりも正確である事がわかった、つまり、まさにその時に生きていた記憶を持った人間として転生したことを証明したのであった。同じようなことはMany
Lifetimesで有名なJoan
Grantについてもいえるようで、彼女Grantは自分のPast Lifeの記憶をつぎつぎと歴史小説に書き著し、それまで、エジプト学の専門家でさえ知らなかった事実を小説にあらわして、あとでその正しさが証明されるということになったりした。Past
life psychicといえる。このミセス・スミスも、あまりにも鮮やかで悲劇的な夢を何度も見たので、まだ10代のころから、その13世紀カタール派の自分の恋と悲惨な終末を小説に著そうとしていた。
Reincarnationも研究した例の、すぐれたParapsychologist D. Scott Rogo も、その著 「The Search for
Yesterday」(A
Critical Examination of the Evidence for Reincarnation)の中で、this is potentially one of
the most important cases ever documented と言い、Guirdham’s book would be hard
to beat.と書いているほどである。(ただし、Dr.Guirdhamは証拠資料の提示を拒絶したため、信憑性に問題は残るとかとRogoはコメントをつけている。もちろん、Fictionで本当のように書くことも可能であるが、彼のケースの場合、彼がMrs.
Smithの話の信憑性をしらべるために、専門のフランスのCathars学者に会って調べたりしているので、その方面から追跡することは可能であったろうし、Catharsの悲劇とSpanish
Inquisitionがからむ、暗い過去をただ証明するためだけに、彼にとって重要な証拠書類をOpenにしたくはなかったのかもしれない。)
Dr.
Guirdham夫妻がFranceのToulouseツールーズの近くで泊まった翌日、Retired
Senior R.A.F. Officerと話し合う機会があった。Officerは活動的な人物で、あちこち歩き回るのが好きであった。「わたしはPyreneesピレネーを知っているかと訊ねた。彼は知っていて、その地域を上手に説明した。わたしはMontsegurという場所をわたしは一度も訪ねたことはないが、名前を聞くだけで、ただごとでない感情に襲われる地域であるが、それについて彼に訊ねた所、彼の表情はこわばり、わたしをしげしげと見つめて、“イエス, 私は行ったことがアル、どことなく雰囲気がおそろしいところだ”といった。それで、Awfulとはどういう意味かとたずねたところ、山の頂上に向かってワイフと登り始めて、すぐに説明できないような恐怖の感情に襲われた。それで、ワイフに、自分には、ここは全体が血塗られているような印象を受けたが、お前はどうかときいたところ、彼のワイフも彼と同じような印象を持ったということがわかったという。彼はCatharsについては何も知らなかった。しかし、彼が恐怖を抱きながら山越えをしていた場所は、1244年、Cathars派の僧侶達200人が火刑で焼き殺されたところであった。」
「・・・あなたが言っていることは、700年経ってからも、その血塗られた恐怖の有様が残っているということですよ。そして、“もちろん、その通り。結局、わたしはそれを感じたのだから。”という返事であった。」
「わたしたちが何かについて熱心に話しているのを知ったドクターが、何について話しているのかと熱心にきくので、Catharsの件だと説明したところ、彼はCatharsについては何も知らないが、彼は家族のものとピレネー山脈にいったことがある。Absolutely
Lovelyだったが、Haunted(亡霊でも出そうなところ)だ、そして長いハイキングの間、鳥の鳴き声を一度も聴かなかったため、子ども達に賞金までだして、誰が最初に鳥の鳴き声を耳にするかと競争したが、だれも聞かなかった、といった。」
1962年3月、Mrs.
Smith は、別のドクターの紹介で、精神分析医として著名なDr.
Guirdhamのところにやってきた。子供の頃からNightmareで夜中に悲鳴を上げるので、町中にきこえるほどであった。それが20年間も続いていたという。いつも同じ夢をみて。
そのとき、Dr. Guirdhamは、自分がCatharsと関係があるとは全く知らず、気がつかなかった。しかし、この女性の話をきいて(Dr.
Guirdhamが13世紀、フランスで、自分の愛人Rogerであったとかという話)、興味を持ち、調べてゆくうちに、ドクターGuirdham自身がCatharsのひとりで、実は、本当に、この女性の13世紀の愛人であったということがわかってくる。そのため、Dr.
Guirdhamはまじめに、真剣に、Catharsに関する調査をはじめ、だんだん、彼女の言っていることが正しいと感じるようになる。そして、彼自身はPast
Lifeも何も信じないはずの人間、科学者であったはずだが、いつのまにか、13世紀にCatharsの人間として生きていただけでなく、それ以前にもPast
Lifeがあったということ、また、この13世紀のCatharsの信者達の仲間の何人かが、Dr.
Guirdhamのまわりに共存しているということまでわかってきて、それを事実として信じるようになる。13世紀のそれほど有名でもない人間の名前まで、Spanish
Inquisitionのレコードによって、証明されてくるという次第で、Rogoの言うように、間違いなく13世紀に虐殺された人間たちが、20世紀に過去の記憶をもって。生まれ変わって生きているということの証明が果たされたといえそうである。
虐殺された、おそろしい、なまなましい記憶がピレネーの山の奥で蘇っただけであれば、その場に残る恐怖の記録Electro-Magnetic FieldのRecord がサイキックによって読み取られたとか、Possessionの考えも可能であるが、イギリスの片田舎で生まれ育ち、Catharsの歴史について何も知らない少女が、そうしたフランスのピレネー山脈周辺で起きた、恐ろしいNightmareに毎夜襲われるとなると、Possessionでは説明がつかない。
Mrs. SmithはDr.
Guirdhamにはじめてあった時以降、あの毎夜の如く続いたNightmareから、はじめて解放されることになった。Mrs.
SmithはDr.
Guirdhamが13世紀に、同じ境遇で悲惨な体験をした仲間であることがわかったのである。”It
was a hell of a shock to walk into that room and see you there, and I thought
my mental condition was worse than I feared.” あなたの診療室に初めて入って、貴方を見たときのショックは大変なもので、わたしは自分が心配していた以上に頭がおかしくなっているのだと思ったほどである。
1966年2月、Dr. Guirdhamは、以下に抄出する“生きたまま焼き殺されたという犠牲者の恐ろしくも具体的な記述”を Mrs. Smithから受け取った。このRealな恐怖に満ちた夢Nightmareは、1949年ごろ、つまり、彼女がまだ10代のころの夢である。この記述は、彼女の体験が、ただに夢であったというだけでなく、まさに彼女が体験したことがホンモノであったととるかどうかは読者の判断にまかされる。彼女はドクターに、最初、その恐ろしい夢の要約だけを送ろうと思ったが、なまなましい印象をふくんだ全体をそのまま届けた方が良いと判断し、書かれた当時のまま、訂正も校正もなしにドクターに送ることにした。
“This is the dream about the burning…..I don’t think I have dreamt
about dying before. I hope this dream is not a warning that I shall soon die.
My brother says that if you tell anyone your dreams they won’t come true. I
can’t tell anyone this, so if I write it that is almost the same thing, it
won’t come true. I wonder why I didn’t scream. I couldn’t have or someone would
have told me about it and I would have woken up with a sore throat. I must have
committed a fearful crime to deserve such an agonizing death. So must the
others. There were some more besides with me. They didn’t seem, afraid either.
We all walked barefoot through the streets towards a square where they had
prepared a pile of sticks all ready to set alight. There were several monks
around singing hymns and praying. I didn’t feel grateful. I thought they had a
cheek to pray for me. I must be rather a wicked person. I don’t think wicked
things when I am awake, but I dream awful things. I hated those monks being
there to see me die. A girl at school once said she dreamt of Christ’s
crucifixion. I would rather be crucified than burnt. これは燃えることを体験した夢である。わたしは一度も自分が死ぬ夢をみたことがなかった。この夢は、わたしがもうすぐ死ぬという警告でないことを希望する。弟が、夢は誰かに告げると、本当にならないという。わたしは誰にもいえない、そこで書くことにすれば、同じことだろうと思う。わたしはどうして悲鳴を上げないのだろう。悲鳴をあげられなかったのだ、そうでなければ、誰かが私を起こし、わたしはのどが痛かったに違いない。わたしはそんな苦しい死にかたをしなければならないほど恐ろしい犯罪をしたに違いない。そしてほかの人も。私のそばにはもう何人かが居た。彼らは恐れていないようだった。私達は裸足で広場に向かって、通りをあるいていた。その広場ではすでに火が付けられるように薪が摘んであった。何人かの僧侶がうたったり、祈ったりしていた。わたしはあり難いとは思わなかった。わたしは私のために祈るほどに彼らの面の皮が厚いのかと考えた。わたしはむしろ意地悪だったに違いない。わたしは目覚めているときは意地悪なことは考えない、しかし、夢ではひどいものを見る。わたしは僧侶が、わたしが死ぬのを目撃するためにそこにいるのを憎んだ。学校で一人の女の子がキリストの十字架にはりつけになる夢をみたといったことがある。わたしは焼け死ぬよりは、はりつけになったほうがよいと思った。
The pain was maddening. You should pray to God when you’re dying, if
you pray when you’re in agony. In my dream I didn’t pray to God. I thought of
Roger and how dearly I loved him. The pain of those wicked flames was not half
so bad as the pain I felt when I knew he was dead. I felt suddenly glad to be
dying. I didn’t know when you were burnt to death you’d bleed. I thought blood
would all dry up in the terrible heat. But I was bleeding heavily. The blood
was dripping and hissing in the flames. I wished I had enough blood to put the
flames out. The worst part was my eyes, I hate the thought of going blind. It’s
bad enough when I ‘m awake but in dreams you can’t shake the thoughts away.
They remain. In this dream I was going blind. I tried to close my eyelids but I
couldn’t. They must have been burnt off, and now those flames were going to
pluck my eyes out with their evil fingers. I didn’t want to go blind. 苦痛で気がくるわんばかりである。人は死ぬとき神に祈る。苦痛のなかにいるときも祈る。しかし夢の中で、わたしは神に祈らない。私はロジャーの事を考え、どんなに心から愛したかを思う。私が、彼が死んだと知ったときの苦痛にくらべれば、いじわるな炎の痛みはその半分ほどもひどくない。私は突然死ねることをうれしく思った。私は焼き殺されるとき出血するなどということは知らなかった。わたしは熱さのために血がドライに干上がってしまうと思っていた。ところが、私はひどく出血しはじめたのだ。血はたれて、炎のなかで音を立てている。私は炎を消すほどたくさんの血があればよかったのにと思う。一番の問題は目である。私は、眼クラになることをおそれる。もし目覚めていても、そういうことを思うのは嫌なものだが、夢の中ではソウ思っても、その思いを追いやることが出来ない。それはそこにとどまっている。この夢では私はめくらになる。わたしは瞼をとじようとするが、出来ない。すでに燃え落ちたに違いない。いまや、炎はそのいまわしい指でわたしの目を引き抜こうとしていた。わたしはめくらになりたくない。
The flames weren’t so cruel after all. They began to feel cold. Icy
cold. It occurred to me that I wasn’t burning to death but freezing to death. I
was numb with the cold and suddenly I started to laugh. I had fooled those
people who thought they could burn me. I am a witch. I had magicked the fire
and turned it into ice. 炎は結局それほど残酷でもなかった。それらは冷たく感じられるようになった。凍るような冷たさ。わたしは焼け死のうとしているのではなく、凍死しようとしているのではないか。寒さでしびれ、突然、わたしは笑い出した。わたしは、わたしを焼き殺せると思った人びとをだましてやったのだ。わたしは魔女だ。わたしは火に魔法をかけて、それを氷にかえたのだ。・・・
「The Cathars and Reincarnation」Page88-89の紹介である。いわゆる少女の見る夢というよりも、まさにPast
lifeを再現しているような、リアルでおそろしい夢である。
こういう夢を常習的・日常的にみると、たしかに、Sandra
Gibsonが考えたように、頭がおかしくなったのか、どこかに問題があるのではないかと思ってしまうであろう。この Mrs.
Smith の場合は、 精神分析医で前世でカタリ派の仲間・愛人(?)Dr.
Guirdham に会うことによって、自分の夢は、悪夢ではなくて、実際に起ったできごとを思い出しているのだということを、ただちに理解して、(自分の13世紀の愛人であったRogerが、この Dr. Guirdhamとして転生しているのをさとり、夢は事実であったことを自分で確認でき)、Nightmareは消え、あとは、過去の再生と向かうわけである。
これは、非常に面白く重要な本である。Dr. Guirdhamはこのあと、カタリ派の仲間が1960年代同世代の人間として生きているのを突きとめる話を本にし(We
are one another, Group
Reincarnation)、それから、自分の中世以前の前世の記憶の話を本(The
Lake & The Castle)にしている。
村田茂太郎 2012年11月29,30日、12月1日 執筆
「心霊現象の科学」をめぐってーその35 Mediumship
をめぐって---
Maurice Barbanell “This is Spiritualism”を読む
わたしのブログで一番大事で、ブログ閲覧者のみなさまに読んでいただきたいのは、“心霊現象の科学”と題する領域のブログです。
できれば、その1 から読んでいただきたいと思います。
わたしは、拙著「寺子屋的教育志向の中から」という40篇近いエッセイを載せた本の中の“「心霊現象の科学」(パラサイコロジー)への私の歩み”と題するエッセイで、わたしのこの領域への関心について展開しました。
今や、テレパシー(Telepathy)や透視(Clairvoyance)あるいはPK(Psycho Kinesis)などはある種の人々には強烈に恵まれ、ふつうのひとでも、異常事態においてはその第六感といえる能力を発揮することは、よく知られています。
従って、さまざまな“心霊現象の科学”の中でも、今、いつ死ぬかわからない年齢に達した人間にとって、最大の関心は、“死”であり、俗に言う“あの世”、“死後の世界”があるのかないのかが誰にも興味あることだと思います。これこそ、科学的に証明が不可能と思われている領域で、科学者は扱うのを避ける傾向があります。幸い、19世紀末にイギリスで結成されたこのサイキックな領域を研究するグループがまじめに科学者や哲学者その他の学者を含んで研究してきたおかげで、今では様々な大学でまじめにParapsychologyを研究しようとする人が増えています。
最近は小学生といえども自殺をしたりする状況にあり、老若を問わず、死の問題はだれにとっても大事だと思います。
そして、飛行機事故、交通事故など、あるいは自然災害など、老若を問わず、突然、死に巻き込まれることもあります。従って、誰でも、ある程度、死後の世界があるのかどうか、何かに巻き込まれたときの心の準備という意味でも、知っておいた方が良いように思えます。
既に紹介した立花隆の「臨死体験」では、上下約1000ページをつかって、この有名な体験の意味を探ろうとしました。そして、立花隆自身は脳内体験説(つまり酸欠状態などの瀕死の状態の中で、脳内にエンドルフィンなどが分泌され、恍惚感その他臨死体験者が体験したと感じるほとんどすべての現象がおこるという説)に魅かれるが、死後の世界をほんとうに垣間見たのが臨死体験だという説も完全に捨てられない、だから判断保留というのが彼の結論でした。
わたしは、脳内体験説では、臨死体験者が物故者と出遭ったとか、見たことも無いはずのおじいさんに出遭ったとか、体外離脱で、脳内体験では不可能な体験をしたということの説明がつかないため、やはり、エンドルフィンとか、いろいろ酸欠で説明できることもあるけれど、実際に、別の次元があると見たほうがすべての説明がスムースに出来ると思います。
そこで、臨死体験よりもあざやかに死後の世界または別な次元の存在を証明してくれるのがMediumshipだと思います。Irene Hughesが言っていたように、科学者はもう少し、まじめにサイキック、Mediumなどとつきあい、Mediumのもつ異常な超能力とそれが開く別な次元について、調査を進めるべきだと思います。もちろん、MediumとSéanceの研究は19世紀末から盛んに行われていましたが、現時点での科学の理論と実験・検査器具をつかって、まさにハイゼンベルクの不確定性原理(観察者が観察内容に影響を与えるーこれは、まさに、Negativeな態度ではサイキックのPositiveな反応が期待できないということに照応します)を考慮しながら研究を進めるべきと思われます。
わたしは本当にすぐれたMediumに会いたいと30年前から思っていましたが、まだ実現していません。アメリカやイギリスにはSpiritualist達の会合が定期的にもたれたりしたようですが、あまり宗教とは無縁な世界に居た人間(わたくし)にはそういう人たちと接するチャンスがありませんでした。
わたしの蔵書の中に、今から35年ほど前に購入したPaperbackで「This is Spiritualism」という本を最近見つけました。イギリス人Maurice
Barbanellという人が1959年にイギリスで出版し、アメリカ版は1967年が初版となっています。
このひとは、なんと3000回もMediumのSéanceに出席したと書いています。私から見れば本当にうらやましい話です。わたしは拙著でも記しましたが、突然、自殺したり、病死したり、ともかく、死に際をみとる機会もなく亡くなったクラス・メートや友人・知人などがたくさん居ます。従って、もし、Mediumの本に書いてあるように、死んだ人とコンタクトできるものなら、いいMediumをさがして、コンタクトしたいものだと思っていました。
最近、すぐれたサイキックIrene
Hughesが2012年の2月に101歳でなくなったのを知り、残念に思った次第です。
1959年の時点で、わかるひとには、死後の世界または“あの世”があることはわかりきっていたようです。すでにこのブログのなかで取り上げたHereward
CarringtonとEileen
Garrettの話で、CarringtonはEileen GarrettのガイドまたはコントールまたはSpirits(ふたり)がGarrettとは独立に存在できるということから、死後の世界の存在は証明されたと確信を持ったわけであり、また、おなじく、このブログでとりあげたNandor
Fodorというハンガリーの精神分析学者でPoltergeistの研究などでフロイトから直接手紙でお褒めの言葉をいただいたというひとが、死ぬまぎわのAllen
SpraggettとのInterviewで、MediumとのSéanceの中で、自分の父親の声をきいて、彼は死後の世界の存在を確信したと話していました。
このBarbanellの本には驚くべき事実が書かれています。わずか160ページの小冊子ですが、内容は豊富です。
次回は、このSéance参加の達人(3000回も参加!)が書いたおもしろいSpiritualismに関する本の紹介を行いたいと思います。まさに、臨死体験でなくて、別の次元、あの世、死後の世界の存在を証明するような内容です。
彼自身は無神論で育ち、Talk Showの司会者・反論相手として本当のサイキック・Mediumに出会うまでは、Spiritualismなどとは無縁なひとでした。
それが、最初のMediumとの出会いが、3000回を越えるSéance参加・研究となったわけで、人間Openな態度で居れば、どのようにかわっていくか、はかりしれないものがあります。
この本には、主に、有名なイギリスのMedium Estelle Robertsという女性の話がでてきます。わたしは30年以上前に、ナント彼女の自伝「Fifty
years a Medium」という本を購入して、既に読んでいたのです。彼女のSpirit
GuideはRed
Cloudといい、非常に有名になりました。
このBarbanellの本を読むと、なぜ、アメリカIndianがSpirit Guideになるケースが多いかについて、彼が推定しているところがあります。
(つづく)
村田茂太郎 2012年12月2日、3日 執筆
「心霊現象の科学」をめぐってーその36 Mediumship
をめぐって---
Maurice Barbanell “This is Spiritualism”を読む(つづき)第15章 Spirit
Signature から
(page 117-120).
50年以上前に書かれた本。この“その36”は、この“Spirit
Signature”の抜粋・紹介が主になるでしょう。版権がどうなのかわかりませんが、勝手に引用して、意訳させてもらいます。
Psychic
Scienceのなかでも、“あの世の存在証明”以外に一番科学的証明がむつかしそうなのが、あるいは実験不可能なのがMediumが時に示すMaterializationとかTeleportation,
Apportsとかです。19世紀、後半から20世紀初めのMediumのなかには、インチキを暴こうという否定的な科学者があつまっているなかで、自分のMediumの才能を発揮しようとして、できないために、インチキなトリックでごまかそうとして、見破られるというケースがたくさんありました。(Eusapia
Palladino etc.…). ホンモノのサイキックは、まわりのエネルギーに影響されるので、にせものをあばいてやろうというNegativeな姿勢を持った人が集まった場所では、全然、サイキックな実力を発揮できないわけでした。それが、逆にホンモノだといえるのであって、トリックであればいつでも可能なはずです。
この第15章にはLouis
BoltというMediumの驚くべきMaterializationが示されています。このMaterializationは簡単にはできないので、彼女は1年に1回だけ行ったと書かれています。
Her
slight, pale figure suggested anything but a materialization medium. Yet it was
at some of her séance that I saw my most outstanding results in this phase of
mediumship. The séance I am about to describe is one that will always live in
my memory, for a spirit promise was fulfilled that night. A materialized form
stood in front of me and, as he said he would do, some months earlier, wrote
his signature on a piece of paper which I held out to him. …. Medium ミセス・ボルト Mrs. Boltの姿形をみただけでは、だれも物体を現象させるMediumとは思えない。しかし、わたしはもっとも見事な現象を目撃した。わたしが語ろうとしているSéanceは私の記憶にいつまでも残っているだろう。というのは、Spiritはその夜、約束を果たしたのだった。人間の形をした像が私の前に立ち、彼が約束したように私がもちだした紙にサインを書いたのだ。
A
few minutes after the séance began, the four other visitors and I felt the cold
psychic breezes which always accompany the production of these phenomena. Just
as the cabinet, we are told, is used to store and condense the spirit power
necessary to produce materializations, so the cold breezes are said to indicate
part of the process used by the invisible operators to obtain their results.
The drop in the temperature is unmistakable. Séanceが始まって数分ののち、5人の同席者はサイキックな空気の動きを感じた。それは、必ず、この種の現象が現れるときに、おきることなのだ。キャビネットが、物体が現れるのに必要なSpirit
Powerを保持し、密度を高めるのにつかわれるように、冷たい空気の流れは見えない操縦者が作業を始めている印なのだといわれている。温度が目だって低下した。
From
within the cabinet there appeared a small, white hand, which, we were informed,
belonged to Ethel, the guide in charge of the phenomena. In a short, gentle
voice, we heard her ask: ”Can you
see may face?” Then she appeared in front of the cabinet, a beautiful figure,
clad in dazzling white raiment. I noticed, as I have frequently done, that
although a red light illuminated the room the ectoplasmic robing was snowy
whited, Neither did it reflected the red light. キャビネットの中から小さな、白い手が現れた。それはこの現象をしきるガイドであるEthelエセルというSpiritのものなのだ。短い、穏やかな声がして、「私の顔がみえますか?」と訊ねた。それから、彼女はキャビネットの前に現れ出た。美しい姿で、まぶしいような白い衣装を身につけて。赤いライトが部屋を照らしていたが、Ectoplasmicな衣装は雪のように真っ白で、しかも赤いライトを反射していないのに気がついた。
Ethel
insisted on showing us her striking beautiful face-incidentally, it bore no
resemblance to that of the medium. Mrs. Bolt is good-looking, but she would be
the first to admit that her features could not compare in beauty with those of
her guide. エセルEthelはやがて彼女のめだって美しい顔を私達に見せるといった。ミセス・ボルトは美人だが、とても美しさの点では、Spiritガイドのエセルとは比較にならないと自分から認めたであろう。
Ethel
asked each one of us to step forward and shake hands with her. Her hand was
soft and warm. To all intents and purposes it resembled a completely formed
human hand. When I shook hands with her, she allowed the drapery over her arm
to brush me. I asked permission to handle this spirit robing, and it was
readily given. I can only describe it as having a gossamer texture, far softer
than the finest silk, and giving me the impression of feeling cobwebs. エセルは一人ひとりに前に出て彼女と握手するように求めた。それは完全な人間の手の形をしていた。彼女が私と握手したとき、彼女の腕の被いがわたしをかすった。私はこのSpiritの衣装に触ってもよいかと許可を求め、OKをもらってから、手で触った。それは最高の絹よりもソフトで繊細なうすもののヴェールのようで、わたしはクモの糸のようだと思った。
One
of the five visitors was Lady Caillard, whose husband, Sir Vincent, had
promised to materialize. In earth life he was a well-known industrialist who
had been president of the Federation of British Industries. I had not met him,
before his passing, but had got to know his voice through hearing it at séances
with Estelle Roberts and Louis Bolt. The voice I heard coming from cabinet was
similar to Sir Vincent’s speech as I had heard it at other séances. The best
testimony, however, came from his wife, who was easily able to identify it. 同席者の5人の一人は、ミセス Caillardケイヤードで、彼女の夫が、つぎのSéanceで肉体として現前するであろうと約束していたのだ。サー・ヴィンセントはよく知られた工業経営者でイギリス工業会の会長も務めたことがあった。わたしは彼の生前、彼に会った事は無いが、Estelle
RobertsとLouis
BoltのSéanceで彼の声を聞く機会はあった。私がその夜、キャビネットの奥から聞いた声は別のSéanceで何度か聞いた声であった。しかし、一番信頼のおける証言はミセスからで、彼女はたやすく本人だと判断できた。
“I
am doing my best”, he said to her, “it all seems so difficult, because I am
excited. I shall be with you in a moment. Let me get strong enough to bear the
light.” This clearly indicated that, in addition to the labors of guides, the
manifesting entity also has his contribution to make. 「わたしは、ベストをつくしているのだよ。」と彼は言った。「とてもむつかしいのだよ。私は今、とても興奮しているから。すぐに出てくるよ。灯りをがまんできるように強くなる準備をしているのだ。」この言葉は、Spiritガイドの作業に加えて、現れようとするSpiritのほうも、努力をしなければならないということを示している。
Next
Sir Vincent addressed to me, saying; “I shall keep my promise.” A few moments
later I heard him say to Lady Caillard: “I am quite ready. I am more than
ready.” In an earnest tone he prayed: “Oh God, give me strength.” それから、サー・ヴィンセントは私に向かって、「わたしは約束を守るよ」と言った。そして、しばらくして、私は彼がLady
Caillardに「用意は出来た。はりきっているよ。」というのを聞いた。彼はまじめな態度で「オー、神さま、私に力を与え給え」と祈るのが聞こえた。
Then
he appeared in front of the cabinet’s curtains. He was several inches taller
than Ethel. I would have guessed his height as six feet. His features were
completely materialized, even to his distinctive moustache. He called his wife
by the nickname that she said he always used when addressing her. Then he
turned to the side of the cabinet where there were some roses, brought by his
wife, which had been placed in a bowl on a table. “My flowers,” he exclaimed.
With a clearly visible materialized hand, he took two roses out of the bowl and
asked her to come forward. When she did so, he handed the flowers to her. “This
is our final accomplishment,” he said. First he took her by the hand, and then
he embraced her. それから、彼はキャビネットのカーテンの前に現れた。彼はガイドのエセルよりも数インチ高く、6フィートほどであった。彼の姿は完全に現象していた。めだった口ひげにいたるまで。彼はミセスをニックネームで呼び、それは彼がいつも妻に声をかけるときのものであった。それから、彼はキャビネットの横に向き直った。そこには妻がもってきたバラがテーブルの上の鉢に活けてあった。「わたしの花だ。」彼は叫んだ。明らかに目に見える形をもった手で、鉢から2本バラをぬきとり、妻に前にくるように言った。そして、彼は彼女に花を手渡した。「これは、わたしたちの最後の達成だ。」と言い、彼女の手をとり、それから彼女を抱きしめた。
Lady
Caillard, a practicing Roman Catholic, had started her inquiry into
Spiritualism when her husband’s passing left her grief-stricken with
bereavement. Gradually the evidence for his survival had accumulated through
many mediums and varied phases of phenomena. This, however, was the first time
that he had materialized, to keep a promise he had made at earlier séances. Lady Caillardは実際的にはローマ・カトリックに属したが、夫がなくなってから、悲しみにとらわれ、Spiritualismで夫のことを探すようになった。たくさんのMediumとのつきあいから、だんだん、夫が別の次元でSurviveしているということがわかった。しかし、こうして、形を持って彼女の目の前に現れる経験というのは、初めてであった。別のSéanceでお前の前に現出するよといった約束を果たすためにMaterializedしたのは。
The
scene that was enacted in front of us was one at which I felt I had no right to
be present. This was a moving reunion between a dead husband and his living
wife, the greatest of all human dramas, one charged with supreme emotion. The
materialized Sir Vincent kissed his wife several times and, during their
embraces, whispered words of endearment and encouragement to her. He had
already told his wife, a very sick woman, at previous séances, that their
reunion was not far away. He referred again to their forthcoming reunion which,
incidentally, took place five months later, when she died. この夫婦再会の場面はわたしたちの目の前で演じられたが、わたしは、自分はこの場面にいる資格はないと思った。これは死んだ夫と生きている妻との感動的な再会であった。人間の演ずるドラマの中で崇高な感情にいろどられた最高のドラマであった。現れたサー・ヴィンセントは妻に何度かキスをし、抱擁している間、彼女に親愛な感情を示し、力づけようとした。彼は既に、かなり病気の重い妻に、前のSéanceで自分達が会えるのは、もうすぐだと語っていたのである。再度、そのことを伝えたようで、実際、彼女が亡くなったのは、それから5ヵ月後のことであった。
When she returned to her seat in
the séance room, Sir Vincent insisted on shaking hands with each one of us.
Like Ethel’s, his was a real hand. I know it was. When he shook hands with me,
he slapped me with his other hand. They certainly belonged to a man! His hands
were harder than Ethel’s, which I had clasped earlier in the séance. 彼女がSéanceの部屋の自分の席に戻ったとき、サー・ヴィンセントはわれわれ一人ひとりと握手をすると言い出した。エセルの場合と同様、彼の手はホンモノの手であった。まちがいない。彼は私と握手するとき、別の手でたたいてみせた。それは明らかに男の手であった。先に握手をしたエセルの手にくらべると、より堅い手触りであった。
……
Then
he asked me for my notebook on which to write his signature, and so fulfill his
promise made at an earlier séance…. His wife handed him a pencil. I held my
notebook with the plain sheet of paper on top of it. “Now we can see through a
glass darkly, but then face to face,” he said. それから、かれは私のノートにサインをすると前のSéanceで約束していたので、それを実行するといいだした。妻から鉛筆を受け取り、私がノートの上においたきれいな白紙を差し出した。「今や私達はガラス越しに、暗いけれども顔と顔をつきあわせてお互いを見ることが出来る。」と彼は言った。
Then
he wrote his signature, “Have I kept my promise?” he asked. I assured him that
he had. Sir Vincent stepped right out of the cabinet and showed us that he was
a fully-formed, materialized figure. “It has been a grand reunion,” he said. そして、彼はサインをした。「約束を守ったかね」と彼はたずね、その通りと私は確認した。サー・ヴィンセントはキャビネットから歩み出て、自分が完全に形をなして現れているのをみんなに見せた。「立派な再会だった」と彼は言った。
Even
this was not the end of the séance. … Thus, at one séance, three distinctive,
yet different materializations had been made visible to us. … このサー・ヴィンセントの出現だけで、このSéanceは終わらなかった。このあと、3つの明らかな、しかし異なった物体が出現したのであった。 (以下、省略 - ムラタ)。
ここでは、この自称3000回以上もSéanceに出席したというSéanceのベテランが、その経歴の中で、もっとも印象的で忘れがたかった、あの世からの人間の現出という場面を目撃したことが語られていた。
彼はこのあと、同じ第15章で、この体験から、新約聖書とイエス・キリストそして12使徒に関する考察を記している、これも重要なので、次回に紹介することにする。
今回は、ほとんどMaurice
Barbanellの本の引用で終わってしまったが、これは紹介する価値あるものであったと信じる。
次回は、同じ章からまた沢山引用することになるが聖書研究にとっても、刺激的な内容であると思う。
村田茂太郎 2012年12月6日 執筆
「心霊現象の科学」をめぐってーその37 Mediumship をめぐって--- Maurice
Barbanell “This
is Spiritualism”を読む(つづき)第15章 Spirit Signature から (page 121-123) 新約聖書 イエス・キリストと12使徒をめぐるBarbanellの考察の紹介
(その36) でMaurice
Barbanellが参加したSéanceで、Materialization=物、人間らしきものがSéanceのルームに現れるのを目撃したBarbanellは、サー・ヴィンセント(Sir
Vincent Caillard)の具体的な、実体のあるSpirit像に接して、彼のバイブル・新約聖書に対する理解力を深めたという話が、つぎにでてきます。
また、英文と私の意訳で紹介していきます。彼はここで、イエス・キリストはサイキックであり、彼の12人の弟子達もみなそれぞれ違う才能を持ったサイキックであったと考えています。したがって、Barbanellによると、一見、信じられないように見えるミラクルは、実はミラクルでもなんでもなく、現在、Mediumが個室で演出できるサイキックな現象であるという解釈になります。
立花隆の「臨死体験」報告によると、彼自身がいくつかの実験的な装置にはいったり、Meditationをやったりとかいろいろとやってみて、まさに恍惚ともいえる宗教的な世界に入れたことを報告しています。ここから、いわゆる、世にいう宗教の教祖達はなんらかのそうした宗教的体験をした人物たち、あるいはサイキックな能力を持ったひとたちであったといえるように思えます。
もちろん、教祖になるには、ただ宗教的体験だけでなく、弟子または信者の中に組織力のある蓮如のような人物がいなければならず、そしてキリスト教の場合はペテロやパウロその他の優秀な弟子達が必要です。
今回も、ほとんど、このMaurice
Barbanellの「This
is Spiritualism」からの引用となります。これは抜粋ではなく、ほとんど関係部分全文の引用となります。(Page121-123)。内容が興味深いことと、この本はAmazonで調べると、古本でしか手に入らず、Used
Bookで59ドルとなっていますから、一般には大きな図書館にでも行かねば、見つからないでしょう。この部分は新約聖書の謎が解明されたような、興味深い考察となっています。
Had I not seen materialization in the séance room I doubt whether I
would have accepted some of the “miracles” recorded in the Bible. Many modern
clergymen reject these biblical accounts of post-mortem appearance because they
contend they conflict with scientific knowledge. It is strange that
Spiritualism, which arouses antagonism of those with very orthodox religious
views, should provide the evidence that makes Bible “miracles” feasible because
they are duplicated today in the séance room.
私がSéance roomでのMaterializationを目撃していなかったら、バイブルに記された幾つかのミラクルを本当にあったものとして受け入れたとは思えない。多くの現代の牧師は聖書にある、キリストがその死後にたち現れたという話を信じない。なぜなら、それは現代の科学の知識と矛盾するからと主張する。大変オーソドックスな宗教的な見方に敵対するとみられるSpiritualismが、聖書がミラクルとみなすものが、実は可能だという証拠を提出する、なぜなら、それらはSéanceの部屋で再現可能なのだから、というのも不思議なものである。
What is extraordinary is the fact that, although the Bible was
translated by men who doubtless had no knowledge of undoubtedly psychic
phenomena are in line with modern mediumistic happenings. Moreover, these Bible
accounts comply with the conditions required by psychic laws as we see them
operate today.
何が特別なことかといって、バイブルが疑いもなくサイキックな現象に対する知識もない人々によって翻訳されたのであるが、現代のMediumたちが行う現象と見合っているということである。さらに、バイブルが説明している状況が現代でサイキックが行うにあたって必要な条件とあっているということである。
Dr. Barnes, when he was Bishop of Birmingham, incurred the displeasure
of clerical colleagues because he rejected the post-mortem appearances of Jesus
and said they were myths. If he had witnessed, as I have done, a repetition of
the phenomena which occurred in the Upper Room, he would have realized neither
miracle nor myths was involved.
バーンズ博士は、Birminghamの僧正であったとき、同僚達を不快なめにあわせた、なぜなら、彼はキリストの死後の現出を拒否し、あれは神話だといったからである。もし彼が、私がやったように、聖書に言うUpper
Roomで起きた現象と同じことが再生されるのだということを目撃していたら、それはミラクルでも神話でもないことを悟ったであろう。
Jesus, according to the account, appeared in what was virtually a
duplicate of his earthly body, one so solid that the skeptical Thomas was asked
to handle it. In similar fashion, I and others have handled the materialized
bodies of people who had been dead for years.
イエスは、その説明によると、在世中の身体と全く同じ様子で現れた。その姿は全く堅固で、懐疑的なトーマスは触るようにといわれたほどである。同じような具合に、私とほかの人も、何年も死んでいた人が形をなして現れたとき、その身体を触ってみた。
If the story of Jesus ended with the crucifixion, it is doubtful
whether anything more would have been heard of Christianity. Looking coldly at
the Bible narrative, it is incontrovertible whether that the crucifixion
represents Christianity discredited, its leading figure scorned and hanging
between two thieves. One disciple had betrayed Jesus for thirty pieces of
silver. Another proved to be a traitor, while all the rest fled in the hour of
trial.
もし、イエスの話が十字架の刑でおわっていたなら、キリスト教というものが世界中に知られるようになったかどうかは疑わしい。冷静にバイブルの説明をみると、十字架の刑がキリスト教の信用をうしなわせたのは争う余地が無い、指導者が泥棒たちと並んで軽蔑され、磔にされては。一人の弟子はイエスを銀貨30枚で裏切り、もうひとりは反逆者だとわかり、ほかのものは、みな裁判中に逃げてしまったのだから。
It was evidence, not faith, proof or hope that transformed the
disciples into apostles with zeal to spread the new gospel. The evidence
consisted in seeing that their leader had not perished with death. He had
survived and, from the after-life, gave proof of his continuing presence. That is
the meaning of the séance in the Upper Room. It was similar psychic evidence
that turned Saul, the persecutor, into Paul, the great propagandist. That is
the meaning of what happened to Saul on the way to Damascus.
弟子達を最初の使徒としてあたらしい信仰をひろげるように変えたのは信頼でもなく、希望でもなく、証拠であったのだ。彼らの指導者が死とともに消えてなくなったのではないということを見たという証拠があったからだ。彼は生き返り、死後の世界から、今も生きているという証明を行ったからだ。それが、Upper
RoomでのSéanceの意味なのだ。同じようなサイキックな証拠が迫害者Saulを偉大な布教者パウロにかえたのだ。それが、ダマスカスへの道の途中でSaulに起きたことの意味である。
A knowledge of Spiritualism is the answer to many Bible riddles. Why
did Jesus choose these twelve men to be his disciples? It was not for their
calling, their education, their social accomplishments, or even their
characters. My contention is that they were mediums, selected for their psychic
talents, who constituted what spiritualists would call the perfect circle. It
is as true today as it was then that psychic gifts are not necessarily
accompanied by spiritual, mental or cultural attainments.
Spiritualismに関する知識が多くのバイブルの謎を解明してくれる。なぜイエスが弟子として、これらの12人を択んだのか。それは、天職からでもなく、教育からでもなく、社会的な業績からでもなかった、いわんや彼らの性格からでもない。私の判断では彼らはMediumであり、サイキックな才能を持っていたから択ばれたのだ、その12人でSpiritualistsがいうところの完全な円をつくれたのだ。サイキックな才能は必ずしも霊的、精神的、文化的な能力に付随するものではないのは、昔も今も変わらない。
Pete, John and James were what we would call physical mediums. Judged
by the Bible narrative, their physical mediumship, was not dependent upon Jesus
but functioned even after his death. When psychic phenomena of a physical
character were to be demonstrated, Peter, John and James were always asked to
accompany Jesus. The superb example is the séance on the Mount of
Transfiguration, where the pure air and stillness were ideal conditions for
psychic manifestations.
ペテロ、ヨハネ、ヤコブはPhysicalなMediumであった。バイブルから判断すると、彼らのPhysicalなMediumshipはイエスに依存せず、彼の死後も機能した。サイキックな現象のなかでも、Physicalなものを見せる必要があるときは、この三人がいつもイエスについてくるように誘われた。もっとも見事なサンプルは変貌の山でのSéanceである。そこは空気もきれいで、静かで、サイキックな現象があらわれるのに理想的な場所であった。
Incidentally, nowhere in my reading of the New Testament do I find any
accounts of psychic phenomena that are not in harmony with their present- day
presentation. There are, for example, no daylight materializations because,
just as we have found today, while light is deleterious to the production of
these phenomena. They always occurred at night or at dusk.
付随的なことだが、私が新約聖書を読んだ中で、どこにも、現代のサイキックがその才能を現すのに必要なものと、この聖書の中の条件とあわないものは見当たらなかった。たとえば、白昼にMaterializationが起ったことは決してなかったが、それは今日も同様である。光はこうした現象があらわれるのに有害な作用をおよぼすことはわかっている。したがって、いつも聖書の中でも、サイキックな現象は夜か薄暗いなかであらわれた。
Let us examine this séance on the mountain, as described in St Luke’s
Gospel. As Jesus prayed, we read, “his countenance was altered and his raiment
was white and glistening.” Transfiguration is not uncommon psychic phenomenon.
I have frequently seen a medium’s face become transfigured, by the ectoplasm
built over it, until the features of a deceased person are clearly
recognizable. And the “white and glistening raiment” is a perfect description
of ectoplasmic robing.
では、ルカの福音書に記された山の上でのSéanceを調べてみよう。イエスが祈ると、「彼の表情はかわり、彼の着物は白く、輝いていた」と書かれている。姿が変わるのはサイキックな現象では別に珍しいことでもない。私はしばしばMediumの顔がかわるのを見た。なんらかのEctoplasmが顔をおおい、死者の顔がはっきりとわかるまでに変貌する様を。そして、白く、かがやく衣装というのは、完全にEctoplasmの衣装の記述といえる。
Peter, John and James were “heavy with sleep”, or as Spiritualists
would say, they were in trance. They awoke to find Jesus was communicating with
Moses and Elias, who, of course, had been dead for many years. Then Peter
suggested that they should build three tabernacles, one for Jesus, one for
Moses and one for Elias. The word “tabernacle” could easily be translated as
“cabinet”. Peter doubtless had in mind the possibility of other materialization
séances being held on the mountain.
ペテロとヨハネとヤコブは深い眠りにあったというのは、Spiritualistsなら彼らはTrance状態にあったというところである。彼らは目を覚まし、イエスがモーゼ、エリアと会話をしているのを見つけた。もちろん、この二人はずっと昔に死んだ人である。それで、ペテロは、それぞれのひとのために、3つのTabernacle小屋を作ろうと提案する。これはキャビネットのことだといえる。ペテロは言うまでもなく、山でSéanceを続けている限り、ほかにもMaterializeする可能性があることを頭に留めていた。
This séance provides the perfect answer to those who assert that
psychic phenomena are condemned in the Bible. In support of their belief they
usually quote texts said to have been uttered by Moses. If these texts are, as
they suggested, condemnations of psychic phenomena, then Moses defied his own
prohibitions when he materialized, with Elijah, to Jesus.
このSéanceはバイブルではサイキックな現象は非難されているという人たちに対して、完全な答えを提供している。彼らは自分達の信じていることの証拠固めとして、モーゼはこういったという風に引用する。もし、モーゼがそうなら、自分がエリアとともに、イエスに対してMaterializeしたことによって、自分で禁じたことと矛盾することをしていることになるのだ。
St. John’s Gospel records that the first time Jesus materialized after
his death, “when it was yet dark”, Mary Magdalene, who knew him well, mistook
him for the gardener. Such an error is incomprehensible without the psychic
key. How could so striking and commanding a figure like Jesus be mistaken for a
gardener? The explanation is simple.
ヨハネの福音書では、はじめてイエスが死後に現れたとき、まだ時間的には暗かった、そして、マグダレナのマリアは、イエスをよく知っていたはずなのに、彼をガーデナー(園の番人)と勘違いする。これは、サイキックな要素を考慮に入れないと考えられないような誤りである。どうして、イエスのように、際立った、圧倒的な姿を示すイエスがガーデナーとまちがえられるなどということがおきるのか。答えは簡単である。
The gardener must have supplied the mediumship necessary for this first
materialization of Jesus. And because it was an initial appearance, the
gardener’s impress and personality were stamped on the materialization-a not
uncommon occurrence at séance today. It is not until Jesus calls her by name
that Mary recognizes who the figure is. Then she rushes to greet him, but is
met with the injunction, “Touch me not”. A similar cry is heard in the séance
room when a spirit form has materialized for the first time, simply because the
power is not strong enough to stand handling.
ガーデナーははじめてのイエスのMaterialization現出に必要なMediumshipを提供したに違いない。そして、はじめての出現であったため、ガーデナーの特徴と個性がMaterializationの過程で刻印されてあらわれたのだ。これは今日のSéanceでもよく起きることである。イエスがマリアに呼びかけるまで、彼女には見分けがつかなかった。そしてはじめて気がついて、挨拶をしようと駆けたが、イエスにストップをかけられた。「触るな!」。同じような叫びは、Séanceの部屋で、Spirit Formがはじめて現出しようとするときに叫ばれる。理由は簡単で、Powerがまだ強力でなく、触られることにたえられないからだ。
Later, in contrast, when Jesus appears in the presence of his twelve
disciples, whose combination of psychic talents provides almost perfect power,
not only is he clearly identifiable, but Thomas is invited to touch him so that
his skepticism may be ended.
あとになって、対照的に、イエスは12人の使徒達の前に現れた。彼らサイキックたちの能力が充分に、必要なエネルギーを提供したからだ。イエスははっきりとわかるほどであっただけでなく、懐疑的なトーマスに、決着をつけるために、触ってみろとまでいったのだ。
The moral I am trying to draws is the simple one that Christianity owes
its existence to psychic phenomena that are similar to present-day séance-room
happenings. Whenever I have gone to materialization séance, I have found myself
comparing demonstrations I witnessed with those described in the New Testament.
I, like others, see in these phenomena a reason for accepting the Bible
“miracles” which have caused thousands to turn their backs on supernatural
religion. Thus the séance becomes a bridge where science and religion can meet,
proving that science can be religious and religion scientific.
ここでわたしが引き出す教訓は簡単なものである。キリスト教はその存在をサイキックな現象に負い、それは現在のSéance-roomで起きる現象と同じようなものなのだ。わたしがMaterializationのSéanceに参加したときはいつも、わたしは新約聖書にしるされた現象と比較しているのだった。わたしは、ほかのものと同様、これらの現象にバイブルのミラクルを本当に起きた事として受け入れる事になるのに対し、幾人ものひとが超自然的な宗教に背を向けることになっていたのだ。こうして、Séanceが科学と宗教とが出会う架け橋となり、科学が宗教的でありえ、宗教が科学的でもありうることを証明することになるのだ。
*** *** ***
I have had many striking demonstrations of the power of the spirit, as
the Bible calls it, with mediums in Britain and America when I have attended
materialization séance.
私は、バイブルがいうように、イギリスやアメリカで、私が参加することが出来たMaterializationのSéanceで、Medium達によって、SpiritのPowerの見事な演出を目撃することになった。
ということで、Maurice Barbanellは、聖書に書かれた、一見、信じられないような様々な現象は、サイキックな人たちが現在でも日常的に現出できることであり、それらはミラクルでも神話でもなく、イエス・キリストと使徒達はMediumの素質を持ったPsychicであったから、起きたのだというのである。
そういえば、イエスが、いろいろと自分の将来を予知する(つかまって、死刑になるとか、生き返るとかと)のも、彼自身がすぐれたサイキックだったから、わかったのである。これは、Edgar
Cayce、Irene
Hughes, Eileen Garrett, Rosemary BrownなどのすぐれたPsychicの話を読むと、彼らがかなり正確に予知する能力を保持していたことがわかり、イエスの場合もそういうことであったのかと、よく納得できるのである。
そういう次第で、現代のPsychicの活躍を考慮すれば、キリスト伝説も科学的に説明がつくのであるが、その現代の科学が、立花隆の言うように、まだまだ初歩的な段階であるということを忘れてはなるまい。小林秀雄が“信じることと知ること”とかという講演で若者に警告したように、不思議が世の中には起きる、ある、それはそのまま認めて、それを解明する姿勢を失わないことが大事である。科学は驚くほど進歩したといっても、意識の働きはどこからくるのかという一番大事な問題もわかっていないし、ちいさな蚤一匹でも、まだ人工的に作り上げることができないのである。
映画Star Trek IV Voyage Homeでメンバーの一人、医者のDeForest
Kellyが、Time
Travelでやってきたサンフランシスコの20世紀の病院で“なんと野蛮なPrimitiveな状態か”というところがある。そういうことである。まだまだ科学・医学は発展途上にあり、200年300年後、(Star
Trekの時代)には、手術をしなくても病気を治せるようなことになっているかもしれない。科学者の持つべき態度は、今の状態を過信しないで、不思議は不思議、今の科学で解明できないだけで、もっと進歩すれば、わかるようになるだろうと、謙虚な態度をもって事実を受け入れることである。思えば、超能力者があらわれたとき、そんなことはありえないと、嘘を暴くことに時間をかけて、なぜそういうことがありうるのかという謙虚な科学者の態度で現象の解明の努力をしない人が多かったが、今は、もうすこしまじめに、本当に科学者らしい態度でもって研究に取り組むべき時であろう。
村田茂太郎 2012年12月7日、8日
「心霊現象の科学」をめぐってーその38 Mediumship をめぐって--- Maurice
Barbanell “This
is Spiritualism”を読む 第2章 Our lives after death (Page 18-23)
第2章は「死後の生活」と題されています。まるで、見てきた世界の報告のようです。3000回のSéance参加の達人Barbanellによると、Mediumを通して得られた情報はまるで自分が体験したように思えるのでしょう。
Dr.
Raymond Moodyの本は「Life
After Life」と題され、また別の人
Dr. Helen Wambachは「Life
Before Life」、「Reliving
Pastlives」という本を書き、ソウかと思うと、Dr.
Joel Whittonは「Life
Between Life」という本を書いています。ほかにDr.
Fioreは「You
have been here before」。
Moodyの本はどちらかというと「臨死体験」の話、「Life
Before Life」とか「Past
Lives Therapy」(Dr.
Morris Netherton)とかは、Reincarnation転生で前世のLifeについて、それを思い出すと、現在自分が抱えている病気や問題が、うまく解決する場合が多いという症例研究。「Life
Between Life」は、Reincarnationを前提として、次に生まれ変わるまでの状況についてのPast
life hypnosisからの症例研究。Lifeに関して、BeforeとBetweenとAfterと、すべての状態をHypnosis,
Mediumー-ship,
Near-Death-Experienceから引き出しているわけです。
この「Life
Between Life」はまさに、生まれる前の世界で、自分を生む母親にあたる人が大きいお腹をして苦しんでいるのを空の上から眺めているというケースがあります。こうなると、白紙の状態でBabyがうまれるのではなく、意識を持った人間として、うまれるということで、Dr.
Ian Stevensonの「Twenty
cases suggestive of reincarnation」に書かれた前世の記憶を持って生まれた子どもの話が成立する理由がわかるような話です。この「Life
Between Life」によると、Paulaという女性に、彼女の前世の1822年生まれのMartha
Paineから、さらにその前の1700年代の女性Margaret
Campbell という女性へもどるつもりの催眠術をかけるときに“Go
to the life before you were Martha…”と指示したら、”I'm in the sky…I can see a
farmhouse and a barn…”・・・“What
are you doing up in the Sky?” ”I am …Waiting…to …be …born. I'm watching …watching what my mother does.”…. “What is your name?” “I …have …no …name.”という具合に予期しない返事がかえってきて、生まれる前のOut-of-Bodyといえる状態にいることがわかって、Life-between-Life の世界がわかりだしたという次第です。Dr.
は”Go
to the incarnation before you were Martha”と指示していれば、Margaret Campbellの世界に入ったわけですが、間違って“Life
before you were Martha”という指示をだしたため、CampbellからMarthaにうまれかわる前の、まさに母親が出産間近という世界にいったというお話。
そして、このBetweenの世界は、まさに「Tibetan book
of the Dead」(チベットの死者の書)にあたるわけで、Bardoとよばれる宙ぶらりんの世界をどううまく体験して次に転生するかというのと共通の話題になります。Dr.
Helen Wambachの「Life
Before Life」には、同じように、そして更に詳しく、SoulがFetus母体の中の胎児に入る前後の様子が、やはりPast
life therapy-Hypnosisで記述されています。みな、意識化されていて、まさにSoul, Spiritが肉体とは別個に存在することを証明するような証言です。もし、事実であれば。
そこで、今回はBarbanellの1959年に出版された本「This is
Spiritualism」にあらわされたOur
lives after Death「死後の世界」を紹介します。
Through mediumship I have received communications describing what life
is like in the world beyond the graves. The accounts have come from people who
dwell there and who describe their first-hand experiences. There are limits to
what they can tell us because of their inability to transmit complete pictures
of an existence which is super physical and is superior to earthly dimensions
and limitations….
Mediumを通して、私は墓場の向こう側の生活がどのようなものかといったことをものがった交信を受け取った。その内容はあちらの世界に住んでいて、実際に体験したことを語っている人びとから受け取ったものである。超自然的で地上の次元とか制約とかを超越した存在が完全な様子を描くことは不可能なので、彼らの語ることには限界がある。
Nevertheless from these spirit communications we obtain glimpses of the
kind of life that we shall experience when our turn comes to say farewell to
earth. Indeed, apart from mediumship, no detailed description of the after-life
has been presented. …
それにもかかわらず、これらのSpiritsとの会話から、私達が地上の世界を去って別の次元に移るときにどのような生活が待っているかの一瞥をあたえてくれるものがある。実際、このMediumとの交流がなかったら、死後の世界がどのようなものか、詳しいことはわからなかったであろう。(ムラタ補注:この本は1959年に出版された。1970年代に入って、Life
after Life やPast
life therapy、Life
Between Lifeなどの臨死体験やPast
life hypnosisによる別な次元の瞥見がなされるようになった。それがMediumの語るものと同じかどうかはまた別であるが、すでに千年以上も前に「チベットの死者の書」などで、After
life で Before
LifeのLimboの状態が死者へのガイドとして、探究、考察されていた。)
One day after death you will be precisely the same individual as you
were the day before, except that you will have discarded your physical body.
You do not have to die to become spiritual being. You are a spiritual being
today. Death comes when the real you withdraws itself and functions through
your spirit body.
死んで次の日に、あなたは前の日と全く同じ個人であるのを見出すであろう。違うのは、肉体という衣装をぬいでしまったということである。あなたはSpiritになるために死ぬわけではない。生きているときもSpiritualな存在なのだ。死はリアルな自分が引き下がり、Spiritだけが機能し始めるということである。
Life in the spirit world is not hazy, unsubstantial or nebulous, but
full of activity. There are ample opportunities and occupations for everybody.
It is both foolish and erroneous to imagine that when we pass from this life we
sleep forever, or until such time as there will be a resurrection. Death is
resurrection. …
Spiritの生活というのはぼんやりした、実体の無い、雲の塊のような世界ではなく、活動に満ちた世界なのである。充分すぎる機会があり、仕事がすべての人にある。われわれがこの世の生を終えて次に移ると永遠に眠ったような世界に入るとか、復活するまでそのような世界にいると思うのは誤解もはなはだしい。死は復活なのである。
There may be, after death, for many people a period of rest and
recuperation to enable them to adjust themselves to the new life. The sad fact
is that most individuals are so ignorant of spiritual verities that it is a
tremendous shock to them to find they have survived the grave. In a minority of
cases it may take the equivalent of hundreds of years for individuals to awaken
after their passing. These are the earthbound ones so often responsible for
hauntings, whose spiritual natures seldom functioned because of their selfish
or greedy lives.
死んでから、新しい生活に適応するために休憩とか回復の期間があるかもしれない。哀しいことに、たいていの人はSpiritの真実というものに無知なため、彼らが墓場を生きたということを発見して非常なショックを受ける。少数だがこの死から目覚めるのに何百年もかかるときもある。こういう場合が、Spiritになっているにもかっかわらず、地上にひっついてはなれられないために、しばしば幽霊として出没することになる。彼らはあまりにも利己的であったり、貪欲であったりしたため、Spiritが本来持っている機能を全然働かせられないでいたために起きるのだ。
Though death has freed them from their physical bodies, their lack of
evolution still chains them to earth, even though they are in a spirit world. …
死が彼らの地上の肉体からSpiritを解放したが、Spiritの進化の仕方がたりないため、Spiritであるにもかかわらず、地上につながれたようになっているのだ。
It does not take long, however, for the average person with his mixture
of homely virtues and trivial “vices” to adjust himself. …
しかしながら、普通の人がうまくSpiritの世界になれるのにそんなに時間はかからない。普通の人というのは、家庭的な美徳とすこしだけの悪徳を持っていた人なら、ということだが。
The overwhelming majority of mankind has nothing to fear from death.
Usually, on awakening, the newcomer is greeted by loved ones who have preceded
him. Families are reunited, friendships renewed and old associations
re-established. Recognition presents no problem. Those who love us in the
larger life have constantly watched over us and usually help when it comes to
our passing. Because in the spirit world thought is a reality, they are able to
show themselves as we knew them. …
人類の圧倒的な多数の人々は死をおそれることは何も無い。ふつう、目覚めると、死んだばかりの人は、彼よりも先に亡くなった、愛する人々に迎えられる。家族は再会し、交友はあらたまり、ふるい交際も再建される。相手を見つけるのに全然問題は起きない。Spiritの世界にいる、私達を愛する人々がずっと見守っており、時が来るとヘルプしてくれる。なぜなら、Spiritの世界ではThought考えるということが現実なのであり、考えるだけで彼らはあらわれることが出来るのだ。
One great factor that operates is the immutable law of attraction. Only
those of like spiritual qualities can dwell the same plane in this new life. A
husband and wife, who were joined only by a legal tie, between whom no love
existed and who were mentally divorced from one another, will not be together
in the spirit world. …
ひとつの不変の法則はAttraction好いたもの同士をひきつけるということである。あたらしい生活でも、似たSpiritを持つもの同士が同じ次元にとどまることになる。夫と妻が、ただ法的に一緒であって、愛情で一緒でなかった場合、あるいは精神的にお互いが別れているような場合、Spiritの世界では一緒にならないのである。
Unlike our world, there are no language problems in the after-life, for
nationality does not persist. Thought is the only language, and telepathy the
means of communication. Deception, pretense, cheating and lying are impossible.
There are no secrets. Every individual is known for what he is, mentally and
spiritually.
われわれ地上の生活と違って、死後の世界は言葉の問題は起きないし、国の違いも意味をなさない。Thought考え だけが言葉であり、テレパシーが交信手段である。ごまかしやみせかけ、だまし、うそなどは不可能である。秘密というものは無いのだ。誰も精神的にあるいは霊的に、あるがままで存在することになる。
There is no age in the physical sense, but a growth towards spiritual
maturity. …
肉体的な意味での老化というようなものは無い、だが霊的に成熟するということはある。
There are no poor and rich in the Beyond, except poverty and richness
of spirit. Spirit life is one of continuous progress in which every individual
gradually eliminates the dross from his nature in his striving towards
perfection. There is no heaven or hell in the theological sense. These, however,
are real mental states which we have created by the way we have lived our
lives.
あの世では、貧乏も金持ちもいない。ただ霊的に貧しいか、豊かかという違いはアル。霊的な生活というのは、その人が完全を目指して、屑にあたるものを排除して行き、だんだん成長してゆくということなのだ。
After death, to put it simply, the saint and the miser do not dwell on
the same plane. Spiritually, each is what he has made himself to be, by his
actions, words and thoughts.
死後、簡単にいうと、聖人と貪欲な人とは同じ世界に住めない。霊的に言うと、各人は自分の行為、言葉、考えで自分を作り上げてきたわけである。
There are both compensation and retribution, because the natural law of
cause and effect are perfect in their operation. There is no Great Judge on a
white throne, separating the sheep from the goats, for we have “judges”
ourselves in the spiritual nature we have attained by the character we have
formed. That is our spiritual passport. Our character, for which each normal
individual is responsible, is molded by our earthly lives.
償いと報いはどちらもある。原因と結果の法則はこの霊的な世界でも完全に支配しているからだ。ヤギと羊を選別するような、白い宝冠をつけた大いなる審判官というようなものはいない。われわれ自身が、われわれが自分をつくりあげてきた性格で達成した霊的なものによって、審判をおこなうわけである。
The overwhelming majority will not find anything to disappoint them
beyond the grave. Indeed, there will be much to give them cause of rejoicing.
Their worst enemy is the ignorance which makes them unprepared for the life
that follows death.
大多数の人はあの世で失望するようなことは無いであろう。沢山の悦ばしいものがあるはずである。最悪の敵は死後の世界に対する準備をしないという無知である。
Heaven will be reward of a life wisely spent on earth. This will enable
individuals automatically to be with those they truly love, provided that there
is a similarity of spiritual status, and with friends having a common mental
affinity and affection. Hell will be a self-inflicted punishment for a selfish
life which compels the individual to dwell with those of a like nature to
himself.
天国とは地上の生を賢明に生きたひとへの報いであるだろう。これは個々の人に、自動的に、愛する人と一緒になれるようにする、もし同じような霊的な状態であれば、そして親愛感をもっていれば。地獄とは利己的な生活を送った人が自分で罰するもので、それは自分と同じような人と住むようになるわけである。
One of the greatest temporary sorrows in the spirit world is the vast
number of people who cannot make themselves knows to loved ones left behind who
are mourning them. This, as I have realized many times, is a pathetic
spectacle, as they make desperate efforts to communicate through strangers to
reach these grief-stricken ones. In time, taught by wise teachers, they adjust
themselves. Some of them labor to destroy earthly ignorance which created a
barrier between the two states of existence.
霊的な世界での瞬間的ではあるが、もっとも哀しいことは、たいがいの亡くなった人が、愛する地上の人々が嘆いている姿に対して、コンタクトして霊的な存在を告げ知らせることが出来ないことである。これは絶望的といってもよいほどで、嘆き悲しむひとにコンタクトしたい思いを伝えるために、未知の人にまで頼って嘆かわしい苦労をしているのだ。そのうちに、より賢明な霊的存在に導かれて、自分を調整できるようになる。あるものは、この二つの違った世界の境界を破ろうと苦労する。
As they become accustomed to their new life, they fit themselves into
their proper place and learn to use their talents.
あたらしい霊的生活に慣れると、適材適所について、自分の才能をつかえるようになる。
Some of the spirit world’s denizens are engaged on tasks which entail
conscious or unconscious co-operation with people on earth. In the arts they
seek to inspire all who are receptive. Scientist, inventors and pioneers are
constantly at work attempting often successfully, to inspire like minds in our
world.
霊的な世界の住民になった人の中には、地上のひとびとと、意識的あるいは無意識的共同作業を必要とする仕事につく人もいる。芸術の世界では受容力のある人を啓発しようとし、科学者や発明家、パイオニアーなどはつねに地上の人間を啓蒙しようと働き、しばしばそれに成功している。
ということです。BarbanellはMediumが演じる世界をなんども見聞して、After
Deathの世界がこのようなものらしいと考えたわけです。
その後、1960年代後半からJane Robertsの“Seth Speaks”などのような、いわば地上の人間を霊的に教育しようとするケースがあり、Sethという仮名の人物がTrance Medium である Jane Robertsの口から、あの世、または別な次元についての形而上学的考察を展開し、この口述によって一冊の本を書き上げるというようなケースまで生まれるにいたりました。
SethはReincarnationを論じたり、別の次元を展開したりと、ものすごく議論好きなSpiritぶりを発揮していました。Jane Roberts が50代で亡くなり、その後どうなったのか。
いまはともかく、催眠術で過去にさかのぼるといっても、ただ単に自分の幼年時代にさかのぼるだけでなく、前世や生まれる前の状態などに入るというかたちの展開が多くなり、転生も一度や二度でなく、7回も8回も、あるいは多い場合は歴史小説家Taylor
Caldwellのように30回以上とかというケースが知られています。Joan
Grantも彼女の信じる自分の過去の体験を沢山の歴史小説にあらわしました。
本当かどうかは、やはり自分が死んでしまわないとわからないでしょう。死んで“無”かもしれないし、“別の次元”があるのかもしれないし、“転生”があるのかもしれない。わたしは、天国があるのはいいけれど、転生はいやだなあと思います。この地球上、平穏な世界よりも暴力に満ちた悲劇的な世界の方が圧倒的に多いので、そんな悲惨な世界にうまれかわったら大変です。もう充分喜びも悲しみも味わったので、一回限りの死であったほしいとわたしは思います。もちろん、もし転生が必然なら、次回は地球科学者にというのが私の希望ですが。フロイトはParapsychologistにうまれかわりたいと言ったとか。自分の理論だけでは、まだまだ人間の解明に不充分と知ったからです。
ここで大事なことは、もしかして、死のあとは無ではないかもしれない、その時、その後の対応方法をある程度知っていなければ、Sandra
Gibsonのおばあさんが、自分が死んだことも知らないで薄明の中をヘルプと叫んでさすらっていたというようなことにならないとも限らず、Barbanellも場合によってはそういう状態から目覚めるのに何百年もかかることがあるといっているので、チベットの死者の書ではないけれど、死に対する準備をしておくことも大事かもしれません。
Demi MooreとPatrick
Swayzeの映画“Ghost”〔1990年〕は、Whoopi
GoldbergがStreet
Mediumとして熱演で〔アカデミー賞受賞〕おもしろい映画でした。殺されたPatrickがGhostとしてDemiにコンタクトしようとして出来ないため、もどかしい思いをするところなど、よくHauntingの世界をあらわせていたと思います。まさに、Barbanellのつたえる一つの場面にあたります。
村田茂太郎 2012年12月9日、10日
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