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12/22/2019

私の感想文集 その2 村田茂太郎

私の感想文集 その2 村田茂太郎


 最近、私は何も書いていない。やはり、何か書きたいと思う刺激がないと書けないということで、あさひ学園で指導していた間は本当に生きがいを感じるほどであったので、様々な文章を書くことになったのだとわかる。


 ブログにすでに発表したエッセイが散らばっていたのでは自分でも見つけにくいので、感想文集IIとしてまとめることにした。主にTVなどの感想文であるが、それは子供たちに感じたことを文章にすればよいという作文の基本をサンプルとして示したからで、その気になれば何についても書くことは可能という例証のようなものである。うまい下手という問題ではない。まず自分で書くというサンプルのつもりであった。

 ここに添付したエッセイの多くはあさひ学園の自分のクラスの生徒に紹介したもので、もし私のあさひの生徒だった子供たちが、この感想文集を見てくれれば、もしかして懐かしく思い出してくれるかもしれない。私の本から漏れたエッセイの一部で、すでに感想文集のIでもあさひ学園で書いた文章も含まれていた。

 今、日本でもアメリカでもいじめが沢山発生していて、自殺に追い込まれたり、殺したりしているようで、悲しいことである。

 これは愛情や寛容を知らないで育った子供たちが多くなっている、つまり家庭の崩壊が外に現れたものであると私は思う。日本では最近特に全く恐ろしい犯罪が頻繁に起きているのには驚かされる。

 昔書いた文章を恥ずかしげもなく提示するのは自分自身のためである。

 旧いのは40年以上前のものもあり、読み返していないのでエラーもいっぱいあると思うが、今はとりあえず、そのまま、まとめてブログに感想文集 その2 として発表する。

 一番新しいのは2019年1月に書いた 36「マリア処女懐胎神話の崩壊」というエッセイである。最後に添付した。

 マリアの処女懐胎神話を粉砕したEssene死海文書を分析したBarbara Thiering Ph.D.のいくつかの文献を簡単にまとめたもので、興味ある人は Jesus the Man などを読まれると面白いと思う。彼女の話ではJesusが生まれたときに三人の学者が訪問したというのは、Jesusの父親はユダヤのKing Davidの後裔で、子供が生まれたらちゃんと報告せねばならず、マリアがJesusを生んだ後、報告したという話らしい。クリスマスも神話であり、時代考証によるとJesusが生まれたのは3月1日だったとか。

村田茂太郎 2019年12月22日
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目次

          Frontline 夜の子供たち TV感想
          ある手紙
          フロリダの季節労務者 Frontline
          ローレンツと自然教育
          NGS <Inside the Soviet Circus>を見て
          人間と科学 -理科のすすめ
          人間と孤独
          凧タコ (遊び・科学・技術・芸術???)
          友達について
10      Dinosaur恐竜の話
11 「折れた剣」ある感想
12      Frederick Law Olmstedをめぐって
13      クジラ見学記 (日記から)
14  アメリカで飼う犬と猫
15      「心頭を滅却すれば・・・」マンガ・歴史・監視 思い出
16      梨の木 エトセトラ
17 「歴史の見方」ある人物観の変遷
18      「海舟とスイス」(対等と中立)
19      犬といろはカルタ など
20      旅の思い出 -ツアーバス・ガイドのこと
21      生物の体内時計 TV Infinite Voyage
22      環境と生物 ある感想 (カエル エトセトラ)
23      カエル 後日談・最終談
24      あさひと私
25      教育環境・指導者・偶然性
26      日本の自然管理について
27      「私の日記から」抜粋
28  日記・書簡について
29      「運命」現代における無常観の胚胎
30      雀・スズメ
31      アメリカの自然をめぐって
32      経済封鎖をめぐって(政治と歴史)
33      船旅への思い
34      一字の漢字・まとめ
35      旅の思い出 - 野中の清水
36      マリア処女懐胎神話の崩壊をめぐって



1“Frontline:夜の子供たち”TV 感想                                                                      村田茂太郎

KCETPBS)28チャンネルの“Frontline”は、その題名にふさわしく、全世界の重要な問題を取り上げて、いつも見ごたえのある内容を展開している。このシリーズのホステスである Judy Woodruffも嫌味がなくて、この現実的なシリーズを引き締めるのに、大いに貢献している。

1990年4月10日の“Frontline”は“Children Of The Night”というものであった。私はKCET Subscriptionでタイトルを見たときから、これはぜひとも見なければならないと思っていた。そして、その通りであった。

ジュデイ・ウッドラフの説明によると、今、アメリカで家出する子供の数は年間百万人にのぼるという。私は数年前、何かの文章に、アメリカの子供の家出数は年間50万人と書いたことを覚えている。もちろん、いくつかの本から吸収した数字であるが、彼女の数字を聞いて、あのデーターの頃より、情況はもっと悪く、もっと深刻になっていることを知った。2倍になっているのである。

百万人の子供の家出とは、日本的感覚では信じられないほどである。もちろん、90%は無事に帰るらしいが、無事に帰らない10%だけでも、ざっと数えて年間10万人もいるということになる。

家を飛び出し、大都会に流れ着いた子供は、もちろん、生活の糧も方法も何もなく、悪徳に汚れた大人の社会の暗黒面の犠牲になるだけである。保護してくれる家族のいないところに、生活技術も生存手段も何も持たずに、裸でとびだした彼らを待ち受けているのは、恐怖と苦労、生存のための苦悩と病気と死だけである。

本来、青春に輝いているはずの14歳、15歳の子供が、路頭に立って身体を売り、絶望を体験し、うちひしがれてアル中になり、病気をもらって、20歳にならないで、死んでいくという全く恐ろしい事実が、このLAのハリウッドやSan Franciscoその他の大都会で平然と起きている。暗いセックスのからむ、この暗黒の世界は、いつも病気と生命の危険と魂の破滅を孕んでおり、いったん、その中に入ってしまったものには、一見、もう脱出は不可能に見える。

この“フロントライン”にとりあげられた子供達も、14歳や15歳で汚い世界を見知ってしまい、その結果、未来への夢も希望も喪失してしまった子供たちである。一人はまだ20歳にもならないうちに、自殺をしてしまった。彼らがハリウッドやサン・フランシスコの街頭で知った世界とは、すべてをカネが支配する世界であった。そして、まだ子供で何の生活手段も持たない彼らに出来ることは、最も忌まわしい生き方、自分の身体を売るということであり、それしかなかった。

この現実世界は、家族構成が安定した中でこそ、平和で明るい世界であるが、いったん‘家族が破壊され、そこから、はみ出し、とびだした子供は、全く無防備で、恐ろしい悪徳の世界に立っていることになる。そして、大都会では、いつも犯罪者が待ち構えていた。それは、いつの時代でもそうであった。ただ、安定した、幸せな家庭にいる限り、そうした、恐ろしい犯罪者の世界とは無縁でありえたのである。

問題は、アメリカでの家庭の在り方である。本来、憩いの場であり、避難所であり、最も安心の出来る場所であるはずの家庭が、ある種の子供達にとっては、逃げ出したいようなところとなっているところに問題がある。

平均離婚率一人3回といわれるアメリカであり、Battered Wives (夫に虐げられた妻たち)が公然と問題になり、その避難所までつくられてきているアメリカである。ただ、むやみに暴力をふるい、欲求の自己充足だけ追う男性が支配する家庭が、子供達の平和と安楽の願いをかきみだし、子供たちを絶望に追いやっているに違いない。

その時、問題になるのは、母親であるはずの女性の対応であり、実は、それが正しくなされていないケースが、問題をより深刻化させている。

今、アメリカは深刻な問題を抱えている。それは、ドラッグだけではない。ドラッグなどに頼らなくて良いような、すばらしく充実した家庭生活、学校生活を築いていける社会の建設が心から望まれる。
(完)
1990年4月12日 執筆

2 ある手紙”

 つい最近、私は教え子の一人から手紙を受け取った。二年前、私が高等部で二年の国語と倫理・哲学を教えていたときの生徒であり、手紙をもらったのは、はじめてであった。
彼は、能力的にも、人間としても、すばらしい生徒であったが、残念な事に、国語に関しては、全く興味を示さず、倫理・哲学に関してだけ、非常な熱意を示してくれたので、私も一生懸命頑張ったのであった。従って、お母さまとお会いしたときも、私は、国語に関しては、あるいは、日本文化に対しては、彼の興味・関心を呼び覚ますことが出来なかったと無念の報告をしたのである。私は、自分のヤル事に対しては、いつも自信をもってやっているので、優秀なはずの彼の興味をひくことが出来なくて残念であった。この高等部の有様については、私は既に“教え子”という文章の中で述べてあるが、ともかく、まじめに取り組んでくれる中学生のほうが、私には合っていると判断し、パサデナ中学部へ戻ったのであった。

その後、彼が、日本へ行って、日本語の勉強をしているといううわさを何度か聞いた。日本でチェスのかわりに、将棋と取り組みながら、日本語への関心も深まっているという話を聞き、私はうまくいってくれることを願っていた。集中力のすごい生徒であったので、いったん、関心さえ高まり、意欲さえ持てば、どんなに遅れていても、努力次第でやりとげられるに違いないと思っていた。

そうこうしているうちに、ある日、お母さまから手紙が届いた。彼が、京都大学経済学部に合格したという朗報であった。私は心から喜んだ。文面には、短期とはいえ、私の指導が失敗してからでも、日本語と日本文化への指導を怠り無く続け、息子を叱咤激励しながら、なんとかして、日本人らしい教育と生活を身に付けさせようと苦労した母親の努力のあとがにじみ出ていた。彼の大学合格は、まさに母子の合作であり、その勝利であった。

その彼から、あの高校クラスの印象を伝える手紙が、はじめて、日本語で書かれて届いたのであった。まだ誤字や誤法もまざっているが、当時、ほとんど仮名しかかけなかったことを思えば、格段の進歩であり、努力のあとを示すものである。

その手紙を、彼には無断で、こうして掲載するのも、最後に彼が言っていることが、まさに経験の重みを持って迫ってくるからである。

アメリカで生まれ、アメリカの教育はすべてOKであったが、日本語教育は彼には重荷であった。母親からきびしくせがまれ、仕方なく、あさひに通う生徒であったため、事、国語の授業に関しては、ほとんど関心が無く、レベルも低かった。彼にはアメリカがぴったりという気がしていたし、日本にはほとんど関心が無かった。そのため、結局、高校では日本語を通しての社交生活は楽しんだが、読み書き漢字は全くダメであった。日本に行って、それこそ、一からはじめなければならなかった。その苦労は、下に彼が簡単に述べていることからも明らかである。彼は、いわば、程度の低い“あさひ”の生徒としての、苦い反省を踏まえて、真剣に、あさひの教育に取り組むことが、いかに大切かを述べているのである。

村田先生へ

 先生が朝日にいて下さって励みになりました。
当時は、朝日の授業に出るのがやっとでした。
けれども、先生の倫理学の授業、いや、存在そのものが
なければ、それも疑わしいことであります。残念ながら、
先生から日本語の力、国語力をそれほど学びとることは
できなかったが、先生の日本語や日本文化を生徒に
教えようとする熱意はすごく伝わりました。

ですから、どんなに程度の低い生徒であったにも
拘らず、先生の倫理学の授業や国語の授業に出る
ために、私はほとんど毎週朝日に通いました。

それが私にとって数少ない日本人との接触の機会
であって、日本語をそれ以上ひどくなるのを避ける
ことができました。ありがたく思っております。

 今、私は大学生活を楽しんでいます。しかし、ここまで
くるのに苦労をしました。(日本語の文章もろくに書けず、
一年生の漢字の勉強からやり直しました。)その苦労の
大部分は、朝日学園で勉強していれば、避けられる
ものであったと思います。

 私みたいに、アメリカに長い者がいれば、その人に
“がんばるように”と伝えてください。悲惨なことに
それは、アメリカに長くいればいるほど、分からないことなん
ですが。
                                                                                                    サイン
                         P.S. またチェスを指すのを楽しみにしています。

・・・君

お手紙ありがとう。いろいろと苦労したに違いないと思いますが、大学生活を楽しんでいるとの事、うれしく思います。なにをするにしても、しっかりと頑張って、何でも身に付けてもらいたいと思っています。

 ともかく、貴君が京大の経済学部に入学したとの知らせをお母さまからいただいた時、本当に、心からうれしく思いました。もちろん、日本語をもう一度はじめから学ぶことは大変だと思いましたが、意欲と意志さえ持てれば、貫徹できるはずだと思っていました。既に、立派な手紙を日本語で書く程成長された様子で、これからのますますの勉励と活躍が楽しみです。いろいろと学ぶべきこと(もの)が沢山ある筈で、あとで悔いを残さないようにして、充実した生活を築きあげていって欲しいと思います。

 そして、ロサンジェルス帰宅の際には、必ず、ご連絡ください。

 ぜひまた、チェスのご教示をお願いしたいと思いますし、貴君の京都での生活の感想をお聞 かせいただきたいと思います。

 拙宅では、一月に白い犬サンディが亡くなり、九月には猫のサーシャが亡くなりました。サンデイのかわりにダッチスが入り、老犬ぺぺと二匹になりました。今年は、サンタモニカ校で中学二年生の国語、社会、理科を担当しています。高等部で使っていた教室の辺りを通るとき、いつもあの頃のことが思い出され、不思議な気持ちになります。
では、身体に気をつけて、頑張ってください。
                                                                                          村田茂太郎 19891126

 彼が、アメリカに長く生活している日本人生徒に対して“がんばるように”伝えてくれといっているのを見て、私はこの紹介文を書く気になった。彼の手紙によると、私の国語の授業についてこれなかったけれども、私の国語や日本文化への熱意は伝わったということである。してみると、悪戦苦闘のあの一年は、無駄ではなかったわけだ。彼が、苦手ながらやりとげたという“一年生の漢字の勉強から”というのは、私が口をすっぱくして言っていることである。高校を卒業する頃になって、小一の勉強からはじめるというのは、大変である。それにくらべれば、今、中二の段階で、もう一度、基本に戻って、しっかりと一から身に付けていくのは、姿勢さえハッキリさせれば、可能なはずである。頑張って欲しい。
(記  19891127日)


3 フロリダの季節労務者 -Frontline                                                      村田茂太郎

今日、(1990年4月17日)、火曜日、9:00PM からのKCET28チャンネルFrontlineNew Harvest, Old Shame) は、すばらしく感動的なドキュメンタリーであった。フロリダ、ジョージア、ノース・カロライナ、インディアナを移動する季節労務者(Migrant Worker)の実態をとらえたもので、アメリカ市民でありながら、年金も保険も有給休暇や有給病欠もない、ひどい労働状況の中を、逞しく生きている姿を、そして、その哀しい生活を見事に描き出していた。

彼らは、自然の実りに依存しているだけでなく、グアテマラやエルサルバドルなどからの不法入国者を低賃金で雇用しようとする農場主やその意図と結びついたロビイストの在り方にも、左右される、わびしい生き方を強いられている。

1989年には、ハリケーン ヒューゴー Hugoがノース・カロライナを襲ったため、期待した収穫がゼロとなり、更に、最終目的地フロリダでは、寒波で農作物がほとんど全損となったため、働くにも仕事がないという、みじめな実態。しかも、失業保険も医療保険も彼らには開かれていない。子供は既に10歳前後で仕事に精出し、まじめに働く。農場に収穫物があり、仕事がある時は、みな、甲斐甲斐しく一生懸命に働く。そこには、犯罪的な暗さ、みじめさなどはなく、ただただ、額に汗して働く人間の労働の美しさと哀しさがあるばかりである。

農場主の中には、季節労務者たちの生活や待遇を改善してやろうとするところもあるが、一方では、法律を変えて、安い労働をメキシコから持ち込もうとするものもある。中には指導的な人がユニオン化をはかろうとするが、なかなかうまくゆかない。季節労務者の労働市場は不安定で、まさに、その日その日を生きながらえているような生活である。インディアナのトマト狩は、そんな彼らにとっても、まともなといえる収穫で、小さな子供達は学校に通い、それなりに家族的・共同体的な生活を楽しめるものであった。

このフィルムは、ある家族集団の移動を追跡する形で展開され、その間、1960年ごろの季節労務者の実態を知らせるニュースがはめこまれ、実は、情況は少しも改善されていないことを告げていた。臨時学校の教師が、また移動する子供達と別れるつらさを語っていたが、いわば、安定した、まともな学校にゆけず、いつも中途半端な学業と交友に終わらねばならない、彼らの不幸をどうすることもできないという悲しみが、私にもよくわかった。安定した家があり、家庭があり、学校があるということは、子供の教育と成長にとって必須の条件といえるが、それを満たせない親あるいは家庭がまだまだ沢山ある。ただ、勉強していればよいという子供であった私は、何と恵まれていた事だろう。

家族一同が精一杯働いても、まともに食っていけないような社会が、このアメリカ合衆国の中にある一方では、ゼイタクが氾濫している国でもある。政治の貧困ということであろうか。メキシコなどはでは、明らかにそうである。ティファナを走ると、ボロボロの小屋が、ハイウエイ沿いに目に入る。メキシコでは食っていけないため、みな危険を犯して、アメリカに密入国を試みる。

丁度、フランクリン・ルーズヴェルトがニューディール政策で試みたように、どうしてメキシコ政府は広大なメキシコ領土の開発や開拓によって、雇用を生み出そうとしないのであろうか。まさに、政治の貧困がここにある。メキシコでさえ、そうなのだから、それ以下の中米諸国の人々が、アメリカ季節労務者の最低賃金以下で、不法入国をして職を得ようとするのは当然のことかもしれない。

生活に余裕がない時、人間教育がうまくいくはずがない。かわいいメキシカンの子供達が成長するにつれてスポイルしてゆき、怠惰になれ、無為に過ごし、悪い事を平気でするようになるのを、このロサンジェルスで見てきたが、本当に、世界は、まだまだ貧しく、わびしい。彼らの未来は教育にかかっているはずなのだが、一体、いつになったら、まともな世の中になるのだろう。

(完                     記 1990年4月17日) Word Input 2010年7月16日

4 “ローレンツと自然教育”                                                                                  村田茂太郎

以前、一度か二度、コンラート・ローレンツのImprinting(刷り込み)について述べたことがあるが、最近、環境破壊が目立ってひどくなり、自然保護が世界的に叫ばれている中で、私はこのImprintingの重要さを、人類は再認識する必要があるのではないかとしばしば考える。

ローレンツの研究によると、ガチョウの子供を生まれるなり、すぐに母親から離して育て始めると、ガチョウの子供は育ててくれている人を母親として取り入れ、親しみ、なつき、つきまとう。つまり、初期体験が大きな意味を持って存在することになるという意味であり、ローレンツはこの発見を拡張解釈して、人間も子供の頃に慣れ親しんだものや慣れ親しんだ光景を心の底にインプリント(刷り込み)してしまい、大人になっても、その過去の体験や光景に特別の感慨を抱くことになるという。

私は何を言いたいのか。人間教育という視点から、子供の頃に美しいもの、すばらしいものに接しておくことが重要だということである。偉大な環境保護家、自然保護者 David Browerは子供の頃からヨセミテやイエローストーンのすばらしい大自然を何度も訪問し、自然の美しさ、すばらしさ、大切さを心から学び取った。そうして、彼の子供もまた、自然の中で生きることの大切さ、すばらしさを学んで育った。私はコンラート・ローレンツが言うように、人間も、幼い頃から、自然の美しさ、雄大さ、すばらしさに接し、自然を愛する心を育ててゆけば、きっと大人に成長してからも、自然を愛し、大切にする人間になると信じる。

反対に、一度も神秘的で壮麗で雄大で繊細な自然の美しさ、すばらしさを味わう機会もなく成長していったとき、その人にとって、自然とは物質社会で富を生産する対象としかうつらないことになる可能性が大きい。殊に、最近の子供たちのように、家庭でコンピューター・ゲームに取り組む方が、森の中に入っていくよりもすばらしいと思うようになると、自然など目に入らなくなり、保護しようとか、鑑賞しようとかといった心が生まれなくなる。その時こそ、恐ろしい。

最近、私は大阪にいる母と電話で話した。その時、母は今、アチコチで地域開発が盛んで、古く立派な何百年も経った大木が次々と切り倒されて、ホテルにかわっていっており、そんなニュースを見ていると、木がかわいそうで涙が出てくると言った。そして、どうして、そんな立派な木を庭に取り入れて、囲む形にしてホテルをつくらないのかと心ない業者をのろった。すべてが、カネのために犠牲にされている。カネになるのなら、何をしても良いという態度が今の日本人の態度だという感想を述べた。

セコイアの年老いた巨木を見て、その偉大さ、逞しさ、美しさに心から感動したことがある私は、母の言葉を本当だと感じ取った。そして、今、日本の孤立した家庭の中で、ひそかにコンピューター・ゲームにだけ凝っている子供が大人になったとき、美しい日本の自然がどのようになるだろうかと思うと、私の心に危機意識が生まれてくる。

子供の頃から、自然に接し、自然と親しみ、自然を愛する人間であって、はじめてDavid Browerのように、自然破壊に対して怒りをもって戦える人間が生まれてくる。自然に早くから親しくなじまなかった人間は、丁度、レーガン政権がイエローストーン国立公園周辺の土地を宗教団体や金持ちに切り売りしたように、カネになるなら、どんどん切り売りし、開発、開拓の名の下に、大切な、母なる自然を破壊していくだろう。

その意味で、子供を持った親の責任は重大である。機会があれば、出来るだけ国立公園を訪問し、自然の美しさ、すばらしさになじませることが大切である。

KCETPBC番組―“Nature”のような、Nature Conservancy”自然保護“を基体とした記録映画に接し、動物や植物の個性あり、魅力的で、それぞれ完璧な姿を知り、自然と親しむ心を早くから育てていく必要がある。

この、美しく、同時に、全生命の存在にとって、欠くことのできない大自然を、そのまま子々孫々に伝えていくことは、人類の崇高な任務であるはずだが、今、それが危機に瀕しており、私は人間教育、自然教育の大切さを切実に感じる。
(完)

1990年4月19日 執筆

5 NGSInside the Soviet Circus>を見て                                      村田茂太郎

1990年4月21日(土曜日) 9:00 PM からのKCET28チャンネル National Geographic Special は“Inside the Soviet Circus”というものであった。私はスターリニズムの国は大嫌いであり、サーカスはいつもエンジョイするどころか、彼らのジプシー的ボヘミアンの生活があわれで見ていられないため、ほとんど見ることはないのだが、どうしたことか、今回はNational  Geographic Special ということもあり、また、スターリニズムの国でのピエロとは、まさにぴったりだという気がし、同時に、最近のゴルバチョフによる自由化路線とソヴィエト市民の表情も、少しは知れるに違いないと思って、見ることにした。この日は、7時から“Atlantic Realms”、8時から”Nature-Serpents”, そして、このサーカス。そしてこのあと、”Pasternak”というボリス・パステルナークの生涯を映画化した作品。そして、Huel Howserの“Hello、 Moscow” と続いていて、12時までテレビに密着した形で過ごし、”あさひ“の疲れもあって、他に何もしないでテレビを楽しんだ。

そして、この“サーカス”のフィルムを見て、私は満足だった。まず、1919年にレーニンがソヴィエト・サーカスを国有化して、丁度、官吏のようにし、或る意味ではエリートのような形にしあげてしまったため、ソヴィエト市民達にとっては、サーカスは、貧しく、わびしい、ジプシーの曲芸であることをやめて、プロフェッショナルな技術と芸術性を発揮するスポーツのような位置を占めるにいたり、子供達の中から、体操やバレーに優れた者は、競ってサーカスの学校に入ろうとするらしく、厳選された、本当のエリートだけがプロのサーカス団員となることができる。従って、最高のピエロ(Clown)は、一般団員の数倍の給料をもらい、年金や住宅をもらい、最高の科学者やエリート・コミュニスト政治局員並みに、リゾート(避暑地)ももっているという。そういうわけで、彼らサーカス団員達の顔には、暗いかげがなく、瞬間の緊張のために、激しい訓練を欠かさない、目標に邁進する人間の、健康な美しさがあらわれていたため、私はめずらしくエンジョイすることができた。

そのようにして、リラックスして見ると、ソヴィエトのサーカスというのは、確かに立派なものであった。主な街には立派なサーカスの建物が建ち、人々は5ドルほどの入場料を払って、見ることが出来るらしい。すぐれたサーカス団員が、次から次へと街を移動していくのは同じだが、季節労務者と違い、恵まれたエリートの扱いを受けているので、ただ、子供は学校を何度も変える困難はあるが、みな明るく自信に満ちている。そして、このサーカスのメンバーは、たしかに一流のスポーツマンであり、ダンサーであり、芸術家である。彼らの日々の訓練は本格的であり、その、国際的に有名なピエロといえども、普段の日はもちろんのこと、幕間も、手の訓練、足の訓練、芸の訓練に余念が無い。まさに、ホンモノの世界であり、ベテランといえども、緊張に耐える訓練を、日々、寸時も怠り無く準備しているという事を示していて、私は素晴らしいと思った。

私は、“Nature” シリーズで、Condor コンドル や Eagle鷲 のこどもが、何度も何度も飛ぶ練習をし、その厳しい訓練のあと、やっと飛び方を身につけて、悠々と、らくらくと舞い上がるのを見て、何度も感心したが、このサーカスの団員の訓練も、丁度、それを思わせるものであった。本番において、何気なく、易々とやってみせるたった一回の見せ場のために、ベテラン ピエロも、アシスタントを使って、何日も、何時間も練習を続けるのであり、その成果が、本番の見世物の際、芸術的な完璧さで遂行されるのであった。
それは、やはり、動く芸術、瞬間の芸術といえるもので、わびしさを取り払ってしまえば、鍛えぬかれ、磨きぬかれた、人間の創造の美しさ、すばらしさが現れていて、たしかに見事な、すばらしいものであった。

スターリンが支配した暗い粛清の時代、恐怖政治の時代においてみれば、サーカスは政治とは無縁であり、団員は、作家ほど苦悩は感じなかったに違いないが、そのような時こそ、底に哀しみを隠した、すぐれたピエロの存在は、時代を象徴する意味をもったであろう。 ほとんど、全インテリがピエロの役を演じなければならなかった国で、サーカスが国民的国家的競技であると言う事は、なかなか意味深いと言える。

(完                     記 1990年4月22日) Word Input 2010年7月18日

6 “人間と科学”-理科のすすめ                                                                    村田茂太郎

私が高校生のときに読んだ岩波新書の一冊に、天野貞祐の“学生に与うる書”とかいう本があった。“とか”というのは、今から三十年近く前に読んだだけで、表題も忘れかかっているからである。その本に何が書かれていたのかも、今では、ハッキリしないほどだが、一つだけ忘れていないものがある。そこに引用されていた“言葉”で、それは、古代ギリシャの哲人アナクサゴラスが“お前は何のために生きているのか”と問われたときに、応えた言葉とされている。アナクサゴラスは次のように応えたという。“天と地を貫流する秩序の照観のため”。哲学は、古代ギリシャにおいて、自然哲学として、まず始まったが、まさにそれを象徴するような言葉である。

私は、大学時代、ギリシャ哲学を研究しようと、ギリシャ語原書の“ソクラテス以前の哲学者断片集”という高価な上下二巻本を買って、大事に持っていたが、私がのぞいてみたのは、ヘラクレイトスなどで、当時はアナクサゴラスへの興味は失っていた。そのため、せっかく、原書を持っていながら、本当に、アナクサゴラスが、そのような言葉を言ったのかどうか、調べてみることもしなかった。今になって、少し残念な気もする。

では、なぜ彼が言ったというこの言葉が記憶に残っていたのか。たぶん、私の自然に対する関心のせいであり、宇宙の起源から、人間社会史への過程を大自然史として捉えようとする私の哲学的関心の故であったに違いない。今から二千五百年前のギリシャで、いくら文化が発達していたといっても、現在の科学の到達点から比較すると、ほとんど、薄明の状態にあるといえた。それにもかかわらず、彼らの理解できる範囲で、世界には秩序が支配していると、アナクサゴラスは言っていたのである。

秩序”、この言葉は、今の科学、技術の言葉で言い換えると、“法則性”ということになる。当時、“万有引力の法則”も発見されていなかったが、自然に関心を持つ人々にとっては、天地の間に起こる様々な現象が、ある種の“法則”に従った、見事に秩序だったものであったのである。

太陽が東から昇り、西に沈むという事実。月が約ひと月の周期で満ち欠けを繰り返す事実。春になると花が咲き、夏になるとセミが鳴くという事実。こうした、あたりまえの出来事が、人間界の出来事とは無関係に繰り返されているということに対して、ある人々は素直に驚嘆し、そうした見事な秩序を、じかに、観察できるということを生涯の喜びとした。アナクサゴラスの言葉は、そうした、自然の秩序ある美しさへの、人間の感動を素直に表現したものであった。

この自然の美しさへの素直な賛嘆が、もう一歩深められたところから、科学が始まったといえる。つまり、“なぜ?”という意識が芽生えたとき、もう科学は、スグソコマデという地点にいたのである。古代最大の天才数学者・科学者アルキメデスが“浮力”に関する彼の有名な“原理”を発見したのも、当然といえる。

“賛嘆”が“賛嘆”におわらないで、“なぜ”という好奇心が生まれたとき、あらゆる学問がはじまったわけであり、アリストテレスは、“人間は本来的に好奇心の強い動物である。”という言葉で、そのことを表現した。

好奇心”・“探究心”こそ、すべての基礎であり、これなくしては、なにものも発展しない。自然の世界、日常の世界には、様々な出来事が起きる。目に触れるもの、耳に聞こえてくるもの、それらのすべてが驚嘆に満ちた現象であり、好奇心の強い人間は、どうしても、その原因や理由を探り出し、自分が納得する説明を見出さないでは、落ち着いた気分になることは出来なかった。

“なぜ、りんごは木から落ちるのか“、”なぜ、潮の満ち干が起きるのか“といった”疑問“をもつことが、人間にとって、まず大切なことであり、マルクスは、そのことを、”正しい問いを見つけた人は、半分、解答に到達したに等しい“という言葉で表した。問いを提出した人が、すべて謎を解いたわけではないが、少なくとも、まじめに問題として提出しない限り、解答が出てくるはずもなかったのである。しかし、問いは、何も無いところから出てくるわけではない。自然や人間界の出来事を熱心に、真剣に観察した人が、はじめて、ある種の法則性、因果性に気がついたのである。

従って、まず、“観察”があり、その結果、ある種の“疑問”が解決を迫る“課題”として設定され、それをめぐって、更なる“観察”や人為的に操作を加えた“実験”が行われ、ある種の“結論”が導かれる。“実験”結果に対する“推論”あるいは“考察”によって、この”結論“が成立し、この過程の繰り返しによって、誰もが認めざるを得ない結論に至ったとき、”法則“が確立されたということになる。

従って、人間の周りに起きる様々な現象に対する、まじめな“観察”と、それに由来する“疑問”とが、現代に至る科学の大発展を導いた原動力であったといえる。しかし、歴史的に見た場合、この一見、単純そうで、自然な過程が、“科学の方法”として確立するまでには大変な闘争があり、苦労があった。ガリレオ・ガリレイが、宗教裁判の後、“それでも、地球は動く”とつぶやいたといわれているが、いろいろな制約の中で生きねばならなかった過去の人々は、想像を絶する苦悩を体験し続けたに違いない。それは、まさに、天才にのみ可能な道であった。

現代に生きる私たちは、そうした苦労から解放され、すばらしく発達した道具、器具、装置に囲まれ、偏見を持たないで、対象に接近することが出来るため、方法さえ誤らなければ、様々な発見を行うチャンスが沢山ある筈だという世界に住んでいる。
天才を待つ時代ではなく、誰もが過去の天才に匹敵する仕事を行えるチャンスに恵まれているのである。

以前には、自然を征服するという意見を持つ人がいたが、今では、自然とは、征服されるべき対象ではなく、理解され、共存されるべき対象であるということが、一般の人々にも分かる形でひろまっている。

そして、この大自然は、現に今も、驚異に富んだ運動を行いつづけている。今では、大陸移動からオーロラの発生、二重らせん、ビッグバンと、ほとんどあらゆる領域にわたって、すばらしい発見や解明が行われている。そして、それらの輝かしい発見(法則性の発見)も、みな、観察・疑問(仮説)・実験・推論という過程を経て行われてきたものであり、“なぜ”という素朴な問いが、すべての起爆力であったのである。中学理科は、こうした基本の研究過程に親しむ貴重な機会であり、思考力を鍛える場所である。
(完)

1988年4月6日 執筆



7 “人間と孤独”                                                                                             村田茂太郎

エドガー・アラン・ポーの散文詩に“沈黙”という名作がある。“一つの寓話”と副題がつけられている。ザイレ河のほとりの絶壁に孤独を求めて立つ男。悪霊は苛立ちを感じ、嵐を呼んだが、男は孤独の中で身を振るわせるだけであった。とうとう悪霊は自然のすべてに沈黙の呪いをかけた。すべてが静寂になったとき、男は恐怖に青ざめ、あわただしく、はるか遠くへ逃げのびていった。

たしかぬ、意味深長な寓話である。人は、しばしば、孤独への憧れを洩らす。しかし、その孤独とは、環境的孤立であっても、自然や人間との連携が断絶したところに成立する絶対的孤独ではない。リルケは、しばしば孤独な生活を送った。ある時は、友人に宛てて、こういう手紙を書く。“何週間も前から、私は二度ばかり、ちょっと中断されたほかは、ただの一言も口にしませんでした。遂に、私の孤独は閉じ、私は果実の中の核のように、仕事に没頭しています。”しかし、これは、モーリス・ブランショも言っているように、実は、“精神集中”であって、本当の孤独ではない。リルケの孤独を人は誤解しやすいが、リルケはすぐれた友人や支持者にめぐまれ、特に晩年は内的精神的に豊かな人生を送ることが出来た。有名なミュゾットへの隠棲も、確かに孤立した生活ではあったが、リルケの心は孤独でなかった。

人はどんなに孤立した場所に住んでいようと、信頼し、愛する友人や恋人と心でつながっているとき、孤独ではない。その逆に、どんなに群衆の中に居ようと、人間的になんらの連携を持っていなければ、人は“人間的に孤独”である。エドガー・アラン・ポーは、名作、“群集の人”で、そのような奇怪な人間を見事に描出した。

ユングが自伝(回想録)の中で述べた女ドクターの孤独も、絶対的孤独といえるものである。この女性が若いときに、自分の欲望を充足させるために、親友である女友達を毒殺したとき、彼女の世界のすべてが崩壊した。彼女がそれに気づくのは、遅すぎたのであった。利己的な目的のために、親友を抹殺できる人には、他の人間とのどのような人間的関係も成立せず、自らが作った人間不信の世界の中に埋没していくほかなかったのである。
一方、リルケの方には、高貴な女性が絶大な援助の手をさしのべた。この女性の名は永く記憶されるべきである。マリー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス・ホーエンローエ侯爵夫人といい、富と美貌と教養を兼ね備えたイタリア女性である。リルケが生まれた年に、二十歳で侯爵と結婚した彼女は、本物の教養を身に着けた魅力的な女性であった。彼女はリルケのドイツ語の詩をイタリア語に訳したり、他のドイツ語の本をフランス語に訳したりし、老年になっても、イタリア語のダンテやペトラルカの詩を何ページにもわたって、全部、暗礁することが出来た。“リルケ伝”(Rilke: A Life)を書いたヴォルフガング・レップマンも、この、すばらしい知性を持ち、暖かい心を持ち、ユーモアを解した魅力的なマリー・タクシスが、ジェームズ・ジョイスと知り合いになることが出来ていたら、どれほどイギリス文学が豊かになったであろうと書いている。

彼女はロンドン心霊学会の会員でもあり、テレパシーや霊媒にも興味を示した。リルケの詩の業績における最大傑作“ドゥイノの悲歌”は、マリー・タクシスの古城ドゥイノで書き始められ、十年後に完成した。完成の喜びを彼女に伝えた手紙は、詩的スタイルで構成され、この詩の全体が彼女のものであることを示した。“書物になるときは、(はじめから、あなたの所有であったものを、あなたに差し上げるわけにゆきませんから)献辞はつけず、<・・・の所有より>とするつもりです。”

事実、この名詩は“ドゥイノの悲歌 マリー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス・ホーエンローエ侯爵夫人の所有より”という体裁で発表された。それが、リルケの、彼女の精神的、物質的援助に対する心からの感謝の意の表明であったし、彼女もよく、それを理解することが出来た。以前、私は、死と愛の書である孤高の名作“マルテの手記”を読み、訳者大山定一の跋文を読んで、孤独なリルケというイメージが焼きついてしまっていた。今、レップマンの書によって、マリー・タクシスを中心とするすぐれた女性や交友に恵まれていたことを知り、心から救われたように思った。

人は、愛する人が、この地上のどこかに存在していることを知っている限り、孤独ではない。それは、人間だけに限らない。大自然や犬猫とも、連帯の意識を持っている人には、世界は愛に満ちている。自然のざわめきは、愛と生に満ちているからこそ、孤立していても充分耐えていけるのだ。私は、時折、ポーの“沈黙”を思い起こす。そして、その鋭い真実の把握に驚嘆する。自然のざわめきさえ絶え、地上に愛する対象(人間・動物・植物)がなくなれば、世界は死んだも同然である。

孤独には、また別な孤独がある。ドゥイノやミュゾットで前人未踏の詩篇“ドゥイノの悲歌 ”に没頭していたとき、リルケは、ある種の絶対的孤独を体験していたに違いない。丁度、探検家が前人未到の領域に突き進むとき、あるいは、自然科学者が未知の発見に挑むときに感じるに違いない孤独を、文学者(作家・詩人)もまた、味わっていたといえる。一方、生み出された作品も、読者の理解にゆだねられ、孤独の中に投げ出される。作家・評論家ブランショは、この孤独を問題にしているが、私にとっては“人間的孤独”が問題である。

過去の自殺の多くは、“孤独”とは関係が無かった。日本の封建社会においては、責任感や恥辱という社会体制が生み出した理由による自殺が多かったが、これらは“自殺”というよりも、ただ、“死”というべきものであろう。殺される代わりに、自分で殺すだけであって、個人の内面の問題の表出としての自殺ではなかった。殉教や殉死としての自殺もあれば、貞節というモラルによる自殺もあったが、みな、その社会で認められたり、強制されたりして起きる現象であった。

現代の自殺にも、もちろん社会的責任を理由とした自殺など、外的自殺や半強制的な逃避的自殺がある。しかし、現今、かなりの部分を占めているのは“孤独”を根本原因とした自殺であるといえる。その孤独が、どのような形で生まれたのかはわからないが、ある人々は人間不信を起こし、絶対的孤独の世界に入ってしまうことによって自殺に至る。
“いじめ”による自殺も、起きたことに対しては、今更どうすることも出来ないが、新聞等の論調は、教師等の反応を主に責める形で終始している。教師達が対応をまちがったのは事実に違いないが、学校だけがすべてではない。自殺者が、人間的孤独や人間不信に陥ったとすれば、そういうことが起こりえた“家庭”にそもそも問題がある。

愛と理解は、まず、家庭から始まるものであり、子供を鍛え上げていくのも家庭での対応を通してである。家族あるいは本人にも問題があったことを忘れて、ただ経過だけを追うならば、生まれてくるものは、もっと悲惨な結果である。子供のいたずらであり、一時的な思い付きのいじめであったに過ぎないかもしれない行為が生み出した予期せぬ結果は、当事者たちの心に、一生、暗い重荷となって跡を残すに違いない。

私の理解するところによれば、家庭内の愛と理解が絶対的な強さを持っているとき、子供は外部のどのような苦労にも耐えることが出来る。家庭が空ろになっている時、はじめて、子供を支える何ものも無く、子供は外部の圧力をまともに、抵抗力も無く受け止めることになり、それに耐え得ない子供は、人間不信に陥り、絶対の孤独に陥っていく。絶対の孤独からは、自殺に行くのは当然である。

私にとっては、頻繁に起きる、青少年の自殺は、外的社会的理由以前に、家庭内の愛と理解と対話の喪失が最大の原因に思われる。これは、精神主義的な理解であろうか。
(完)
1986年2月16日 執筆


8 “凧(タコ)”<遊び、科学、技術、芸術 ???>                              村田茂太郎

1984年3月4日。犬を近くのパークに連れて行く。芝生の上を勝手に走らせておき、私はのんびり、まわりを見回した。フト、二人の男が、凧あげを始めているのが目に入った。一つの凧はなかなかうまく揚がりそうに無いので、私は少しの間、目をはなして、ぺぺやサンディの行方を追った。それから、もう一度、凧の方を見ると、一つの凧は、遥か上空にあがっていて、気持ちよさそうに泳いでいた。ほんの僅かの時間に、随分高くまで上がったのには驚いた。もう一つの方は、まだ低いところを、バランスのとれない様子でウロチョロしていて、魅力も何も無く、つまらないなと思っていたら、落っこちてきた。先に上がった方は、長い尾をなびかせて、丁度、青空の中を魚が泳いでいるみたいであった。

そうして、青空の中の凧を見つめているうちに、二十年以上前の凧、三十年以上前の凧の思い出が浮かび上がってきた。子供の頃の凧揚げは、短い糸で電信柱の高さくらいまでしか上がらなかったため、没頭したり、楽しい思いをした事はなかった。静岡大学工学部に入学し、浜松に住むようになって、はじめて、私は浜松の凧揚げは日本一を競う名物である事を知った。大学のスグ横の広い空き地で、五月(であったと思う)、畳何畳という広さの(?)凧を、綱引き用の綱で空中にあげて競い合い、最後には凧の切り合いをやるというものであった。私は、初めてのときは、途中から見物客の中に入って上を向いて眺めていたが、退屈して帰り、二度と見に行かなかったため、本当に凧の切りあいがあるのか、きれた凧が落ちてきたら見物客はどうなるのか、全然、知らないで終わった。

それまでは、郷土の固有の祭りであったこの浜松の凧祭りも、その頃から、ソロソロ、日本一の凧祭りという宣伝で、大げさになり、俗化してきつつあった。

日本での凧は、ありふれたものしか知らなかったが、アメリカに来て、ほとんど凧専門といえる店があって、いろいろな形の興味深く面白い凧が売り出されているのを知って、うらやましく思った。こんなに、いろいろな凧を空中に浮かせば、下から見上げていても、本当に青い海に何か生き物が泳いでいるような感じで、随分楽しいに違いないと思った。
そうして、“凧揚げ”について考えた。

“凧揚げ”は、自然を相手とした<遊び>である。それは同時に、分析的に見れば、科学の原理の応用である。凧つくりは、工作技術であり、いかに独創的美的にバランスのとれた凧を作るかという点で芸術でもある。立派な凧をつくり、立派に泳がせるには、気候や風に関する知識もなければならないし、凧の形との関係についても考える必要があり、これは立派な学問の一つと言えるかもしれない。凧作りから泳がせるところまで、一人でやれば、これはすぐれた学習課題といえる。

ベンジャミン・フランクリンは雷雲激しき天候に、凧をとばして、カミナリが電気であることを証明したと伝えられている。独創のせいで彼はラッキーであったのか、その後、フランクリンの真似をしたロシアの科学者は落雷にうたれて即死したという。

凧揚げは、昔から知られてきたが、どうして凧があがるのかの科学的説明は19世紀にはじめて正しくなされた。流体力学の成立である。重力と揚力と風圧と牽引力との関係において、揚力が強いときに凧はあがるというような説明がなされるようになり、これは理論的には飛行機の可能性を示唆したものであった。

ともかく、注意深く作っていく凧揚げは、遊びであると共に、科学・技術・芸術であり、注意深さも根気のよさも、自然(気候)に関する知識も必要とする意味で、すばらしい学習内容であるといえる。

私は、青空のはるか遠くを、全く気持ちよさそうに泳いでいる凧を見上げて、そんなことを考え、そして、そうだ、来学年、私がもし中学2年の担任になれたら、終りの会を何回かつかって、みんなでそれぞれ立派な凧を作ってみよう。きっと、すばらしい時間が過ごせるに違いないと考えた。

漢詩や文学・歴史の話しなどをしたりする会や、クラス討論の会、あるいは、チェスや将棋の会を持ち、また一方では凧のようなものを、それぞれが企画し、材料をそろえ、緻密に作り上げていき、完成したときには、みんなで庭に出て凧揚げをすれば、きっと楽しいし、何か意味あるものを作り上げたという喜びを味わう事ができるに違いないと思った。
私自身の中に、いつか、そういうことをしてみたいという夢があったからかもしれない。

既に1年以上前に、本屋のセールで、“Create Kite”(凧をつくろう)という本を見つけて買ってあった。凧揚げというのは、単なる子供の遊びではない。大人も楽しめる遊びであり、そのようなものとして、かなり独創的な面をもっており、子供の頃の夢と今とをつなぐ装置でもある。

私は、ぺぺ達のトイレのあとを新聞紙で始末し、一緒に、少し芝生を駆け、凧がまだはるか上空を飛び続けているのを確かめ、さわやかな気持ちになって家に向かった。そして、のんびりと凧揚げに興じるということは、緊張し疲労した精神を発散させ解放させるのに、どんなに役立つだろうと思った。

(完                 記 1984年3月4日) Word Input 2010年7月20日

9 友達について

友達について、私の意見を求められているような文章なので、簡単に私見を述べたい。
友達にも、いろいろな種類が有ると思う。小学校や中学校の時でも、生涯の友といえるような友達とめぐりあえることがる。本当に、お互いに信頼できる友達と出会えたとき、それは、その人の人生にとって、なにものにも替え難い幸福を手に入れたようなものである。

しかし、それは親和力のようなもので、無理してこしらえるものではなく、自然と生まれてくるものに違いない。本当にいい友達とは、もちろん勉強のよく出来る人のことではhない。人間として、誠実で信頼が出来る人で、しかも自分の性格や好みに合った人が、よい友達といえる。

しかし、いい友達を見つけるためには、自分もまた、その言い友達の持つ様々な長所に匹敵するだけのものを身に付けていなければならない。ふつう、みな、似たもの同士が集まるといわれ、友達を見れば、その人の人格がわかるといわれる。みな本当である。

自分を高めるように、ふだんから努力していれば、そういうものを求める高貴な魂が、自然と回りに集まってくる。友達、いい友達とは、強いて求めようとしても得られるものではなく、ただ、不断に自己を高める努力をする中で、自然と生み出されてくるものなのである。

いい友達を見つけた喜びは何ものにもかえがたい。しかし、それは、安易に得られるものではない。自分を立派に高めるしかないのである。

一方、ただの遊び友達といった程度の友達と適当につきあっていると、どういうことになるか。“朱に交われば赤くなる”という諺がある。たいしたものを持っていない友達と付き合っていると、てき面に現れるのが、この現象である。自分を高める努力をしていず、安易なほうへ、遊ぶほうへとばかり頭を使う人たちと一緒にいると、必ずそれに引きずられていく。よほど、しっかりした自分を持っている人でなければ、必ず、悪い影響を受けるものである。友達を選ぶということは、人生を左右するほどに重大なことである。

もし、今、本当にいい友達がいなければ、何も無理に友達をつくる必要は無い。自分の姿勢をしっかり保ち、今必要な勉強に身を入れていれば、そういう君を見て、好もしく思う人がいれば、自然と交友が生まれるであろう。

友達は、私の考えでは、成績で択ぶのでもなく、性格でえらぶのでもなく、自分を不断に高める努力の中で、自然と生まれてくるものなのである。

(記                     198778日)

10 “Dinosaur 恐竜の話”                                                                                   村田茂太郎

恐竜は今まで誤解されてきた。“爬虫類の仲間であり、従って、冷血動物(変温動物)である。大きくなりすぎて環境に適応できず、絶滅した。ほとんどの恐竜は水の中または水際で生活していた。”といった考え方である。

Robert Bakker Ph.D.の“The Dinosaur Heresies” 恐竜異端説 という本を読むと、今まで、定説と信じられてきた考え方が、いかにアイマイな資料の上に構築され、しかも、誰もそれを疑ってみようとしなかったかがよくわかる。この本は既に確立されたような学説でも、より徹底した研究で崩壊されることがあることを明白に示しており、学問的探求という面から見ても、示唆的で面白い本である。学問の進展のためには、いわゆる通説と信じられているものを疑ってかかり、自分の力で、俗説にとらわれないで、科学的な資料と方法をもとに、堅実に理論を組み立てていくことが、いかに大切かを教えてくれる、すばらしい本であり、広く読まれ、紹介されるべき本である。日本語への翻訳が早く進められることを強く望ませる内容を持った、非常にすばらしい本である。(1988年現在)。

では、新しい恐竜像とは、どのようなものであるのか。1億3千万年もの長い間、地球を支配できたということは、恐竜がバカデカクなった出来損ないではなかったことを意味する。それどころか、高度の新陳代謝を行う、恒温=温血動物で、かなり敏速に行動していたことが、骨格の研究や骨の中の血管の構造の解明からわかった。そして、単に、鳥に似ていただけでなく、実は鳥の直接の祖先であったのであり、そのことは、骨格の構造や砂嚢の発見で確認された。さらに、中生代にどんどん進化していったことも知られている。恐竜が支配していた間は、ネコよりも大きいサイズの哺乳類は出現することが出来なかった。彼らは主に、植物を食べて生活していた。そして、50フィートの高さ(15メートル)以下の木は、ほとんど食べつくされ、全盛を誇っていたシダ植物も一掃されかかった。そして、結果的に、花の咲く被子植物全盛の新生代(現在もそうであるが)が生まれるに至った。なぜなら、シダや裸子植物のように、限られた場所で授精し、生長していたのでは、恐竜の食べつくすスピードに間に合わないからである。早く広がり、早く生長し、早く授精・発芽するものとして、花の咲く植物は地球に広がり始めた。シダと裸子植物が繁っていた間は、被子植物に発展のチャンスがなかったが、恐竜が食べつくしてくれたおかげで、太陽が良く照り、敏速に生長できる機会が生まれたわけである。つまり、現在、地球上を支配している花の咲く植物は、恐竜が生み落としてくれたようなものである。

では、どのようにして恐竜は絶滅したのか。恐竜の子孫が鳥になったとしても、恐竜自身が絶滅したのは確かである。そして、絶滅の原因として、様々なものがあげられた。しかし、化石が語っているのは、一挙に絶滅したのではなく、何百万年、何千万年もかかって、徐々に死に絶えていったということである。従って、巨大な隕石が落下したためとか、新星が爆発したためとか、いくつもの火山が爆発したためとかといった説明のすべてが、不充分な解答しか与えないことになる。そして、Dr. Bakker は、論理的に、絶滅の理由を推理しようとする。この原因にあたるものは、陸でも海でも殺し、大きな進化の早い陸上動物に大打撃を与えた。陸上の小さな動物の被害は比較的少なく、ワニのような大きな冷血の爬虫類は全然、死ななかった。植物よりも、植物を食べる動物にもっとも大きな被害を与えた。水にすむ動物にも全然、被害を与えなかった。この原因に当たるものは何か。結局、進化の激しい巨大な温血動物が一番の被害を受け、絶滅に至った。冷血動物と違い、温血動物はHigh Metabolismを維持するために、絶えず栄養の補給を必要とする。従って、食物を追い求めねばならず、それだけ、災難に遭う機会も多く、生存が厳しいことになる。Dr. Bakker は、この原因とは、大陸移動と同時に、大規模に移動が始まった動物達がもたらした、病原菌による流行病ではなかったかと推察する。

丁度、ヨーロッパ中世で、黒死病(ペスト)が、全土を蔽い、人口が三分の一になったといわれるように、免疫のない風土に侵入した病原体が恐竜に大打撃を与え、徐々に、死滅していくことになったのではないかというのである。しかし、もし、恐竜が1年や10年、或いは100年程度の間に絶滅したのではなく、1千万年や1億年かかって、徐々に死滅していったことを化石が示しているとすれば、我々は現在、絶滅に瀕している各種の動物や化石から、いわゆる原因なるものは、それほど劇的な、突然の理由などではなく、子孫がだんだんと育ちにくい状況になっていったから、ということで理解しうるのである。たとえば、病気で弱った恐竜から生まれた子孫は、それだけ外界不適応な構造を備えていたはずである。

1億3千万年というのは、しかし、人類的規模から考えれば、巨大な長さである。人類はサル的なものの進化からみて、たかだか、4-5百万年しか、生き続けていない。そして、我々は水爆や核兵器そして、恐ろしい公害で、はたして、あと何百年人類が生き続けていられるのか、わからない時点に来ている。1億3千万年もの長い間、恐竜は様々な形と重さをとって、進化しつづけ、地球を支配し続けた。もし、恐竜が死滅してくれなかったら、哺乳類は依然として、ネコ以上のサイズになれず、人類もうまれていなかったことは確かである。

19世紀にはじめて、恐竜の化石が発見されたとき、誰も鳥の祖先であることを疑わなかった。1925年Gerhard Heilmannが“鳥の起源”という本を発表してから、1960年を過ぎるまで、Heilmannの説が世界を支配し、恐竜は冷血の爬虫類として、おとしめられることになった。1950年以降の古生物学や解剖学、分類学、生態学、遺伝学の進展が、はじめて、もう一度、恐竜を見直させることになり、つい最近になって、恐竜は爬虫類ではなく、恐竜類Dinosaurという温血動物であり、鳥の祖先であることがわかってきたということである。

(完) 1988年11月2日 執筆

11 “折れた剣” ある感想                                                                      村田茂太郎

チェスタートンの“ブラウン神父”もの推理小説は私の愛読書のひとつである。およそ20年も前に読んだにも拘わらず、いつまでも鮮やかに記憶に残っているものがある。“折れた剣”と題する短編もその一つである。私がこれをいつまでも覚えているのは、“方法の問題“を考える手がかりとして、よく友人に話してまわっていたからかもしれない。

“小石を隠すにはどこがいいのか。”“海辺の小石の中である。” “木の葉を隠すのにはどこがいいか。” “森の中である。” “それでは、もし、森がなければどうするか。” “隠すためには森をつくればよい。”これは恐ろしい事だ。しかし、ブラウン神父は、折れた剣の謎を、同じ推理で解き明かす。“死体を隠すにはどこがよい
か。” “死体の山の中である。” “それでは、死体の山が無ければ、どうすればよいか。” “死体の山をつくりだせばよい。”かくして、一人の男が殺人を計画し、それを隠蔽するために、無駄な戦争がなされ、沢山の人間が死ぬ事になった。これが、ブラウン神父が明らかにした、忌まわしい犯罪の真相であった。

いつの世でも起こり続けている不幸な戦争のニュースに接したり、過去を振り返ってみるたびに、私はこの“折れた剣”を思い出し、また、もう一つの漢詩を思い出す。

己亥歳 (キガイノトシ)                     曹松(そうしょう) 七言絶句

澤国江山入戦図 生民何計楽樵蘇 憑君莫話封候事 一将功成万骨枯

たくこく こうざん 戦図にいる、せいみん なんの計ありて しょうそをたのしまん、君によりて話す無かれ ふうこうの事、いっしょう こうなって ばんこつ かる。
結句は欲に有名だが、戦前、軍部が嫌って、漢文教科書からは覗かれていたという。

“揚子江沿岸が戦争圏内に入った。住民は木を切ったり、草を買ったりといった日常生活を楽しむ事ができない。そんな中で、特に君に頼みたいのは、戦功を立てて大名にしてもらおうといった話しはしないでほしいことである。なぜならば、戦勝の巧名は、ただ将軍一人だけであり、そのために何万という沢山の兵隊が死んで、骸骨を野原にさらすことになるのだから。”

現代の戦争といえども似たようなものでないだろうか。どうでもよいようなことで争い、殺されていくのは指導者ではなく、普通の民衆なのである。フォークランド戦争や現今のイラン・イラク戦争など、いまだに日常的に戦争がおき、人々が死んでいっているということは、一見、平和な日本やアメリカにいると信じられないほどである。一日も早く、世界に平和がやってくることを願っているのは、私達だけではあるまい。“一将功成万骨枯”は今も真理である。

(完                 記 1985年6月6日) Word Input 2010年7月14日

12 Frederick Law Olmsted をめぐって                                          村田茂太郎

Yosemite国立公園へSierra Nevada の東側、Lee Vining から入ると3000メートルのTioga Pass Entrance を過ぎ、Tuolumn Meadow をすぎると Olmsted Point というサインがあらわれる。とまらないでパスする人も多いが、このOlmstedポイントは一見の価値はある。短いハイクで(300-500メートルほど)Vista Pointがあらわれ、ここから目の前に有名なHalf Dome がトンネル View と反対に裏側からながめられることになる、そして、少しあるいて反対方向をながめると、通ってきたTenaya Lakeなどが美しく望まれる。Tenaya Lake はYosemite 最大のNatural Lakeである。この Olmsted Point はその名前から判断しても見るべき場所といえる。

Olmsted!! (オームステッド)

アメリカの National Park System は地球的規模からながめても見事なものであるが、その第一号が Yellowstone National Park であることは大概の人は知っている。1871年であった。

しかし、それがスタートする前に自然保護の大切さを強烈に主張した人がいた。

Frederick Law Olmsted である。Olmsted は1864年 まだ National ParkでもState Park でもなかったヨセミテのCommissioner として、それが比類ない美しさを持った自然であり、これを破壊しないで後世に残していく必要と、そのために何がなされるべきかを説いた。1864年 Olmsted はCongress に保護地域の必要を説いた 
Yosemite, Mariposa に関するレポートを提出した。そしてそれは時の大統領 Abraham Lincoln によってサインされ、はじめて California State がYosemite を保護地域とした。Yellowstone が National Park となるだいぶ前の話である。このStateで管理するということではまだ自然保護に関しては十分ではないということがわかって、1871年 National Park が Yellowstone にはじめて設けられることになった。

Frederick Law Olmsted の存在なしには現在の National Park Systemも考えられない。Olmsted は19世紀最大のLandscape Architect として、アメリカの重要な公園庭園Groundの設立建設に多大な貢献をした。彼の手ではじめてこの種の学問が設立された。彼はVisionaryであったといわれている。ヨセミテ計画は100年後には何百万人もの観光客が訪れるの違いないという彼のVisionのもとに想定された。

OlmstedVisionがどのようなものであったかを知るのに最適の場所は NY マンハッタンのまんなかを占める Central Park と Niagara Falls であろう。

Manhattan を魅力あるものにしているのはいうまでもなく、水と緑に囲まれた広大な Central Park であるが、この公園は Barren Land に人工的に作り出された自然なのである。ここにあるすべてはOlmsted と彼の相棒であった Calvert Vaux によって企画され生み出されたものであるといわれている。春夏秋冬を通じて、人間にも、自然、動物にも適応したすばらしい空間が生み出されたおかげで、マンハッタンはそこに住む人だけでなく、すべての訪問者に憩いをあたえるオアシスとなっている。

Niagaraの場合はOlmstedのアイデアはさらに顕著である。カナダサイドと比較すればそれがよくわかる。カナダ側は滝の景観は確かに雄大でベターであるが、それをとりまく人工空間はひどいものである。群衆が集まるところにうみだされるガラクタがあつまっている。ホテル、モーテル、娯楽施設、レストラン、まさに自然保護とは関係ないただの商売繁盛を目指した集合体である。 滝とまったく関係のない Haunted Mansion まであるくらいだから。

一方、アメリカサイドはそのような人口の設備を極度に限定した形で設計されている。公園内にあるのは一軒のVisitor Center,レストラン、みやげ物店くらいで、Niagara River沿いにモーテルが建っているわけではない。私は一見してOlmstedの意思が働いているのがわかった。

幸いにして、Olmsted という Visionary を生んだアメリカはその伝統の下にNational Park System を構築してきた。今現在私たちがアメリカの自然をエンジョイできるのはこの偉大なVisionaryのおかげであるといってよい。もちろん、彼に続いて John Muir, Aldo Leopold、などが現れて原生林の保護にまでその努力は積み重ねられたが、嚆矢はOlmstedであったといえる。あるいは Thomas Jefferson そして Theodore Roosevelt などもその重要な系列を形作っているといえる。               4・24・2007

13 クジラ見学記 (日記から)                                                                   村田茂太郎

1983年3月20日、日曜日。予定通り起き、準備を整えた。***先生ご夫妻も時間通り到着された。6時丁度にトヨタで出かけた。空は昨日と違って、雲が多く、雨を孕んでいて、船がチャンと出るかどうか少しあやぶまれた。が、ともかく行くしかないので、うまく晴れてくれることを願いながらドライブをつづけた。雲は多く、多様に変化していた。7時過ぎに、チャンネル諸島国立公園のHeadquarterに到着した。既に別の船に乗っている人々が見え、私どもと同じ予定の船に乗ろうと集まっている人々もおり、人数を確認している年配の人が居たので、どうやら間違いなく船は出るのだとわかり、ホッとした。雨が降ろうが降るまいが、まず出港してくれる方が大事であった。

Sunfishという船は小さく、これで50人も乗れるのかなと思うほどであった。結果的には、約40人近いクジラ見物客が乗ったことになった。8時前に出航し、10時前にAnacapa Islands(アナカパ諸島)に着くまで、途中、クジラを探してゆっくり運航したりした。イルカを見かけたが、クジラは見なかった。島に着いて、小さなボートに乗り換えて上陸した。断崖に梯子をかけたような形で、なんとなく冒険じみて楽しくなってきた。アナカパの有名な円月島も見え、胸がワクワクした。

上に上がると、イギリスかアイルランドの牧歌的な風景に似た景色が展開していた。燈台といくつかの赤レンガの建物が見え、あとは緑と黄色のお花畑のようであった。島はほとんど平らで、どこからも海が見え、断崖や遠くの島が見渡せた。島には、ひまわりの一種、Giant Coreopsis が一面に咲いていて、雨のせいで緑も濃く、私には、ともかく、すばらしい雰囲気であった。1マイルほどの小路を散策し、ところどころ断崖をのぞきこんで、そのすばらしい眺望を味わった。特に、対岸の島を見下ろす地点からは、比類なくすばらしい眺望が展開していて、本当にきてよかったと何度も思った。場所によってはアザラシが沢山休息しているのが、眼下に見下ろせた。

島一面、青々としていたし、ふだんは枯れているこの“ひまわり”の一種も、春の雨で今を盛りと黄色の花をいっぱいつけていて、ベストの時期に来たとつくづく思った。ブランチを食べていると、すぐ海岸べりで鯨が潮を吹いているのを二三度見かけた。マンガで見るような、噴水のようなものではなく、貝がチューと水を吹き出すような、とばし方で、少しガッカリだったが、それでも鯨がアラスかに向かって北上していく様がわかった。何頭かの集団で移動しているようで、時々、瀬を見せて沈んでいった。肉眼でも見えたし、双眼鏡でもよく見えた。島には12時半ごろまでいた。ともかく、どこから眺めても素晴らしいと思った。

夏には枯れて全く違った趣を呈するはずだが、冬の雨で充分生き返った牧歌的な光景は、私を喜ばせた。曇った海を航海していたときは、とても寒かったが、昼ごろから少し晴れたようになり、青空も見えてきて、日差しが届くくらいにまでなった。12時半から1時過ぎにかけて、全員、またもとの船に戻った。船はその後、アナカパ島を半周し、アナカパの美しさを充分味わわせてくれた。それから鯨を求めて帰途についた。私は疲れて眠たくなり、船室に戻って、少し眠った。鯨を見かけたら船長がすぐ知らせてくれるので心配は要らなかった。途中、何度か合図があり、私も飛び起きて、甲板に出た。そして、それらしき箇所を見つめていると、やがて、潮を吹き、背中を見せて、深く沈みこんでいくのが見えた。ゆっくりともぐっていくその姿は、やはり、大きさを示していた。何度か潮吹きともぐる姿をそうして眺めた。

いつの間にか、空は曇り、肌寒くなっていた。もう充分ということで、船は帰途についたが、今度はイルカの大群に出くわしたので、船長はその真ん中に入って船を回転させたところ、あいきょうのあるイルカは、すぐに集団で船をとりまいてついてきた。そうして、時にはハイジャンプをやり、時にはひねり回転をやって、遊んでいるところを見せた。とてもかわいかった。充分、楽しんでから、今度こそ全速力で帰りの途についた。そして、4時半に、無事、出発点に戻った。海岸に近づくと、海の色が黄緑色にかわっているのに、気がついた。***先生は、多分、深さがかわったというより、先日来の雨による砂泥流がまだ海にとけこんでいなくて、泥っているのだろうと言われた。ともかく、雨模様にもかかわらず、いろいろと変化に富んだ空模様で、様々な景色と動物の生態を観察する事ができ、この旅行は大成功であった。たしかに、国立公園に値する島であると感じた。

***先生とは、途中で何度か、海外子女教育の問題点について話し合った。帰りに***弁論大会審査員として報酬をもらったので、それでご馳走したいと言われたので、誕生日によく出かけた、Van Nuysにあるドイツ・レストラン Old Heidelberg へ行った。お腹いっぱい堪能するほど食べ、レストランの装飾やムード、音楽、サービス、デイナーのすべてに満足して、今日一日の喜びをかみしめた。

夜中に入って雨が降り始めた。今回のWhale Watch Trip は、本当にうまくいったと思った。また、雨で中止になるとばかり思っていた。ともかくすばらしかった。もう一度、違う時節に訪れたい。草やお花畑があろうがなかろうが、何処から見ても、断崖と対岸の島々の姿はうつくしく、見飽きないものであった。アザラシがのんびりとくつろいでいる光景もよいし、カモメが沢山自由に舞い飛んでいる風景も良い。イルカの大群も良かったし、鯨のゆうゆうとした遊泳ぶりも、全く自然ですばらしかった。こうした自然の美がこんな手近なところにあったとは。出来ればキャンプなどすれば、もっとすばらしいのだが。いつかはチャンスが来るかもしれない。夜中になって、ものすごく激しく雨が降った。何度もWhale Tripのラッキーさを思った。

(完                 記 1983年3月21日) Word Input 2010年7月20日

(注) Channel Islands National Park

North Hollywoodから丁度60マイル(Ventura Freeway)のところにある Ventura Cityの沖、船で約2―3時間のところに横たわる島々で、最も新しいNational Park (1983年現在)。島の近辺をMigrant Whale である Gray Whale が通るので有名。Gray Whale はアルスカを9-10月に出発して南下し、12月末にCalifornia沿岸を通って、Baja Californiaの湾に入る。子供を育てたりして帰途につき、3月ごろに再びCalifornia沿岸を通過する。一時、絶滅に瀕したが、USAの保護により、現在1万頭異常になる。哺乳動物の回遊(わたり)としては世界最大で、往復12000マイルの旅を行う。
Channel Islands への定期便は運航されていない。

Channel Islands は動植物の自然生育の宝庫として、その美と自然保護のため、1980年3月、国立公園に指定された。 (記 1983年3月21日)

“鯨(Gray Whaleの場合)”-Migration (回遊)

Gray Whale はLiving Fossil といわれている。生きている化石。

Migration

妊娠したメスは、9月にアラスカを発ち、時速5マイル、1日約100マイルのスピードで、アメリカ西海岸を南下し、12月ごろ、メキシコ、バハ・カリフォルニアのScammon Lagoon に着く。1月ごろ、子供を生み、3月ごろLagoonを出る。ゆっくりと北上して、7月8月にアラスカに達する。往復、約10,000マイルの行程である。カリフォルニア沿岸を通過するのは12月と3月ごろで、San Pedro やLong Beach から、Whale Watch の船が出る。(有料)。
一時、絶滅しかけたが、1937年保護され、今では15000頭程いる。メキシコも1972年National Whale Refuge をScammom Lagoon につくった。Migrationは単独の場合も有れば、16頭程のグループの場合もある。Migrationの間はほとんど何も食べず、FAT(脂肪)をつかいながら航海する。そのため五分の一の重量が喪失する。フジツボのような寄生動物(Acorn Barnacles)はEasy Rider であり、時に1000ポンドに達するが被害はない。暖かい海に来ると、うまく適応できず、離れていく。
Gray Whale は5歳から11歳で成熟する。40歳まで成長し続ける。すくなくとも69年は生きる。11月12月にMateし、妊娠期間は13ヶ月。最長はメス49フィート(15メートル)、体重35.2トン。オス47フィート(14メートル)27トン。新生児は16フィート(5メートル)、900ポンド(408KG)。

Migration(渡り、回遊) の原因

生理現象のリズム適応から来る場合(温度、日照時間、産卵・・・)、えさを求めてなど。

14 アメリカで飼う犬と猫                                                                                       村田茂太郎

はじめてウエスト・ロスアンジェレスのアパートに住んだころ、私たちが魚を食べていたからか、真っ白で人懐っこい猫がアパートに来るようになった。そのうち、部屋の中まで恐がらずに入ってくるようになり、どう思ったのか、泊まっていくようなこともあった。あとで、自分で猫を飼ってみて、家族である猫が外泊したりして帰ってこないことがどんなに私たちを不安にさせるか身にしみてわかるようになったが、その頃は、どこかの飼い猫が私たちとの付き合いを楽しんでいるというだけで満足していた。私たちの与える食べ物を沢山食べるわけだから、飼い主の家に帰ってもあまり食べなくなり、どこかで食事をもらっていると不安に感じたのであろう、ある日、同じ猫のくび輪に、Please do not feed me. “食べさせないで”というTagがはさんであった。わたしたちは飼い主を心配させたことに気がつき、あまりその猫と親しまないようにした。

そんなある日、家内がクルマから猫を放り出す場面を目撃した。アパートのまえの道路であり、アパートがあるから、猫はどこかで飼ってもらえると思ったのであろう、捨てていったのである。そして、その猫の蚤とりの白いくび輪にTagが貼ってあった。この前と逆で、”My name is Sasha. Please feed me.” “名前はサーシャ。食べさせてね。”とあったので、確実に捨てられた猫であることがわかった。猫は毛の短い、Russian Blue という系統らしいと、あとで本で調べてわかったが、きれいな猫であった。その日から私たちのアパートで飼い猫となったが、年齢は2歳ほど。当初は野獣のようで、わたしは手足が引っかき傷だらけになった。あるときソファーに座っていると、何を思ったのか、いきなり猛獣が身構えて、獲物に襲い掛かる恰好でわたしの足にかぶりついてきた。理由があるのだろうと、わたしは叱らなかった。あるときはキチンで大きな音がしただけで、ものすごく飛び上がり、目が据わったようになって、しばらくは動かなかった。こんな反応振りから、わたしたちは乱暴な子供の居る家に飼われていて、一見、凶暴な反応をし、やむなく捨てられたのであろうと推察した。

時々、凶暴性を発揮したが、猫は徐々におとなしくなり、結局、私達は17年間付き合うことになった。サーシャという名前だからユダヤ人にかわれていたものらしい。名前は変えず、そのまま、最後までつきあった。猫は家になつくといわれていたから、アパートから一軒家に引越しをするときは、事前になんども一緒にクルマで運び、新しい家になれさせた。そして無事に引越しを済ませ、新居にも慣れ親しむことになった。

今度は犬を飼おうということになり、家内がFarmers Marketで子犬が捨てられているのを見つけた。わたしが経験から、犬はメスが飼い易いよと言っていたため、捨てられていた四匹の犬の一匹だけがメスであったので、それが我が家にくることになった。猫は既に四歳ほど、犬はうまれて一週間ほどであったため、牡猫であるにもかかわらず、時には子犬の面倒を見るようなかわいがりかたで、仲良く育つことになった。そんな犬猫であったが、年にはかてず、結局それぞれ19歳、17歳ほどでなくなった。

そのほかにも犬がいたが、最後に亡くなったのはやはり17歳ほどのBearded CollieというHerding Dog で、これは血統上、羊を追う習性がうまれつきついているのか、犬を追いかけて、その犬の前に行って走っているのを留めようとする性癖があった。わたしがDog Parkで一緒に走っても、横を並んで走らないで、走っている私の前に出てくるので、あるときには躓いてころんだりした。いつまでも、そういう習性を失わないで年をとっていった。

この最後の犬がなくなる一年ほど前から、野良猫が家のポーチにあらわれだした。そして、結局、飼い猫となった。とてもきれいな猫で、本で調べて、どうやらRag Dollといわれる種類の系統ではないかと思うようになった。本によってはHimalayan Catと書いてあるのもある。あまりにきれいな猫なので、飼い猫が迷い込んだに違いないと思って、家内は当初、近所にきいてまわり、Animal Shelterにも連絡して調べてもらったりした。しかし、結局、誰も引き取り手はいなかったので、私たちの家で飼うことになった。Rag Doll Catの系統は、争いが嫌いで、つめを立てず、従って、子供の居る家庭でペットに適すると書いてあった。本当にその通りで、爪はあるが、引っかくようなことはせず、どちらかというと、遠慮がちに手を出すというタイプで、まさに最初の猫サーシャとえらい違いであった。

家内はBearded Collieの朝夕の散歩はコントロールがきいたかたちで、鎖でつながず、そばをゆっくり歩く形でおこなっていたので、近所のだれもがきれいな犬を認め、あの犬の飼い主というかたちで家内を認知するひとがいたほどであった。犬の名前はDuchessダッチスで、ちょっと発音しにくいが、由来は、家内が近所の公園でくつろいでいたとき、公園内を通りかかったある女性が,“Beautiful Dog! Just like Duchess!” (きれいな犬ね。まるで、Duchessみたい。)と叫んだことにあった。家に帰って私にDuchessってどういう意味かと訊いたので、ミセス Duke つまり公爵夫人という意味だといったところ、家内はそれが気に入ったということで、それがKennel Clubに正式に届けられた。

このDuchessも老化して、死ぬまぎわにRag Doll Catがあらわれたわけで、二匹は別に争わず、すなおに共同生活に入った。その猫があらわれた夏、私達は犬を連れてNorthern Californiaへの休暇旅行を楽しみ、カリフォルニアの北の港町Eurekaで三泊すごし、家内が気に入ったといっていたので、猫の名前をEurekaとすることにした。ユリーカ といえば、語源はギリシャ語で、有名なアルキメデスが黄金の冠が純金か否かを見分ける方法として、風呂に入っていて、あふれるお湯で、浮力に気がつき、アルキメデスの原理を発見したその喜びで、裸で飛び出して叫んだ言葉とされている。

Duchessもなくなり、Eurekaはひとり愛情を独占して、ゆうゆうと過ごして三年がたった。そして、あるときインターネットでかわいい犬をみつけた家内は、いろいろ調べて、CaliforniaBakersfieldShelterにまだ居ることが分かり、ふたりでまず様子を見に行くことになり、気に入って採用を決めたところ、希望者があと2-3組居るから別な日に抽選ということになった。抽選のその日、ロスアンジェレスから2時間のドライブを早朝実行して、まだShelterOpenするまえについた。ほかにもクルマで訪問者があらわれたので、抽選の相手かなと思っていた。しかし、結局、ほかの人たちは猫をPick Upにきたりとかで、問題の犬の競争相手はあらわれず、RangerYours(あなたたちのよ。)といってくれたので、私達は往復4時間のドライブを2回もやった価値はあったと単純に幸運を喜んだ。

家には今では親分の貫禄を備えたEurekaが待っていた。犬は子犬でなく、2歳ほどで、すでに母親になった経験のある犬であった。猫と同じようなサイズで、うまくなかよくやっていけるか心配であった。その日から一週間ほどは緊張の毎日となった。Eurekaは片時も犬から目を離さず、裏庭におトイレに犬を出すと、必ず自分も出てくるという具合で、食事中はテーブルの上から監視し、ほかの部屋に移ればスグに自分も移動するという調子で、ほんとうに新しい珍入者を警戒し、尾行することが至上命令であるかのごとき態度をとりつづけたので、家内はネコに“Inspector”(警視)というあだ名を与え、私は“親分”と呼ぶことにした。

私はそのネコの反応振りから、これは自分がきたあと、前から居た犬がいなくなったため、今度は自分の番ではないかと心配になったのではないかと思った。それで、そんな心配はしなくてよいと、それまで以上に私達は猫に気を遣うようになった。それでも、犬は当然の如く横柄に振舞うので、Eurekaは自分の座を奪われたように感じたのか、愛情の表現を露骨に示すようになり、近づいただけで、隣の部屋まできこえるほどの大きな音をだしてゴロゴロといい続けることが多くなった。また、自己表示をしないと後から来た犬の陰に隠れてしまうと思ったのか、頻繁にわめきたてるようになり、玄関を開けろとか裏庭に出せとか、Dog Doorがあいているにもかかわらず、わざと人をこき使うようになった。犬は主人につかえて忠実だが、猫は主であるということをつくづく感じさせるEurekaであった。

そして3年経ち、今では犬猫仲良く家族として暮らしている。どちらもPeace Prize 
Winner だなあと、家を暖かくしてくれる2匹に心から感謝している。

おわり
2009年4月7日執筆

15 “心頭を滅却すれば・・・”(マンガ・歴史・漢詩―思い出                    村田茂太郎

天下人の資格を備えていたと思われる甲斐の武田信玄が、三方が原の戦いで徳川家康を破り、京都を目指して進撃して、京都にいた織田信長を不安に陥れたが、長年患っていた結核の進攻に勝てず、信州駒場の陣中で病没したのは天正元年〔1573年〕、信玄53歳のときであった。父親信玄が挫折した天下統一の志を継ぐ破目になった二男武田勝頼は、猪突型の武将であったため、有能な部下の助言もきかず、家康・信長の軍と、三河の長篠で決戦し、信長による鉄砲隊の活躍で、武田軍が歴史的な壊滅を迎えたのは、信玄没後わずか2年目の事であった。

武田を徹底的に憎んだ織田信長は、1582年、勝頼を天目山で自刃させるのに成功し、その後、武田残党狩りを実施して、ほとんどすべてを掃討するのに成功した。比叡山を焼き払い、高野山を襲い、本願寺を打ち破った信長は、彼に敵対する寺院を焼き払うのに、なんのためらいも感じなかった。1582年、勝頼が滅んだとき、武田軍の敗将六角承禎を、信玄も帰依していた甲斐恵林寺の禅僧快川じょうき国師が匿ったと知った信長は、比叡山のときと同様、寺をまるごと焼き払った。その時、燃え盛る火の中で、快川国師が叫んだ最後の言葉が、“心頭を滅却すれば、火もおのずから涼し”であったと、いわれている。

私が、この“快川”の名前と、この“心頭云々”の言葉を知ったのは、小学校のときに読み耽った歴史物マンガの中でであった。私はマンガが大好きで、小学校の頃は、随分、マンガを読み耽った。小学2年から中学3年の初めまで通っていたソロバン塾にマンガが備えてあり、それが、私の歴史への関心を最初に掻き立てたわけであった。私は伝記物マンガが大好きで、山中鹿之助とか楠木正成・正行(まさつら)とか、平賀源内、渡辺崋山などに興味を持ち始めたのもマンガのおかげであったし、近江聖人中江藤樹や熊沢蕃山、あるいは樋口一葉や高校生でさえあまり知る人のない大原幽学などを知ったのも、マンガを通してであった。

私は、何かはじめて出会った人名があると、必ず父母に訊ねた。父と銭湯に行ったときなど、よく戦国時代の武将の話などを父に教えてもらい、湯に浸かりながら、遠い昔の歴史の動きに心をおどらせたものであった。そして、いったん、芽生えた探求心は終生かわることなく、今も私は歴史に対する興味を持ち続けている。そして、私がマンガでも何でもよいから、歴史に関係のある本を読むことの大切さを人に説くのは、自分自身の成長過程における楽しかった日々の記憶を踏まえての事である。

私の家には、本はあまりなかったが、2歳年長の姉のために、父が高校生から一般向け(と後で知った)の参考書を買い与えていたおかげで、私は小学生の頃から、大原幽学といった名前を、それらの本の中に確認する事が出来、いわば、名前だけの暗記で終わりかねない歴史の勉強を、その人物の成長や社会背景を理解しながら、学ぶことが出来たのであった。私は、マンガを通して、まず、人物への興味を喚起され、そのあと、より詳しく知りたい私の欲望は、貸し本屋の伝記を片っ端から読んでいくという形で遂行された。

当時も、マンガといえば、“鉄腕アトム”というすぐれたSFが連載されていたし、“少年ケニヤ”や“少年王者”といった冒険ものも新聞や“おもしろブック”に載っていた。マンガによって、ある時期を成長してきたともいえる私は、マンガを否定する気はない。現在も“マンガ 日本の歴史”や “マンガ英雄・人物伝”というのがあることを私も知っている。しかし、時代の動きを反映して、マンガの質も内容もかなり変化したのは事実である。そしてまた、私自身の体験からも、“良いマンガ”を読むことの大切さもあきらかである。

小学1,2年の頃、“おもしろブック”に連載されていた“くろがねインデイアン”の中のある場面―葬式の場面―などはマンガながらも名文で書かれていて、姉などは“立ち上る煙は・・・”という文章を暗唱していた程で、“大酋長ポーハタン”とか、“死神ペック”とかという名前は、私は、今でも憶えているくらいである。従って、たとえマンガとはいえ、一度、見知った名前“快川国師”と“心頭を滅却すれば、火もおのずから涼し”を三十年間覚えていても不思議はなく、私は自分自身の記憶力のよさというよりも、年少期に真剣に熱中して読んだものは、たとえマンガであろうと、誰もがほとんど全部心のどこかで覚えているに違いないと確信し、良い本を読む重要性をつくづく感じ、良いマンガに親しむ事の重要性を誰もにたいして指摘したいと思うのである。そうして、その見地から、昨今の子供用のマンガは。感性に訴えるものをもったよいものもあるが、歴史上の固有名詞と結びついたものは乏しく、何らかの向学心を掻き立てるといった、質のある者ではなく、読んでそれで終りという内容のものが多いように感じ、マンガから本格的な読書へ向かう傾向を生むこともなく終わっているように感じ、これも時代の移りなのかと、淋しく思っている。

この“心頭滅却”を快川自身の言葉と思っていたが、山本周五郎を読んでいて、実は唐の詩人杜ジュン鶴(トジュンカク)の七言絶句の結句であったという事を最近知った。ところが、角川書店の日本史辞典で“快川”を調べてみると、この言葉は“碧巌録”の評唱の言葉であるという。“碧巌録”は宋の時代の作品であり、禅宗の原典に属する重要な本であり、たしかに禅宗の“快川”国師が読んで暗記していても不思議ではない。そして、私は日本の友人から送ってもらった岩波文庫の碧巌録”(全三巻)を自分で調べてみて、中巻110頁に確かに載っているのを確認した。しかし、それは転結の二句だけであった。“碧巌録”はこの詩の原典ではなく、引用に過ぎなかったのである。角川の記述は少し、片手落ちであることは否めない。原詩は次のようなものであった。(どうしたことか、山本周五郎も違った引用をしていた。)

夏日題悟空上人院詩                                           トジュンカク 七言絶句

三伏閉門被一のう 兼無松竹蔭房廊 安禅不必須山水 滅却心頭火自涼

さんぷく 門をとじて 一のうをかぶる
かねて松竹の房廊を蔭する無し
安禅 必ずしも 山水を もちいず
心頭を滅却すれば 火もおのずから 涼し

暑さの最も激しい間、寺の門を閉じて、僧衣をまとう
しかも松や竹が寺院の部屋や廊下に陰を落とすに足りない
しかし、座禅を安らかに実行するのに、暑さをしのぐための山水が必要なわけではない。
こころを押しつぶして無心になれば、火でさえ涼しく感じるものだ
                                             ムラタ訳、但し、誤訳の恐れあり。

詩は、暑さをがまんする方法を述べたものといえ、禅宗の公案、“寒暑到来、如何回避”(さあ、寒暑がやってきた。どうしてこれをしのぐか)のところで、引用されたのも当然と言える。(碧巌録”第43則、洞山無寒暑)。精神を集中すれば、痛みも感じないということは、私達も普段体験することである。音楽を聴きながら勉強していても、本当に考え事をしていると、ほとんど音楽が流れているのに気がつかない。まだ、歯科医などというものがなかった時代、天才パスカルは数学の難問を解くことに精神を集中して、歯痛を忘れ去ろうとしたという有名な話が残っている。

あさひ学園パサデナ校はサン・マリノにあり、去年、ウエストLAのサンタモニカ校で比較的涼しい夏を送った私は、ここのパサデナ校の暑さに驚いている。生徒達の中にも、扇風機をあさひ学園で購入して、各教室にくばれというものがいる。そこで、私はこの名文句を思い出したわけである。たしかに暑さはひどく、勉強に身が入りにくい。しかし、そうであればこそ、一層、精神を集中して学問に励まねばならないのだ。信長に焼き殺された無数の人間の苦悩に比べれば、華氏90度や100度は、水のようなものである。私達は、あまり、自分に甘えないで、学問に励みたいし、子供達にも頑張ってもらいたいと思う。これは、精神主義であろうか。

(完                 記 1985年7月28日) Word Input 2010年7月22日


16 “梨の木 エトセトラ”

 中野重治の小説に”梨の花“という作品があることは、文庫本をよく買って読んでいた昔から知っていたが、梨の花というものが、どういうものか知らなかったため、二十世紀ナシは大好物であったにもかかわらず、一度も読みたいという気が起こらなかった。梨の花というのをはじめて知ったのは、ロサンジェルスに来てから、しかも、ノース・ハリウッドの今の家(1987年現在)に移ってからである。家の前の庭にあるのが梨の木だということを知らされて、はじめて、私は梨の木とその花を観賞する機会に恵まれた。そして、梨の木の葉っぱと花のやさしさに魅せられてしまった。

 花は通常、一月ごろに満開となって、一見、桜と似たような咲き方をする。京都で一月末ごろが一番寒いと自分で確かめたように、この梨の花も、一月末ごろに例年満開になるのを確かめて、今では、梨の花は一月に咲くものだと納得するに至った。日本では、いつ咲くのだろう。十月においしい二十世紀ナシが出回るためには、五、六月ごろに咲かねばならないのであろう。

 この、夏と冬しかないと思われるロサンジェルスでも、自然のリズムは正しく動いていると思わされるのは、これらの花々の咲き方によってである。去年は、一時、気候がおかしくなったのか、梨の花が十一月ごろから咲き始めたりしたが、通常は、ある時期になって規則正しく咲き始める。花も美しいが、枝振りと葉っぱが、また何ともいえない程やさしく魅力的である。この梨の枝が天を目指して繁り、暑い太陽光線をさえぎってくれるおかげで、家の前には木陰が出来、どんなに暑い時でも、涼しい場所がある。ぺぺ()は、特に暑がりで寒がりなので、暑い日など、パークに散歩に連れて行っても、木の陰から陰へと、陰を探し回って歩くほどであり、家の前では、必ずスグに梨の木の陰に入って寝そべる。

 私は、暑い日々、外に出てもそんなに暑く感じなかったりするのは、まさに、梨の木のおかげであることを心から感じ、いつもこの木には感謝の気持ちを抱いている。二、三年前に強烈なサンタ・アナ風が吹いたせいか、幹が少し斜めに傾いたのをスグに見つけた私は、ガーデナー(庭師)にも、何とかしてやれないか、倒れないかと訊いたが、彼はあんまり深刻に受け止めなかった。気のせいか、私には幹がカサカサになり、年古りてきたように思われる。

 この梨の木が、枯れたり、倒れてしまったら、どんなに淋しい思いがするだろうと思うほどである。私は、結局、梨の木、梨の花の魅力をロサンジェルスに来るまで知らなかったため、とうとう中野重治の“梨の花”をのぞいて見る気にもならなかった。今では、このすばらしい木を表題にするくらいだから、きっと、魅力のある話が書かれていたに違いないと、当時の私の無知を残念に思う。

 アメリカは何でもジャンボ・サイズで、樹木もよく育つ。家の前にあった二本の糸杉が、十年の間に大木に成長してしまい、これは、家に密接した場所で、隠れ場所をつくるので、防犯上よくないと女房がいいだした。そして、女房が絵のクラスで知り合った男性が、市Cityで働き、木を切る仕事をしているとわかったので、庭の木を切ってもらう事になった。

 糸杉はまっすぐに天を目指して伸び、立派に育って切り倒すのはかわいそうに思われたが、もっと大きくなれば、家までこわれるかもしれないということで、仕方なく切り倒すことにした。彼が見積もりにやってきたとき、私はダルマ落としの要領で、根元をバッサリ切れば簡単に片付くと思っていたが、実は大変な仕事だということが分かった。根元でバッサリやった場合、まちがって家のほうに倒れたりすれば、かえって家が壊れて訴訟される事になるので、面倒だが、木の上までのぼって順番に、いくつにも小さく切っていくしかないということであった。

 結局、一本七十五ドルということで、二本切ってもらう事になった。私はこれは唯一のチャンスであると思い、彼が山登りの要領で木にぶらさがって、次々と切り刻んでいく姿を写真におさめた。大きな重いチェーン・ソーを腰にぶら下げて上がり、鎖で身体を幹に縛り付けてから、片腕でチェーン・ソーを始動させ、太い幹を切っていくのである。大変な肉体労働であると同時に、本格的な山登りの技術と慎重さが要求される仕事であった。二時間かけて二本の木を切り倒し、細かく切って片付けていくのを、私は最後まで見つめていた。堂々とそびえていた樹が、何も悪くないのに処分されてしまったわけで、私は、淋しいような、悪いような気がしていた。

 日本にいた時は、樹木はほうっておいても育ったので、あまり気にしていなかったが、ロサンジェルスでは、緑は、ほとんどすべて人口に育成されたものであり、それは飛行機で禿山をみれば、すぐにわかるのである。

 子供の頃、家族で浜寺の海水浴場(大阪府)に行った時、ある海岸べりの一画が、きれいに区画され、その中に、芝生が鮮やかな緑を見せていたのが印象的であった。進駐軍の宿舎があったのである。しかし、その頃、日本的気候の中では、芝生は、特に必要とは思えなかった。ロサンジェルスに来て、私は芝生の効果を本当に知った。芝生は伸ばすために水と肥料をやり、伸びるとすぐに刈らねばならないという奇妙なサイクルを繰り返さねばならない、やっかいなしろものである。しかし、効果は抜群である。

小六の国語の練習問題に、樹木の効果を説明した読解文があったが、それをいつも正しいと思ったのは、このロサンジェルスの日光と芝生との関係をしみじみと観察してからである。芝生は、まず何よりも太陽熱を吸収してくれるのである。そして、音を吸収し、目にはさわやかな印象を残してくれる。空気も浄化してくれ、心をやすめてくれる。ともかく、植物の存在価値をまざまざ示してくれたのが、この南カリフォルニアの気候であった。

日本の四月の桜に匹敵するのが、ロサンジェルスの五月のジャカランダ(ヤカランダ)である。街路樹として、いっせいに咲き誇っているときは、壮観であり、遠くから見たとき、いつも私は“霞か雲か・・・”の歌詞を思い浮かべる。薄紫のやさしい花が、日本の風情をかきたてる。また一年が経ったという時間間隔を誘うのが、このジャカランダであり、サルスベリ(百日紅)である。百日紅の花も、ロサンジェルスにきてはじめて女房からおそわったものである。家には無いが、周囲一画の街路樹となっており、真紅や赤い密生した花をつけ、葉も繁っているため、それだけでも暑い感じがする上に、七、八月の暑い盛りに咲き誇るので、サルスベリが咲き出すと、また、暑い夏を迎えたかという気持ちが生まれるようになった。そのため、私は、あるとき、俳句を作った。

サルスベリ またあかあかと 心にも

というもので、また一年経って、暑い夏、サルスベリの咲き誇る季節にいるという感慨と、暗い状況を脱して、心もまた晴れやかになってきたという気分を読み上げたものである。

梨の木に 謝して水やる 暑さかな

の句も、同じころに作ったものだが、これは、暑い日光を防いでくれる梨の木への感謝をこめて水をやったという、単純な句である。

一方、私も女房も大好きな草がある。濃い紫の小さな花をつけるクリスタル・パリスという草である。暑さに強く、太陽がよく照る場所で、見事に鮮やかに、そして美しく咲き誇る。繁殖力も強く、枯れてしまったことを残念に思っていたら、翌年、思わぬところから咲き出してきたりする。今年は、いい場所で、美しく明るく可憐に咲いている。

カリフォルニアらしく、明るい太陽の下に咲き誇る花が多いのには、今更のように感心させられる。このクリスタル・パリスは、紫の花が群生して、かたまって、鮮やかに目に写るのに対し、隣の家の庭の隅に私が見つけた露草は、同じような青い、小さな花をつけているが、これは蛍が飛び交っているように、ちらほらであり、清純な、みずみずしい花が、いかにも雑草の美しさと強さを示していて、この花を見るたびに、なぜか私は島倉千代子の“りんどう峠”を思い出す。そして、ああいう歌がはやった時代というのは、のんびりして、牧歌的だったのだなあと、今更の如く、小・中学生の頃が懐かしく偲ばれる。

ハイビスカスは熱帯的で、あまり感心しないが、ブーゲンビリアは美しいと思い、女房も好きで、夾竹桃を抜いて、そこに一本植えたところ、またたくまに大きくなり、美しい、くれない色の花をいっぱいつけるようになった。庭の手入れが悪く、ほとんどガーデナーと女房まかせだが、あるとき、咲いている花の種類を数えてみたら、九種類もあった。さすが、地中海性気候の南カリフォルニアだけのことはあると思ったものである。
今、オレンジの木によくとまるのは雀で、毎日、二十羽を越える雀が枝にとまって、私が米を撒くのを待っている。時々、オレンジの花の間をハミング・バード(ハチドリ)が飛び回っているのに気がつく。美しく、愛らしい鳥である。

去年、はじめて、庭に、女房が日本ナスやきうりやトマトを植えた。ナスは大成功で、かなりおそくまで沢山実り、ナスの大好きな私は大満足であった。ナスもまた、紫色の愛らしい花をいっぱいつける。きうりは水のやり方がむつかしいらしく、下手をするとスグに巻いてしまうので、ナスのようにはいかなかった。一番の問題はトマトであった。これが、また、味はすばらしくうまく、自家製のトマトを食べると、マーケットのものなど、バカらしくて買えなくなった。これもよく繁って、いっぱい実がなったが、あるとき、私は新発見をした。大きく立派な青虫が葉っぱや枝についていたのである。トマトの葉っぱはうまいらしくて、よく調べると、大きな青虫がいっぱいついている。道理で、沢山のフンが落ちている筈だとわかった。女房はとってしまえと指示したので、私は一応、ハシでつかんで、とりだしたが、かわいそうで、とても殺せない。昔、私は、小さな青虫をキャベツ畑からとってきて、飼い、蛹になり蝶になるのを観察したことがあった。この大きな青虫は、きっと、青筋アゲハか何かのアゲハチョウになる筈で、蛾になるわけでないと確信していた私は、このような青虫を当時見つけていたら、大いに感激したに違いないと思い、どうしても殺せず、仕方なく、別の箱に入れて飼うつもりになった。

そして、トマトの葉っぱをとって入れてやると、大きな口をあけて、モリモリと食べる。沢山葉を入れておいたはずなのに、翌朝見たら、葉は一枚も残っていなかった。私はまた葉を入れて仕事に出かけた。帰ってきたら、青虫がいなくなっている。どうしたのかと聞くと、もうトマトの葉の上に返してやったという。トマトの葉の間をのぞいてみたが、もう見つかるのはコリゴリと青虫が思って上手に隠れたのか、どこにも見つけることはできなかった。しかし、その後も、方々にフンが落ちていたので、健在なのは確かであった。私はきっといつかはサナギになり、アゲハになる筈だと思い、それとなく注意しながら見守っていたが、とうとう目撃することは出来なかった。沢山やってくる鳥の餌食になったのかもしれない。或いは、私の知らない間に、蝶になって飛び去ったのであろうか。

この青虫は、葉っぱだけでなく、トマトの実もかじった。かじったところや青虫が這ったところは変質していった。従って、うまいトマトを食べることをあきらめて、青虫のためにトマトを提供してやったようなものであった。しかし、昔、自分が情熱を傾けた相手や欲しくても手に入れられなかったものを、簡単に殺すことなどできないものである。

去年のトマトの種から自然と芽が出て花が咲き始めた。本当にトマトの葉はおいしいのか、他にも葉はあるのに、もう青虫らしきものがついているという。大きくなったら、またとれないので、今のうちになんとか除去するしかない。悩みが一つ増えたといえる。それにしても、自然の生命力はすばらしいものである。退屈する暇が無いほど、この世界は変化に富んでいる。
〔記                 198762日〕


17 歴史の見方“(ある人物観の変遷)                                                             村田茂太郎

“歴史の見方”などという大げさな題をつけたが、ここは、そういうものについて大きく扱う場所ではないので、ある歴史上の人物に対する“私”の見方の変化について、私個人の思い出と共に語ることにしたい。 つまり、“足利尊氏”についてである。

最近、わたしは中村真一郎の名著“頼山陽とその時代”を読んだ。文部大臣賞を受賞したこの膨大な大作には、頼山陽の作品はもちろんのこと、山陽の師、友人、弟子等、山陽に関係のあった人物の漢詩二、三百篇が載せられていて、私は当時の学界や社会の情況を随分面白く、楽しく、読み味わう事ができた。

その中に、山陽の弟子の一人、藤井竹外という高槻藩鉄砲奉行が吉野で詠んだ漢詩が出ていた。

遊芳野                               藤井啓(竹外)


古陵松柏吼天ぴょう 山寺尋春春寂寥 眉雪老僧時やめ掃 落下深処説南朝

古陵の松柏 天ぴょうに吼ゆ
山寺(さんじ)春を尋ぬれば 春寂寥
眉雪の老僧 時に 掃くをやめ
落下深きところ南朝を説く

吉野の南朝への懐古を詠んだ非常に有名な詩で、竹外(ちくがい)の名はこの詩一編をもって、日本漢詩人の間で知れわたった。幕末から明治に向かっていく風潮にも合ったのか、この如意輪寺での絶唱は、その荘重な風格と尊王主義的内容との故をもって、発表以来、朗吟され、愛唱され続けてきた。

“古い、御陵<後醍醐天皇の墓>にある松や柏が、天を吹き抜ける突風にピュゥピュゥとうなり声をあげている。如意輪寺に春訪れると、すでに花は散ってしまって、春の寂しいたたずまいがあるのみである。眉が雪の様に真っ白になった老僧が、おりから、庭を箒ではいていた、その手をとどめ、桜の花が沢山ちり積もったところで、南朝の歴史を語ってくれた。”

この詩が、たちまちにして、私を少年の頃の思い出へと誘ってくれた。私は、大阪生まれの大阪育ち。小学校の社会の郷土史の内容は、楠木正成や豊臣秀吉の記事で満ちていたように思う。新しく出来た今川小学校に三年生の時、同地域の者はいっせいに入学し、第一号卒業生となった。その五年生の夏、吉野に、二泊三日の林間学校へ行った。吉野は南朝の史跡が豊富なところで、私はたちまち南朝方になり、世の中に、足利尊氏ほど、悪く、ずるがしこく、イヤな奴はいないと思うようになった。

私はソロバン塾においてあったマンガで、楠木正成・正行の話を読み、、感動していた。そして、南朝という悲劇の歴史を秘めた吉野を訪れて、ますます後醍醐方になっていった。吉野の重畳たる山の中に如意輪寺があり、そして、楠木正成の息子正行(まさつら)が死を覚悟して頭髪を切り、辞世の句を残していったという事を知った。

五年の夏の林間学校では、いろいろと、ものめずらしさにひかれて、特に何かを心にとどめるということもなく、私は正行の辞世の歌を刻んだ碑を見たにもかかわらず、忘れてしまった。ところが、幸いな事に、六年の夏にもう一度、同じ吉野に林間学校で行く事になった。今度は歌を覚えて帰るぞと心に決めて出かけた。そして、再び南朝の遺跡を訪ね、如意輪寺で正行の歌碑を見た。この時も、私は特にノートにとるということはしなかったが、何度か口ずさみ、たしかに覚えたと思う。

それから29年経った。友人から太平記の原典を送ってもらって、その歌を確かめようと思ったが、文庫本はまだ完結していず、いまだに、私の記憶が正しいかどうか、確かめられないでいる。でも、太平記の中には、きっと載っているに違いないと思っている。

かへらじと かねて思へばあずさゆみ なきかずにいる なをそとどむる -楠木正行
というような歌で、四条畷の戦で事実討ち死にをした楠木正行が、当時の武士らしく、名を後世に留めたいと念じたものであった。

さて、建武の新政から、その挫折、そして南北朝時代、室町時代への移行は、複雑で、単純に天皇方を正しいとすれば、解釈は簡単でスッキリするが、その後の歴史の動きの理由が正しくつかめないで終わってしまう。歴史は北朝と足利派を正統として、足利将軍による室町時代へと突入して行った。

忘れられていた楠木正成の名を発掘したのは、諸国遍歴をした水戸光圀であった。この光圀による南朝の忠臣楠木父子の名誉回復が、大日本史編纂の中で位置づけられ、幕末に水戸学における勤皇思想として、天下を支配する風潮がつくられていった。頼山陽も藤井竹外もその同じ線上にあったといえる。

さて、私の姉が中学生の時の社会科の教師が、生徒にこういうことを言っていたと、学校で起きたことや聞いてきた話をなんでも忠実に話す事を得意とした姉が伝えてくれた。つまり、その教師は、自分は日本の歴史の中で、三人の大きらいな人物がいると思っているが、その一人は岩倉具視であり、その二人は足利尊氏、三人目は誰それ(多分、徳川家康)というようなことを生徒にしゃべったのであった。その当時、私は、自分も、それはその通りだ、足利尊氏ほど憎たらしい奴はいないと思っていた。なにしろ、楠木正成、正行という英雄の姿が、何処から見ても欠点がなく、見事な美しさをもっていて、その二人とも、自分の作戦が後醍醐天皇やその近臣の者に受け入れられず、仕方なく死を覚悟して戦い、いさましく死んでいったため、、その敵であった足利尊氏が憎くなるのも無理はなかった。

そのうちに、歴史の流れというものに目をすえるようになり、南北朝や建武の新政を後醍醐天皇方の目からではなく、社会の動きという面からとらえるようになると、話が全く違ってくるのが解った。どう見方を変えても、楠木正成、正行達は主義に殉じ、天皇方の忠臣として悲劇的な死を迎えた魅力ある英雄であることにかわりはなかった。しかし、後醍醐天皇とは、何者であったろうか。私は小学校にいたあるとき、どこからか、三人の天皇をえらべば、建武の新政の後醍醐天皇がその三大天皇の一人として入るほど偉大であったと読んだか、聞いたかした。或は、吉野のお墓でであったのかもしれない。しかし、今の私はそうは思わない。

建武の新政までは、足利尊氏も新田義貞も楠木正成も或は九州の菊地武時・武光等、みな天皇中心の健全な政治を目指して必死に働いた。ところが、いざ、北条氏が滅び、出来上がったものは、武士以前の社会ともいえる貴族達公家中心の政治制度であった。

鎌倉に武士が政権を建てて既に百年以上経っている社会にあって、律令制度の昔のあり方を理想とした公家だけによる政治制度は、歴史の流れへの逆行であり、当時の社会の指導的階層であった武士達に激しい不満と怒りを与えた。後醍醐天皇が、もし、世の動き、情況を正しくつかみとっていて、武士を忠臣とした社会を作り、その頂点に自分がいようとしていれば、その後に起こった南北朝の悲劇は避けられたはずである。

自分が中心になって、“公家の政治”をおこないたいという野心しかなかった暗愚な天皇は、結局、北条討伐の最大の功労者達に、それぞれの仕事にふさわしい地位と栄誉を与える事に失敗した。武士達の不満を的確につかみとり、武士達がもとめる社会をもう一度たたかいとるしか、自分達の生きる道はないと判断したのが足利尊氏であった。天皇方、朝廷方にさからうというのは大変な仕事である。家康の再来かと桂小五郎を心配させた第十五代将軍徳川慶喜でさえ、天皇を敵に回して闘うだけの気力はなかった。

歴史の流れは、足利尊氏に味方し、忠臣楠木正成、新田義貞は滅んでいった。誠実な楠木には、たとえ天皇が自分の努力に充分報いてくれなくても、天皇を裏切る事はできなかった。京都での尊氏包囲という天才的な作戦を後醍醐天皇達が採用してくれなくても、あくまでも天皇に忠実であった。それも一つの生き方であり、己の人生に徹して生ききったわけである。

足利尊氏は天皇の新政を認めず、それを倒した。後になって、天皇の霊を弔うために天竜寺を作った。全国に、この戦争の死者の冥福を祈るために安国寺利生塔を作った。大衆の願望をひきいて、反朝廷の戦いに立ち上がらねばならなかった尊氏の胸中の苦悩を物語っているといえる。尊氏の政治認識・時代の流れの把握力の方が正しかったのである。

その後、私は、何かで、足利尊氏は気宇の大きく、度量の広い人であったという話とそのたとえ話を知った。昔も今も贈賄といって、権力を持った人に貢物をして、取り入ろうとする人は絶えない。尊氏が征夷大将軍になると、やはり、尊氏に貢物を持ってくる人が多かった。しかし、尊氏は適当にあしらい、彼らが置いていったものは、見向きもしないで部下に勝手に分け与え、何一つ、自分のものにしなかったという。そのため、家来達はますます尊氏を慕った。

私の解釈では、自己の欲望のコントロールに厳しくて、世の人のために心を尽くす事ができる人に悪人はいない。尊氏とは、歴史の流れが、その時代を正確に反映させるものとして、武士が選び取った一つの象徴であった。彼も歴史の流れには逆らえず、後醍醐天皇を敵に回すという大胆な行動をとらされたのであった。

明治から昭和へと南北朝正閏論が何度も争われた。一時は南朝の“忠臣”を誉めたたえ、足利尊氏らを“逆賊”とする風潮が栄えた。形式的な形で論じれば、たしかに、後醍醐天皇に反抗した尊氏は逆臣である。しかし、歴史の流れを仔細に眺めれば、事実は、時代の流れに反抗し、もうすでに過去のものとなってしまった古代の制度を再現しようと非現実的な考えを抱いた後醍醐帝の方が、異常であった。悲劇は、その後醍醐帝のまわりに素朴な忠臣たちがあつまっていたために発生した。楠木父子など地方の一豪族達の献身的な戦いが、すなわち南北朝の悲劇となっていった。

現代の歴史学はどう解釈しているか。楠木正成は田舎の豪族であったが、よく献身的に戦い、北条氏を倒すのに功があった。が。政治的な視野を欠いた一豪族にすぎなかった。一方、足利尊氏はどうか。彼は当時としては、一番的確に歴史の動きをつかみとり、それに適切に対処した人物であり、その後の世の中の動きから見ても、彼はやはり征夷大将軍に値した偉大な武士であった。

妥当な解釈だと思う。それでは、一体、どうして、姉が教わった中学教師のような、“足利尊氏ほどキライな奴はいない”というような解釈がうまれてきたのであろうか。それは、多分、一つには天皇中心主義の考え方、他方には楠木父子等の英雄譚にからむ南朝の悲劇の歴史が、地元、大阪の英雄崇拝の気持ちと合わさって生まれたに違いない。天皇制国家日本にあっては、その体制に反逆することが、既に犯罪だとする考え方が生まれやすい。現代風の解釈を適用すれば、尊氏は革命家であったといえるかもしれない。そして、人は悲劇の英雄を好む。

歴史を見るということは、やさしいことではない。特にある人物への個人的な好みの問題が歴史を見る目を曇らせる事になりやすい。歴史を考える場合、かならず、自分自身のある人物への偏見は捨て去り、歴史の流れの中にたって、その人物がどのように行動し、世の中の動きは、その人物に対してどう反応したのか、全体的な視野のなかで考察していく事が大切である。

歴史の流れを大きな視野から眺めると、そこには単純な善玉、悪玉はでてこない。歴史の流れに翻弄される人間達の姿と、その流れをうまく捉えることに成功した人たちとのどうしようもない悲劇的な争いで満ち溢れているのが、歴史の動きというものであった。歴史には、歴史の内的必然としか呼べないものがあり、誰もそれを乗り越える事ができないと言える。
(完                 記 1984年2月20日)  Word Input 2010年7月29日


18 “海舟とスイス”〔対等と中立〕                                                                   村田茂太郎

永世中立という立場と信条は、もちろん美しいものであるが、ただ、それを主張するだけで中立が保たれるとは限らない。戦争というのは、もともと、異常事態であり、平和時の論理が通用しなくなるのは、歴史を振り返ってみても明らかである。特に、ナチズムのような強権が出現したときに、中立を唱えるだけでは、それが守れる保証はなかったわけで、それは、スターリニズムにおいても同様であった。ナチスの脅威が荒れ狂うヨーロッパの直中にあって、ほとんど唯一、中立を保つことが出来たスイスという国の特異性は、従って、一層、際立っており、研究の価値があるわけである。

2年ほど前(1988年ごろ)、テレビでスイスを紹介したフィルムが映し出された。スイスでは全国民が徴兵され、何年かの訓練を受ける。山岳地帯であるスイスの山中で、ゲリラ戦の訓練が施され、非常警報が鳴ると、フリーウエー(ハイウエー)を走っているクルマがフリーウエーを降りて、空っぽになった道を滑走路にして、戦闘機が降りて来る。また、核戦争を意識して作られた地下のシェルターには、膨大な食糧や救助設備がセットされている。驚くべき内容であったが、スイス中立の秘密はこれであった。中立を宣言するだけでは、ナチスのような国があらわれたとき、中立で居られる保証はどこにもない。ナチスが周りの国々すべてを属国にしながら、スイスには手出しを出来なかった理由は、スイス国民の自衛力と山岳ゲリラ戦の困難さをよくわきまえていたからであった。

自分の国は自分で守る、しかし、他国への攻撃はしない、これが永世中立の秘密である。核シェルターとその発想は、私には少し危険に感じられるが、50年、60年代の核戦争の脅威の中で、自衛を第一としたスイス人たちの精一杯の発想であったに違いない。
スイスが、このように特異な政治政策を貫徹できる理由は、きっと、その有名な直接民主制や国民的統一性の中にあるに違いない。日本のように、対立が激しい国にあっては、自衛力は敵国に向けられずに、自国反対派の弾圧に向けられる可能性が強く、国民が一丸となって侵略に備えるという体制はなかなか建てにくいと思われる。

既に、太平洋戦争に突入して行った苦い体験をもつ日本人にとって、自国の防衛力の強化が純粋な防衛にとどまるかといった疑念が湧くのをどうすることもできず、本来、当然あるべき防衛が、地に着いた発想とならないで居るという不思議が現に起きているわけである。もともと、戦後憲法に存在しない軍隊が、自衛隊という名の下に存在するという異常さも、そうした日本的特殊性のあらわれといえるかもしれない。

この、自衛とスイスについて考えるとき、いつも私は勝海舟を思い出す。幕末の動乱期には、日本にも様々な優秀な人材が出現したが、幕府側出身の数少ない逸材の一人が勝海舟であった。江戸城無血明け渡しをめぐる西郷隆盛と勝海舟との談判は有名であるが、私が思い出すのはこのことである。江戸城は無事、無血で明け渡され寛永寺にこもった彰義隊事件を除いては、江戸は無事であった。勝の交渉の相手が、器量の大きな西郷隆盛であったからこそ、何事も起きなかった。交渉に臨んだときの勝海舟は、しかし、相手の反応次第で、江戸を混乱に陥れる手はずを完璧なまでに整えていた。丁度、ナチスを前にしたスイスの状態ににている。たまたま、話のわかる大西郷を相手にしたため、勝海舟は非常作戦を展開せずに済んだ。しかし、交渉に臨む勝としては、それだけの準備は必要であった。つまり、火消し取締役の親分の一人、新門辰五郎に命じて、勝海舟の合図一つで、江戸全土を火の海にする手配をすべて整えていたのである。

中立国スイスと勝海舟について考えるとき、私の中には共通の意識が生まれて来る。それは、人におんぶしてもらうのではなく、自分で守ることが永世中立の条件であるという意識である。もし、攻めてくるなら、チャンと守るぞ、しかし、自分のほうからは攻撃・侵略はしないという姿勢が、永世中立を堅固なものにするのである。

スイスと違って、日本は加害国であると同時に、世界で唯一の核爆弾被害国であるという特殊な情況にあり、アメリカとソ連、中国にはさまれ、美しい、外から持ち込まれた憲法でしばられている国である。いい面も悪い面も、みな、その特異な情況に由来する。

プリンストンの物理学者フリーマン・ダイスン(Freeman Dyson)は、スイス人と日本人は、世界平和に貢献できる国民であるという。(Infinite In  All Directions)。スイス人の強烈な個性と自衛精神は、明らかに、新しい“戦争と平和の法”を構築していく上で、大いに有効さを発揮するであろう。日本人の場合は、ことはそれほど単純ではないと思われるが、広島を訪問し、原爆記念館を訪れたフリーマン・ダイスンは、ほとんど世界で唯一の被害国であるにもかかわらず、広島や長崎の市民が、明るく、未来をめざして、積極的・肯定的に生きようとしている姿に感動し、こうした苦悩を内に秘めた明るさ、逞しさこそ、これからの世界平和の構築に必要なのだと信じるに至ったようである。

かって、フランスの日本大使であったポール・クローデルは日本人という国民の特異さ、そして、すばらしさを、“彼らは貧しい、しかし、高貴だ。”と表現した。今、日本を誰も貧しいとは認めないし、高貴かどうかも疑問だが、もし、ダイスンの感覚が正しければ、その期待に応えるよう頑張らねばならない。
(完)
1990年4月12日 執筆

19 犬と「いろはカルタ」など


 わたしは最近、むかし「いろはカルタ」にあった「犬も歩けば棒に当たる」という言葉の意味をようやく理解したように思う。うちの犬と近所を散歩していて、本当に木にぶつかるのを目撃したのだ。カルタの意味は、もともとはどういうことであったのだろう。子供の頃のカルタとりでは、あまり意味を気にせず、百人一首に比べれば単純すぎるという感じしかなかった。

朝夕、家の近所、約一.五キロメートルを一匹の犬と散歩をするのは私の楽しみで、鳥が鳴き、リスがたわむれ、植物が繁っているのを見ながら散歩するのは気持ちのよいものである。犬のおかげで近所の見知らぬ人とも話し合うことにもなり、犬の社交生活だけでなく、人間の社交にも貢献していることになる。もちろん健康管理に貢献しているのは明らかである。

うちの犬は人間がすきで、近所には、特に好きな人の居る家が何軒かある。散歩のとき、その家が道の向かい側にあるとき、うちの犬は横を向いて、好きな人が居るかどうか、出てくるかどうかを気にしながら、全然、前を見ないで、しかも私がゆっくりとはいえ、立ち止まらないで歩いていくものだから、横を向いたまま歩いていく。いくら犬といっても、前方を見なければ、何かにぶつかるのはあたりまえである。たまたま道に高い木から落ちてきた木の枝が横たわっていた。前を見ていれば、避ければすむことであったが、横を向いて普通に歩いていたため、まさに棒にぶつかったのであった。

そこで、この「いろはカルタ」を思い出したのであった。犬は前を見ながら敏感に匂いをかぎ、上手に道を歩いていく。犬が何かにぶつかるなどということは、普通は考えられないようなことである。その犬でも、他のことに気を取られていると障害にぶつかるということから、人間への教訓を呼び覚まそうとしたのがこのカルタの意図であったのだろうか。何事にも慎重であるべきで、物事すべて、なめてかかってはいけないとか。この「いろはカルタ」は江戸時代にできたらしいが、当時、犬が何かにぶつかる光景がよく見られたのであろうか。現代では思いつかないほどの着想である。

今まで、何匹も犬を飼い、同じように近所を散歩してきたが、こんなに横を見ながら普通に歩いていく犬をみたのははじめてである。特に好きな人が居る家の前を通るときはいつまでも振り返りながら、名残惜しそうにみているので、腹が立ってくるほどである。

この犬は二時間もかけてドライブして収容所から引き取ってきたもので、ほぼ二歳であった。かわいい顔をしていたが、やせ細って、「ほねかわすじこ(骨皮筋子)」だね、といっていたほどである。今では、来たときに比べてサイズは同じだが体重は二倍ほどになり、たくましく堂々としている。一つ気に入らないのは、まさに八方美人であって、人間であれば、誰にでも愛嬌を示すことである。もうすこし、人を見て愛嬌を示せといいたいほどで、それは相手の人が犬は苦手だといっていても、お愛想を振りまこうとするのでわかる。

私たちにとって空白の二年間。しかし、苦労をしたらしいのは、そうした八方美人ぶりからも見当がつく。最後には野良犬になっていたから、収容所にいれられ、次の運命を待っていたわけである。わたしたちが引き取ったとき、二歳ほどの小さな犬であったが、子犬を生んだあとらしく、まだ乳が張っていた。

その他、この犬が示す目だった反応は、大きな犬に特に挑戦的になること、トラックや掃除のクルマに過敏に反応し、追いかけ、とびかかろうとすること、子供が好きで、これも相手かまわず、おべんちゃらをすること、そして人を見ると尻尾を振り、その人のご機嫌をとろうとすること、最後に、今も時々だが、来たときは頻繁に、悪夢をみるらしく、夢の中で悲鳴をあげたり、哀しそうな声をだしたり、うなったりすることであった。それと、他の犬がうしろのほうの匂いをかごうとするのを極端にいやがること。

そこで、わたしは推理をした。

子供の沢山居る家でかわれていたこと、何かの理由で家出、または追い出されて、野良犬生活をつづけねばならなかったこと(これは収容所にいれられ、管理番号まで刺青されていたのであきらか)、大きな犬に襲われ、子犬を生み、その子犬たちが他の大きな犬におそわれ、母性本能で、相手かまわず、必死に子犬を守ろうとしたこと、そして結局、自分だけになり、飢えをしのぐため、人間を見れば愛嬌を振りまき、食べ物をもらってしばらくは生きていたのだろうということ、そして、最終的につかまって、収容所にいれられたということ。

けんかをして勝てると判断して大きな犬にかかっていくのでなく、ともかく、気に入らない大きな犬には戦闘的になるため、これは子犬を守る母性本能のあらわれと思い、そういう危機的な場面があったのに違いないと判断した。今の家の前で、去年、大きなハスキー犬が通りかかったとき、自分からかかっていって、のどをかぶられ、四百ドルほどの怪我をした。こちらからかかっていったのだから、相手の持ち主に賠償請求など出来ない話であった。

「釣った魚にはえさをやらない」という文言がある。わたしはこの犬の、ほかの人に対する八方美人ぶり、おべんちゃらをみていると、いつもそれを思い出す。わたしたちは釣られたほうである。わたしたち飼い主に対してはあまり愛想もよく無く、普通の犬のように、飼い主を見ればよろこんで尻尾を振るとか、じゃれつくとかといった仕草はせず、飼い主だから、面倒を見るのは当然と思っている風で、まったく無愛想。ところが、いったん、外に出て近所の人に会うと極端なまでに媚を振るのだから、頭に来る。いったん、成長期に身についた習性は生涯付きまとうのであろう。犬といえども人間同様、個性をもち、生活環境の影響を受け、それを個人史として持ち続けるものだということがよく分かる、そんな犬である。

最近、悪夢をみることは減少し、夢の中で尻尾をふってよろこんだり、歯を見せて笑ったりということで、徐々にトラウマも消えていくのかなと、これからも一緒に楽しく暮らせることが期待できる。ともかく、自分をしっかりもった個性の強い犬である。


20 旅の思い出――ツアーバスガイドのこと    村田 茂太郎

アメリカでは一人旅をするのになれていた。どこにいってもチェーンの簡易モーテルがあり、予約も簡単、そしてクルマでの旅なので融通が利く。わたしはクルマでの一人旅にキャンプ用テントを積み込んで、適当なところがあれば、キャンプを、なければモーテルをというぐあいにして、年間約三万マイル、五万キロほどの旅を十年にわたって楽しんできた。テキサス州の街エルパソを去る三年ほど前からは同僚で気心のあった友人と一緒に旅をする楽しみを味わったが、基本的にわたしが実行してきたのは単独行であった。

最近、様々な理由で日本訪問の機会が多くなり、ただ親や友人に会うだけでなく、日本全体が温泉地帯の中にあるようなものだから、温泉旅行をしなければもったいないと思い始め、アメリカでの一人旅の要領で温泉一人旅を考えたが、どうも日本では感覚が違うようであるということが分かった。五十歳を過ぎた老人(?)の一人旅は日本では自殺する可能性があるとかで、基本的に旅館が毛嫌いするというようなことであった。気軽に手ごろな旅館に泊まって、一人旅を楽しむというようなムードではないのである。これは困ったということで、アメリカ旅行を楽しんでくれた友人が相棒として、旅行の手配をしてくれ、一緒に旅をすることができることになった。

そうして、アメリカ旅行と同じように、二人でメールのやり取りで企画して団体ツアーに入らない旅をたのしんできたが、冬の北海道を旅行しようと決めたとき、さすがに、これは団体ツアーにはいるほうが安くて便利で沢山見られるとわかり、ツアーに申し込むことになった。

この北海道旅行は二月下旬に三泊四日で実行され、最高に楽しむことが出来た。その理由の一つは北海道現地で四日間にわたってつきあうことになったツアーガイドのおかげである。わたしが一番感心したのはこのツアーガイドのガイドぶりであった。

この女性のガイド振りを見て、わたしは日本のツアーガイドもプロであると確認し感嘆した。プロといえば医者や弁護士、会計士あるいは将棋囲碁の有段者や音楽家などを普通思い浮かべるが、ガイドもプロが居るということがわかった。ロンドンではタクシーの運転手も国家試験のようなテストを受け、合格者だけ正式のタクシー運転手となれるようであるが、アメリカなどでは誰でもなっているようで、従って、レベルにも違いがある。ガイドについてはどうなのか知らないが、わたしの判断ではあきらかにこの北海道旅行のツアーガイドはプロの域に達していた。

この女性の知識量は膨大なもので、それは山の名前や高さだけでなく、その地域の歴史や文化、経済、現在の状況、自然現象から文化現象まであらゆる領域におよんでおり、そのときの天候、状況に応じて、冗談を言いながらとうとうと何も見ないで見事に語りとおした。実はわたしはプロではないが、アメリカの地元では格別に知識が豊富と人も思い、自分でも思って、日本からの来客の案内をつとめたりしていたが、それはとてもこの女性のプロぶりとは比較できないようなものであった。わたしもあらゆるものに興味を持っているが、とうてい休みなくとうとうと説明できる程度までは達していない。ガイドというのは、頭がよく、暗記力、記憶力も優秀で、ほとんどあらゆるものに本当に興味を持ち、それが、ただ商売道具としての知識程度でなく、本当に好きでなければ勤まるものでないとしみじみ思った。

この北海道の旅は、従って、ガイドに感心しづめであった。驚くほど豊富な情報をためこんで、それを適宜披露してくれるわけで、私達は北海道のあらゆる事を理解できたように思えた。そのツアーバスが通過する地点だけでなく、北海道経済状況の全般にわたっていたので、その知識はほんものといえた。ただガイド用に暗記したといったものではなかった。札幌からはじまって阿寒湖、摩周湖、オホーツク海流氷船、網走刑務所、大雪山層雲峡、と沢山見学できた旅で、すべてが順調に運んで、あとで私たちの幸運を喜んだほどであった。大雪の札幌、オホーツクの流氷など、すべて心に残る自然との出会いであったが、私の心に一番深く残ったのはこのバスツアーのガイドの女性の見事なガイド振りであった。

このあと、団体ツアーバスに乗って、名ガイド振りを味わうのが私の楽しみとなった。五月の信州旅行では北海道のガイドと同じレベルの人に出会えなかったが、ともかく、団体旅行も悪くないと感じ始めたのは、名ガイド振りを発揮した何人かの女性ガイドのおかげである

21 “生物の体内時計”TVInfinite Voyage                                                     村田茂太郎

1990年4月11日夜8時からのKCET TV “Infinite Voyage” は、すばらしいものであった。この日のテーマは”Biological Clock” というもので、素晴らしい情報が展開された。鳥やミツバチの研究から、動物は体内時計や太陽コンパスを持っていることは、もう、20年以上も前から知られていたが、1980年以降の発展はさらに驚くべき事実の解明に至った。それが、海中で発光するプランクトンやフルーツ(実)バエの研究から解明されたという事は、どのような研究対象であっても、素晴らしい成果があげられることを証明しているといえる。

その驚異的ともいえる発見とは、いわゆる体内時計が遺伝子の細胞の中に刻み込まれているという事であった。つまり、二重らせんの構造を持つ遺伝子のアミノ酸配置の中に、体内時計の秘密があったのである。これは、何を意味しているのか。

地球に生息する全ての生物は、約24時間を周期とする体内時計をもっているということであり、これはもちろん人間にも当てはまり、植物にもあてはまる。そして、この遺伝子の中に刻み込まれているということは、発生史的に言って、地球上に生命があらわれたときの生物環境とその在り方に原因があるということである。つまり、はじめて海中に原始生物(単細胞)が現れた頃、強烈な太陽光線をまともに受け止めていた原始生物は、太陽光線がある間隔をもって、周期的にあらわれるのを遺伝細胞に浸透するほど、激烈に体験し、遺伝子配合の中に刻み込んだということであり、その後の、全生物の進化論的発展は、みな、その遺伝上に位置しているということである。

それでは、太陽系宇宙の内部でも、自転周期が異なる他の惑星に人間が永住する場合、その惑星との生理的違和感が発生するはずだという事が予想される。地球上に生息する生物は、まさに構造的・発生的・進化的に太陽光線に依存しているわけである。

そして、人間の場合、老年になるに従って、時間周期がはやまり、人によっては夜中に目が覚め、お昼に眠くなるという症状を呈する事が起こる。これは、光線に何時間か照射される療法によって、みごとに治療されるらしい。また、人間の身体が、時間はもちろんの事、季節の変化にも大きく影響されることは、初めから予想される事であるが、その一例として、夏と冬との違いが決定的影響をもたらしたため、子供の頃から大人になっても、何をしても6ヶ月以上続けられず、正常な生活を続けられなかった或る人間が、この最近の体内時計の発見を利用した人口光線照射療法によって、正常な生活が可能となった例も示された。

人間の内部で、生理をつかさどる、この体内時計のリズムをうまく利用する事としないことが、たとえば、乳がん手術患者の死亡率に影響する事も、体験的にわかっているらしい。それは、女性のメンスの時期に乳がん手術を施した場合の死亡率は、そうでない時の場合に比べて、遥かに高いということである。

つまり、人間を含めて、この地上の全生物は、太陽光線の下で創造され、生み育てられてきたわけで、すべては太陽の全面的影響下にあるわけである。生物の生存にとって最も大切な酸素の存在、大気の存在は、いうまでもなく太陽光線を母体とした光合成の産物であり、ほとんどの全生物にとって決定的に重要な仕組みであるが、太陽の動きに起因すると思われるこの全生物に共通の遺伝子の体内時計の存在もまた、この地上に生存する生物が、この地球的環境と調和して生存するうえで、隠れたキーをにぎっていたことが、こうして、つい最近、解明されたわけである。遺伝子上の、この体内時計が何らかの影響で異常になったとき、どの生物も時間感覚異常をを引き起こす事は実験的にも確かめられた。
人間は、人類として生誕する以前から、太陽を基点とした時間感覚にしばられていたのである。つまり、人類は、本質的に、空間的であると同時に、時間に規制された、時間的存在なのである。
(完                 記 1990年4月12日) Word Input 2010年7月16日

22 “環境と生物”―ある感想(カエル エトセトラ) 村田茂太郎 1984年8月執筆

ロサンジェルス・オリンピックが始まったが、チャンネル7のオリンピック報道ぶりは全くひどいもので、既に、各種の公機関から正式にクレームが出ているときく。レーガン再選に向けて、アメリカのナショナリズムの高揚という意図が露骨にあらわれたものといえる。公的なニュースであるべきものを、ABCが独占しているというカネと政治の動きも気に入らない。どうしたことか、ボクシングの放映が多く、嫌気が差して、女房がチャンネル28にきりかえた。8月4日、土曜日の夜である。丁度、運よく、ナショナル・ジオグラフィーが始まるところであった。そして、私はこのナショナル・ジオグラフィーを、たまたま見ることができたということで、チャンネル7の愚かな放映ぶりに感謝したいくらいであった。

オーストラリアの動物が、その日のテーマであった。まず、女房が、“アーッ、エリマキトカゲだ、かわいいョッ”と叫んでくれた。最近、日本を騒がせているこの高名なトカゲを、私も見たことが無く、これは見なければなるまい、と国文法の研究書を放り出して、テレビにしがみついた。エリマキトカゲはすぐには出てこなかった。ところが、大変なものが出てきて、私はびっくりした。

解説では、1972年にオーストラリアではじめて発見され、世界中の動物学者たちを驚かせたという。私は、何の事を言っているのか、たかが一匹のカエルではないかと思っていた。要するに、カエル一匹の発見が、世界を驚嘆させたというのだが、なぜなのか。それは、スグにわかった。

ふつう、カエルは沼や池や小川の中で、粘液質の膜で保護した中に卵を産み付ける。中には天然記念物モリアオガエルのように、樹の葉の上に、やはり粘液質の泡のような膜をつくり、そのなかに卵を産み付ける。ところが、このカエルは口の中から、カエルに成長した子カエルを吐き出す。カエルの腹の中で、卵から孵化してカエルになり、ちゃんと一人前になって、母カエルの口から出てくる。

動物の出産については、卵性とか胎性とか卵胎性とかといった区別がある。そして、今までのカエルの分類は、もちろん、卵性に入っていた。しかし、たとえ、卵性でも母カエルのおなかの中で孵って、オタマジャクシの期間を経るのかどうかはともかく、一人前のカエルのかたちに成長したあとで、母カエルの口から出てくるとなれば、これは明らかに卵胎性である。世界の動物学者が驚いたのも無理は無い。私にとっても、チャンネル7のオリンピックよりも、はるかにすばらしく、驚嘆に値するニュースであった。

そして、私は、このカエルについて考えてみた。風土と生態との関係である。どうしたことか、オーストラリアには、カンガルーのような生物が多い。つまり、生まれたばかりの赤ちゃんを自分のお腹にある袋で守り育てるというケースである。

この同じ記録映画の中に、鳥のような口を持った、カワウソのような水棲動物がでてきたが、その動物(カモノハシ)も、やはり生まれた子供をお腹にある子袋で育て上げるのである。この驚異的なカエルといい、カンガルーといい、これは何を意味しているのか。ヒントは、オーストラリアの自然条件、つまり気候と関係がありそうだということだ。同じフィルムの中で、ある鳥は、炭坑夫のように、一生懸命に穴をほっていた。その穴に卵をうめるのである。解説によると、孵化するまで、華氏90度を保てる状況として、砂の穴に卵をうめるという方法をこの鳥は本能的に身につけているのだ。そして、情況が変わると、穴から掘り出して、また別のところに移すという作業をやる。動物が子供を産み育てるという作業は、どのような動物でも単純ではない。本当に涙ぐましい努力をする。

また、同じフィルムで別のカエルがでてきた。雨季と乾季のあるオーストラリアの厳しい環境の中で、このカエルが体得した生存法は、雨季に繁殖し、乾季に泥にもぐって、一種の冬眠状態に入る事であった。それぞれが、生存するための適応の方法を独自な形で見出しているのは面白い。そして、私は、口の中から子カエルを生み出すカエルも、カンガルーの子育て法も、みな、オーストラリアの厳しい自然環境が強制し、案出させた方法である事を確信した。ひ弱な乳児は、そのままでは、とても厳しい自然条件に耐え切れず、独り立ちできるだけの頑丈さを備えるまで、親が面倒をみなくてはならなかった。それが、この種の動物が生まれ育ってきた原因であろう。

それでは、どうして、オーストラリアと同じような環境の自然条件にありながら、カンガルーのような動物が他の大陸に生まれ育ってこなかったのだろう。これは、適者生存とか隔離とかがからむ進化論の領域に入る事になる。ともかく、面白い研究課題だ。

さて、そのあと、例のエリマキトカゲがでてきた。女房が言っていたように、とてもかわいいトカゲであった。威嚇するために、襟巻きを傘のようにひろげて、口を大きく開け、ガニマタで、まっすぐ襲い掛かるようにして進んでくる。愛嬌があり、たしかに人気も出るはずだと思った。そして、相手が恐がって逃げないと悟ると、今度は、自分がエリマキをたたんで、急いで、近くの樹に登って逃げていった。

いろいろの動物がいるものだ。この地球はなんと、楽しいところだろう。彼らの生態を観察していると、全く、いつまで見ても見飽きない。厳しい環境にもめげず、何とか工夫し、努力して生きている彼らの姿の荘厳さにくらべれば、チャンネル7の政治力の汚さには吐き気を催すほどである。
(記   1984年8月7日)

23 “カエル”後日談

“環境と生物”を書いたのは、約2年前、オリンピックの最中であった。そのあと、ひと月足らずして、京都大学の畏友 農学博士 佐藤英明氏に会った。佐藤氏は3年近くにわたるロックフェラーでの研究を終えて、帰国の途にあった。

私が書いたものを、いつも恥知らずにも、郵送して、読んでもらっていたこともあり、話しが、たまたま生物のことでもあったので、私は比較的新しいこの文章を彼に手渡した。彼は一読して、自分はこのカエルの話は聞いた事が無い、と言った。そして、“面白いですねえ”ということで、話しは終わった。

私は、それまで半信半疑ともいえる状態であったが、ともかく、自分の目で見たのだから、書いた事は事実だと思い、高校生の国語クラスでも一度読んで聞かせてやったほどであった。その時、オーストラリアにいたことのある生徒の一人は、彼が見た奇妙な動物について語った。しかし、考えてみれば、カエルが口から子を産むなどとは、とても信じられない話である。私はもしかして、見間違ったのではないかという不安に襲われ始めた。それ以来、私はもう一度、自分の目で確かめねばならないと心に決め、この文章のコピーを渡さない事にした。私は、京都大学に帰った佐藤博士が、同僚の研究者に、このカエルの話しを伝えている場面を想像し、もし、間違っていたら、とんでもない恥さらしだと情けなく思った。

私が、親カエルの口の中から、子カエルが出てくるのを見たのは確かなのだが、身間違いの可能性というのは、たとえば、それが出産でなくて、環境に危険が迫ったときに、親カエルが口をひらいて、子カエルを安全な隠れ場所に隠すという場面かもしれなかったと思ったのであった。魚の中には、そういうのがいることを私は知っていた。そのため、これは、どうしても、もう一度、見るしかないと思った。あとで、冷静に考えてみても、口から成長した子を生み出す生物など、下等動物は別として、カエルほどの高等さの仲間では、見たことも聞いた事もなく、いよいよ、私は自信をなくしていった。

私は、いつか、ナショナル・ジオグラフィーが再放映してくれるに違いないと思い、その日を待っていた。わたしは“自然もの”は大好きで、”Living Planet”, ”Wild America”, “Wild Animal”, “Survival”, “Nature of the things”, “Making of a Continent” といった、シリーズは、いつも、興奮しながら見、毎回、ほとんど、VHSのビデオにとるように心がけてきた。そして、2年余り立った昨日、11月25日、チャンネル5でナショナル・ジオグラフィーの2時間にわたる“自然”ものがあり、そのタイトルが“オーストラリアのアニマル・ミステリーズ”とかということを知ったとき、私は、これは、もしかして、あのオリンピックのときに見た、あのフィルムではないかと直観し、いつも、その日にはビデオをとっていた“アフリカン”の方は今回はあきらめて、この“オーストラリア”の方を、ビデオにとることにし、自分の目でも確かめたいと思って、私はテレビを見つめた。そして、鳥が砂の中に、卵をうめるのを見た時、まちがいなく、あのフィルムであることを確認し、私は大きな興奮に包まれた。

そして、私は、あの時の目の記憶は正しかった事を確認した。1972年の発見。生物学者たちを驚嘆させたという話し。私は、この目で、再度、画面を見つめながら、感嘆にとらわれていた。このカエルは、たしかに変態するのだが、オタマジャクシになるのは、カエルのお腹の中でであり、オタマジャクシが大きくなるにつれて、カエルのお腹も大きくなり、約2ダースのカエルがお腹の中で誕生した時点で、一匹ずつ、母カエルの口から飛び出してくるのである。

何という、自然の妙であろう。このカエルの存在は、ダーウィンにとってガラパゴス諸島の動植物がそうであったように、生物の環境と適応の問題に重要な光を投げかけてくれるに違いないと私は思った。そして、ガラパゴスよりも、より中世的な鎧に覆われたトカゲ達の姿や、その他の動物の姿を同じフィルムで眺めながら、私はオーストラリアの厳しい自然への適応が強いた結果に違いない、このカエルの適応の姿を心から賛嘆した。自然の不思議、生命の驚異を、まざまざと見せ付けるものであった。

そして、この地上のどこかで、発見されるまで、細々と、しかし、息長く生き続けてきたこの生物は、生命の貴さを象徴するものであった。環境と適応、遺伝と進化の問題の解明に対して、一つの大きな光を投げかけてくれるに違いないこのカエルの存在は、一見、つまらない存在に見えるどのような生命体も、それぞれが、かけがえのない尊い意義をもち、探求者の執拗な努力を待っているとわたしに感じさせた。早速、このビデオをダビングして、京都大学の友人に堂々と送れる事を私はうれしく思った。
(記                 1986年11月26日)

“カエル”最終談

口から成長したカエルを吐き出す、オーストラリアのカエルの話しは、いつまでも、私の印象に残り、一体、どういうことなのかという疑問がいつまでも消えなかった。私は、大体、こうした、学問的領域では執念深く、執着力の強い人間で、疑問は疑問のままで、十年でも二十年でも心のソコに残っていて、或る時、フト解決して、安心すると言うケースが多い。このオーストラリアのカエルもいったいどうなっているのかという疑問がいつまでも残った。

“Science News” 1990年3月3日 Vol.137、No.9 が届いて、何気なくページを繰っていると、“オーストラリアのカエル”という文章が目に入った。私はただちに、あのカエルに違いないと思い、短い文章に目をとおした。そこには、哀しい事実が記されていた。

それは、つい最近、この世にも珍しいカエルーーーおなかの中で卵を孵化させ、オタマジャクシになり、一人前のカエルになった時点で、口から一匹ずつ吐き出すというカエルが絶滅したらしいということであった。

川に棲む、このカエルのメスは、卵を産んだあと、飲み込むのであった。そして、胃の中で、消化もしないで、成長し、カエルになり、母親の口から出てくる。その特性のため、Gastric Brooder と呼ばれるこのカエルは、オーストラリアのアデライデ大学のドクター タイラーが発見し、紹介したもので、1970年代中ごろには、ブリスベーンのRain Forestで一晩に、100匹程、観察する事が出来たのに、1981年までには完全に消滅してしまった。このカエルは、遺伝学的・進化論的に見て、重要な存在であったに違いない。

ふつう、カエルは水の中の葉に、ひっつけるような形で、粘液に包まれた卵を生む。卵はサカナに食べられたりすることもあるが、おたまじゃくしになり、これもまた、生きながらえてカエルになる。カエルになるまでに、敵に襲われ、食べられる可能性はいつでもあるが、普通は、そのようにして、生み続け、生きつづけて来た。この、オーストラリアのカエルが産んだ卵を飲み込むという事は、卵のまま、水中にあると全部食べられてしまう可能性が大きいということであり、そうした、厳しい環境の中で子孫を保護繁栄させるために起きた肉体的構造的変化が、卵を飲み下して、しかも消化せず、安全な胃袋の中で、立派にカエルにならせるということであろう。どういう内部構造になっているのか、興味があるが、もう永遠にわからないのであろうか。

(記 1990年4月1日)                       Word Input 2010年7月17日

24 “あさひ”と私

この八月(1993年)で、私が“あさひ学園”の教師になって十四年が過ぎた。この間、私の人生は“あさひ”を中心に動いてきた。膨大な時間とエネルギーを週一度の“あさひ”に投入して、私はとても幸せであった。いつのまにか、“あさひ”は私の生き甲斐となっていた。そうして十四年たった今、私は“あさひ”のおかげで、いつ死んでもよいという境地に達している。

私は自分を“種蒔く人”と位置づけ、子供たちに、学問への関心・意欲・好奇心・探究心を育てることに心を砕いてきた。私の試みがいつも成功したわけではないが、私の情熱はホンモノであったこと、そしてそれに対して子供たちは正直に反応し、いくつものすばらしい出会いが生まれたことを私は今誇りを持って思い出すことが出来る。私はこの十四年を通じて、一度も悔いを感じたことはない。それどころか、うかつなことに、私は“あさひ”の中で、自分の才能を発見したと思うほどである。ヴィトゲンシュタインではないけれど、私は自分に哲学的才能があると信じてきたが、“あさひ”の中で、私は、実は“教育”こそ私の天職ではなかったかと自分を発見した気持ちである。

しかし、この私の喜びも、私一人の力で生み出されたものでないことを私はよく知っている。何よりも素晴らしい生徒達。“ヤカマシイ。ウルサイ。静かにしろ!”とよく文句を言う私だが、アメリカの子供たちに比べて“あさひ”の生徒のモラルの高さは誇りに出来ることである。そして、日本やアメリカの生徒の二倍の苦労に耐えて、日夜頑張っている子供たちを見ていると、日本の将来への期待が大きく膨らんでくる。そして、そういう子供達を叱咤激励され、共に困難に耐えて頑張っておられるお父さま、お母さま方、同僚の諸先生方。いわば、あさひ共同体の一員として、みんながそれぞれの立場で努力しているから、私たちは素晴らしい教育環境と充実した教育内容を築き上げ、維持していけるのである。

アメリカの教育環境がどんなに悪くなろうと、“あさひ”を無事に、そして立派にこなしていける子供たちには何の不安もない。そんな“あさひ”の一員として、こんなにも長い間、様々な教科の指導に携わることが出来た私は本当に幸運であった。

それが出来たのは、偏に、長嶋昭子先生のおかげである。先生は私にとって、“あさひ”でほとんど唯一の恩人といえる人である。私がはじめて“あさひ”の小学六年生の担任として、約十四年前にクラス指導を始めたとき、長嶋先生は、同じ六年生の主任として活躍しておられた。何もわからない私が必死になって頑張っていたとき、先生は何一つ文句を言われなかった。私は後になって、主任とか主事とかは、教師が真剣に取り組んでいる限り、ヤル気をなくすようなことは言ってもいけないし、してもいけないのだなという事を学び、私の、時には独断的ともいえるやり方に対して何も言わず、じっと見守っていてくださった長嶋先生から、教師指導のあり方を学び、心から感謝した。私にとっては、本当に、ラッキーな出会いとなった。
(記      1993年11月16日)

25 “教育環境・指導者・偶然性”                                                        村田茂太郎

1953年、シカゴ大学のアセリンスキーとクライトマンは、“夢と睡眠”に関する重要な発見を行った。眠っている赤ん坊を観察していて、まぶたの下で眼球が素早くくるくると動く事を発見したのである。大人も同様の現象が起きるかどうか確かめる手段として、脳波測定器を取り付けた結果、人間は眠っている間に、いくつかの異なる脳波を生み出し、必ずレム(REM)と呼ばれる眼球急速運動の状態がいくつかあらわれること、その時起こせば、ほとんど必ず“夢”をみていることなどがわかった。これは、夢と睡眠の研究に画期的な出来事であって、これ以降、夢の研究をかなり組織的・科学的に行えるようになったのである。脳波を観察し、REMの状態にあるとわかれば、起こせば確実に”夢“をつかまえられるようになった。

この情報を私が始めて知ったのは、今から約15年前、ドクター アン・ファラデイの“ドリーム・パワー Dream Power”を読んだときである。(1975年。)そして、私は、その時、ただちに、大学院生アセリンスキーが発見したという幼児の眼球の“回転”を理解した。そして、私は小学生の頃を思い返した。それは、小学4年生の頃であった。ある夏の日曜日、海水浴から帰って、心地よい昼寝に耽っていたときであった。フト、眠っている姉の顔を見たとき、私は、まぶたの下で目の玉がクルクルと回転しているのを発見したのであった。今から、逆算してみると、1953年頃の出来事であった。私は姉にその事をつげた。

なぜ、私はこのようなことを思い出したのか。大学院生アセリンスキーの発見は、ただちに睡眠研究の大家であった指導教授クライトマンの注目を引き、脳波測定器を使う大掛かりな研究となり、REMの発見、夢の捕獲となり、私のようなものでも二人の名前を暗記してしまうほどの歴史的な出来事となった。一方、私のほうは“夢 見ていたヮ”、“あー、ソウ、映画みているみたいやなァ”という調子で、自分流に納得するだけで終わった。もちろん、アセリンスキーの発見より1-2年遅れていたかも知れず、科学的に発表されても何の価値もなかったかもしれない。しかし、このような孤立した発見は、私だけに限らず、身の回りの出来事を注意深く観察している人には、よく起こる事である。今では、ほとんどの発見がなされてしまっているため、今更、日常世界の中で、独力で何かを発見しても、それらは既に発見され、解明されている事が多い。しかし、大切な事は、すべての対象に関心を持ち、鋭く観察を続け、考察をつづけることである。私の発見が歴史的な発見に至らなかったのは、適当な指導者がいなかったためであると思う。或は、もちろん、私が科学者の卵でもなくて、唯の凡人であったからで、教育環境のせいにするのは間違っているかもしれない。ノーベル賞を受けたリチャード・ファインマンであれば、きっと、徹底的に、誰も指導者がいなくても、自分ひとりで探求し続けたであろう。ファインマンのような自力型の天才は、もちろん、どのような悪環境にいても、なにかを成し遂げる事は間違いないことである。

しかし、私はやはり、良い師、良い友をもつ事は大切であると思う。“朱に交われば赤くなる”のは事実であり、良い師、良い友と交わっていれば、必ず、プラスする結果となる。教育においては、環境は大切であり、出来れば最良のものを求めるべきである。ファインマンのような自力型の天才が現れうるようになったのは、現代になって、資料が何でも手に入るようになり、才能が有って、ヤル気のある人は、ドシドシと自分で才能を伸ばしていけるようになったからで、19世紀までは、どのような史上の天才にも、必ず、天才の発見と天才教育が必要であった事については、私は既に数年前“英才教育論―序説”において述べておいた。

適切な指導者の必要は何も英才教育に限らない。これも7年ほど前“予知とテレパシー”という文章のあとがきの中で述べておいた事であるが、1974年ごろ、日本の東北地方の小学6年生が断崖から投身自殺を行ったという記事を羅府新報の中に見つけた。その子供にとっては、それは実は単なる自殺ではなくて、死をかけた実験であった。当時、その子の学校では、幽霊を写真に撮ろうとかといった、心霊現象の探求が盛んであり、学校側では、バカなことはやめろといった程度の対応しか出来ていなかった。その結果、その子は、“あの世”が存在する事を証明するために、何かをどこかに隠し、自分が死んでそれを何らかの方法で伝えるという実験を敢行したのであった。その子はクラスでトップの成績の子であった。探求心旺盛は結構だが、適切な指導者がいなかったために、方法をあやまった不幸な例である。

朝永振一郎、リチャード・ファインマンと一緒にノーベル賞を受賞したシュウヴィンがーは、もちろん、子供の頃から天才的であったけれども、ノーベル賞科学者の下で研究を続けていたのであった。有能な学者の傍らで研究を続ければ、それだけすばらしい研究対象に出会える可能性が多いわけである。ファインマンのすばらしい回想録を読めば、ホンモノであるとはどういうことか、一流であるとはどういうことかといったことが、はっきりとわかる。芸術でも学問でも、一流に学ぶ事が大切だと昔からいわれていたが、本当である。
友はもちろん自分で選べるものだが、師もまた過去においては自分で選ぶものであった。ソクラテスやプラトンや孔子を慕った弟子達だけでなく、江戸時代には、良い師を求めて千里の道も遠しとしなかった。ヨーロッパにおいても同じである。近代言語学を確立した天才フンボルトは、敬愛する詩人・大学教授フードリッヒ・シラーの薫陶を受けるために、新婚の妻とシラー家の近くに住み、家族ぐるみの交わりを持って、全人格的な人間教育を受けたのであった。フンボルトはその後、ゲーテとも親しく交わり、ゲーテ最後の往復書簡がフンボルトとの間でかわされたことは、丁度、日本人にとって芭蕉の絶句“旅に病んで 夢は彼のをかけめぐる”を誰も知らぬ人がないのと同様、ドイツ人にとっては常識的なこととなっているという。

そのようにして、過去においては、指導者の選択は、本人の意思と意欲によった。これと思う指導者の教えを受けるためには、本当に命を賭けて行動した事は、江戸時代の人物伝を少し調べるだけでも明らかである。本人は意欲をもって望み、指導者も、また、その意欲に充分応えた。

現代において、多少とも選択の自由が残されているのは、大学の選択においてであるが、これも、どちらかといえば、教授を択ぶというよりも、名門大学をとか、ともかく入れる大学を択ぶという形におわっている。昔はそうでもなかったようだ。哲学者西田幾多郎のいる京都大学へとかということが行われていた。私は工学部を退学して、フランス文学かギリシャ文学をえらぼうと考えた。従って、京大文学部が私の希望する大学となった。京大にいる間に、私のほうがかわり、私は、日本で、自分が最も尊敬する学者を他の大学に見つけた。しかも、その学者は既に退官して名誉教授となっていた。日本における経済哲学の創始者、立命館大学名誉教授 梯明秀(かけはし あきひで)である。私は、自分が10年か20年早く生まれていたら、躊躇無く京大ではなく、梯明秀のいる立命館を択んだであろうと思った。遅く生まれすぎた私は、仕方なく、梯氏が時々講義をしているという立命館大学衣笠校舎を一度訪問し、立命の学生の一人の如く、彼の講義を聴講したりした。しかし、こういうことができるのは大学だからであって、小・中・高においては、自由意志による選択が効かず、指導者との出会いは、全く偶然性にまかされている。これは、教師のほうにとってもそうであり、生徒を択ぶことは出来ない。お互いに幸運な出会いとなる事を願うしかない。
大学となると、個性的な優れた教授をえらぶ自由が存在するが、高校などにおいては、そうはいかず、いい教師にめぐり会うかどうかは、まさに偶然性による。特に、現代のように高等部が受験校化して、個性的な教育よりは、大学入学者数で高等部の価値がはかられる時代にあっては、自分にあった教師を見つける事は非常に困難であるといえる。それほど受験校化していない学校においては、個人の素質、才能を伸ばす、余裕を持った教師もいるに違いないが、タイトなスケジュールをこなす事を強いられている教師にとって、個性的教育は、望んでも実現不可能に近いことかもしれない。そういう意味では、受験をあまり意識していない学校には、素晴らしい出会いが待っているかもしれない。

私は幸いにして、高校の3年間を田中住男というすぐれた教師に教わる事ができた。1年出会えるだけでも幸運であるはずなのに、私は、担任に2年間もなってもらう事ができ、国語は3年間をとおして教わった。国語に自信をもてるようになり、大好きになったのも田中先生のおかげである。私は此の出会いを本当に心から感謝している。

さて、自分があさひ学園で生徒指導を行うようになって、教職のすばらしさ、楽しさを充分に味わう事ができた。小・中・高と点々と回される中で、私は幾多の素晴らしい子供達と会うことが出来たそして、私は子供達との偶然の出会いを意味ある者にしようと、いつも全力を傾けた。そういう中で、私は他にも優れた教師が沢山いる事を知り、子供達も出来るだけ様々な教師に出会うほうが望ましいと考えるようになり、私もまた、沢山の子供達に接して、学問というものに対する私のアプローチを知ってもらいたいと思うようになった。
私と生徒との出会いは全く偶然のものであり、私の意志でどうにかなるときというのは、やめる決意をするときくらいである。従って、私はできるだけ、この出会いをお互いにとって意味あるものにしたいと考えているが、必ずしも私の考えが父母に理解されるわけではなく、もし、うまくいかなければ、不幸な出会いとあきらめてもらうほか無い。幸いにして、ほとんどは問題の無いケースか、喜んでもらえるケースであったが、一度だけ、私の方法が誤解されて非難の手紙をもらったため、私は事情を説明して、その上で、不幸な出会いと思い、あきらめて、我慢してくれるよう返事を書いたことがある。

教師と生徒との出会いは、全く偶然性にまかされており、そのほんのちょっとした出会いが運命を変えることになるという意味で、教職という仕事は責任重大であり、また、それだけに、やり甲斐のある、すばらしい仕事である。私は教育環境の重要さや指導者の大切さをよくわきまえているだけに、この偶然性に左右されているといえる出会いを意味あるものとするために、いつも、瞬間といえども真剣にコミットしてきたし、これからも努力して行きたい。
(完                 記 1990年1月31日) Word Input 2010年7月13日


26 日本の自然管理について       村田 茂太郎

わたしはアメリカに住んでいる。テキサス・エルパソに約十二年、カリフォルニア・ロスアンジェレスに約二十五年。アメリカの自然を見慣れた眼で日本の自然をながめると、その違いは歴然として感じられる。

最近、何度か日本を訪問し、そのたびに友人に手伝ってもらって、行きたいと思って一度も行ったことがない場所や何度も訪れている場所を訪れることが出来た。まだまだ、私にとって未知の、魅力をそそる場所がいっぱいあって、日本訪問がいつも楽しみである。
両国の自然の最大の違いは、スケールのちがいというよりも、雨の多い日本国土のもつ森林と渓流の美しさが私にとっては一番印象的であった。どちらかというとアメリカのスケールに比べれば日本は箱庭的な自然といえる。なにしろ、カリフォルニアが同じような大きさで少し大きく、テキサスとなると日本の一.五倍以上の面積なのである。しかし、日本は自然、歴史、文化にめぐまれた、この地球上でも有数の魅力的な国である。江戸時代から昭和にいたる海外からの訪問者によれば、そうしたもののほかに日本人の人間的豊かさ、暖かさがなによりも魅力であったことが分かる。

人間にとって、なんと言っても大事なものは水と緑の木々と大地である。日本の幾多の清流や湖そして海の美しさは誰もが感嘆するものであった。そして森林の美しさ。森林が雨をもたらし、雨が清流、渓谷をうんできた。アメリカの川のほとんどが濁流のようなものであるのを見慣れていると、日本の各地にある渓谷の水の清らかさに心をうたれる。

わたしは大阪育ちで池田の箕面(みのお)渓谷は子供の頃から何度も親しんだ自然であった。コンラート・ローレンツによると、刷り込み(imprinting)はなにも鳥類にだけ起きる現象ではない。人間も幼少期に親しんだ自然を心に刷り込んで、おとなになってもそれを忘れることはない。

箕面渓谷は駅から滝まで二キロメートルという距離的には比較的短いにもかかわらず、そして山は高くはないのに、深山幽谷の趣を呈して、自然の美しさとはこういうものだと、最初に親しんだ光景であった。最近の日本各地訪問で、この種の魅力的な自然はなにも箕面だけに限らない、日本国中にちらばって美しい森林と渓谷が存在しているのを確認し、わたしは日本という国はほんとうに恵まれた国だと感心し、うれしくなってきた。こういうすばらしい国は日本人だけ楽しむというのでなく、日本全体が世界文化遺産・世界自然遺産に属するものであると思う。ともかく、大都会ではなく、地方を訪れた私の感想はそういうものであった。田舎は文明化したとはいえ、昔からのよさをのこしているのがわかり、都会を見て絶望していたわたしに、まだまだ日本は捨てたものでないという印象をかきたててくれた。

日本の地方にすばらしい自然と文化が残されているのと対照的に、大都会はなんとあわれな様子を示していることか。たとえば大阪をみたばあい、大阪市周辺では緑のある場所は大阪城周辺や天王寺公園その他限られている。大阪府でも緑が残されているのは、都会では、お寺・神社・古墳・それに類したところと限られている。大阪の高いビルのうえから眺めると緑がほとんど見当たらない。緑を必要とする人間は鉢植えの植物で身の回りをかざるほかない。

この都会における樹木の緑の無さこそ、私に一番日本の都会に対して危機意識を抱かせるものである。そして、手遅れにならないうちにもっと自然を増やすようにしないといけないという気持ちが強く湧き上がる。地方都市は大都会をみならわないで、独自の文化と自然を大切にし、後世の人間が同じような美しい自然と文化と歴史を楽しめるように努力と工夫を重ねなければならない。

最近、京都大学のカール・ベッカー博士の講演を聞く機会があった。博士は日本の宗教や先祖崇拝などを見直して、東洋思想の持つ独自のよさを世界に広く知らせる努力をしておられる。その博士が沢山の日本人にあって老後の希望をしらべたところ、自然に近いところに住み、自然とともに生きたいということであった。その希望を満たすような身近な自然を都会で求めるとなると、お寺・神社しか残っていないというのが現実で、今、お寺を共同生活の原点として再生させる動きが広まっているとベッカー博士はいわれたが、それはわたしの印象――都会の自然は寺・神社・古墳のあるあたりだけ――を確認してくれた。日本の自然は大切に保存しなければならない


27  “私の日記から”(抜粋)                                                                村田茂太郎

1982年11月21日 ブロードウエー・デパートで女房が、見て廻っている間、私は“見せられたる魂(1)”(ロマン・ロラン)を読んでいた。小さな女の子が声をかけた。自分の弟の手を握ってやれといっており、私の名前は何だときいたので、シゲとこたえ、彼女の名前をきいたところ、自分はデビー、弟はダニエルだという。弟は手押し車に乗っていて、割と大きいが、まだ1歳に満たない様子。彼女のほうは4つ位に違いないと思い、きいたところ、4歳だとのこと。そのうちに、彼女は、あんたは日本人に見えるけれども“You speak our language.”と、いって不思議に思っている様子。きっと、あまり英語をしゃべらない日本人が、彼女の家の近くにいるに違いない。彼女は、スッキリした顔をした、かわいい子で、とても Friendlyである、別れしなには、早口で、彼女の電話番号を言って、電話してくれ、遊びに来てくれと言った。しばらく行ってから、バイバイをやっていたが、また戻ってきて、サイン Language のつもりか、これが ハローのサインだと示してから、今度は本当に立ち去った。ハキハキしていて、かわいい子であった。子供が家の中にいると、全く家の中の様子も、自分の生き方も違ってくるだろう。余裕があればAdoptしたい位だが。この子は、どういう風に育てられてきたのだろう。はじめて会う人に、とても親しく話しかけるというのは、ある意味では、特に Child Molester(児童・性犯罪者)の多いこの国では危険であるが、家であまりかまってもらえないから(特にこの場合、弟が生まれているわけだし)なのだろうか。母親は私と娘を見てニコッとしていたが。
1982年11月25日 サンタ・バーバラ

スタンドで7UPなど飲んで、クルマに帰ってきたとき、一人の若い妊婦が私に寄ってきて、お金をくれないか、お腹がすいているのだと言ってきたので、私は少しとまどい、彼女を見つめて、“Don’t you have anyone to help you?” と訊ねたところ、自分はヒッチしてここまで来て、誰もいないのだと言った。私はその要求があまりにも直截的なものであったので、彼女は本当にお金を持っていず、お腹をすかしているのだと判断し、2ドルだけ財布からとりだして与えた。それだけでは、どうなるものでもないが、少なくとも2ドルあれば、何かを食べる事はできる。彼女は感謝し、私は”Good Luck!”と言って別れた。パーク場を出るとき、私達が飲んだスタンドの方に向かって道路を横切ろうとしているのが見えた。なんだか、わびしい状況であった。どうしたことだろう。理由も何もわからず、飢えて妊娠した女が一人、ヒッチしながらどこかへ行こうとしていたわけだ。今、アメリカは失業も多く、(10%以上)、どのようなことでも起こりうるようだ。女が一人で妊娠していること自体ふつうの出来事であり、とりあげて言う事はないが、金も持たず、仕事も無く、頼れる人も居ず、妊娠しているということは、あわれである。金だけやって解決する問題ではなく、私はまさに瞬間の飢えを防いだにすぎない。 (記 1982年)

28 日記・書簡について                                                                村田茂太郎

前に掲げたのは、去年〔1982年〕の11月の私の日記の一部である。づロードウエーで出会った女の子の事を書いた文章を見ていて、それ以来すっかり忘れていた、あのときの記憶が鮮やかに蘇ってきた。サンタ・バーバラで出会った妊婦に関しては、その後も私はいろいろと考え、悩み、反省した。それは、ともかく、私はこの日記によって、自分の過去の一部をあざやかによみがえらせる方法を手に入れているわけだ。日記をつけるメリットについては、いろいろの人が書いている。私は、前にも書いたように、大学時代には、時には3時間ほどかけて、大学ノートに5-6枚書き続けたこともある。いろいろ考えた事を書いていくと、いつのまにかそれだけのボリュームになってしまったのだ。最近では、毎日書く日もあれば、一ヶ月くらい書かない日もある。本当は書きたいし、書いておかないといけない様々の出来事が起きているのだが、毎日疲れて、落ち着いて書く余裕の無いことが多い。しかし、やはり、一日に一回、ゆっくりとその日の出来事を想い起こし、記録をとるだけの余裕はもちたいものだ。

私は、今、様々な人の書き記した日記や書簡に興味を持ち、日本語でも英語でも、見つけ次第、買い集めている。最近、私は25ドルだして、英訳の“トーマス・マンの日記(1918-1939)”というものを買った。トーマス・マンは、今世紀で、私が尊敬し愛読している最大の作家である。以前、やはり、英訳でマンの書簡集が出たとき、私は20ドル程を思いきって買えなくて、そのままになってしまい、今では、どこに行っても見つからない。今回は本屋で見つけるなり、とびつくようにして買い求めた。そして、やはり、買って良かったと思った。小説や評論を読んだだけでは味わえないトーマス・マンという人間の意外な繊細さや精神の緊張を、日記の行間に発見する事ができた。たとえば、ある朝〔1918年10月4日〕、朝食のテーブルの上に、兄ハインリッヒの筆跡の手紙を見つけ、マンは思わず緊張で胸が高鳴り、不安が横切った。しかし、それは誰かへの支払いのためのサインを要求したものにすぎなかった、という記録があるのを見て、私はこの偉大なトーマス・マン(ノーベル文学賞受賞)が、兄をものすごく意識していたという事を知って、思わず、大発見をしたような微笑をうかべてしまう。“魔の山”を読むと、余裕たっぷりで、とてもそんな一面を見出せないからである。

以上は一例に過ぎないが、日記や書簡は、それ自体、優れた文学でありうるわけで、日本でもヨーロッパでも、昔から、一つの文学の領域として尊敬されてきたし、傑作も書かれ、発表されてきた。日本でも、優れた日記文学の伝統があり、西洋でも同様である。手紙の場合、よほど信頼して心が許せる相手でないと、思った事を率直に書けないし、どうしても返事をくれる相手が必要である。その点、日記は自分との対話であり、率直に、自由に、感情を吐露できる場である。従って、いい加減に書き流すのではなく、その日その時の自分のすべてを投げ込んだような日記を書き続けたい。そうなれば、それが、私自身の生み出した最高のものとなるだろう。  〔記                 1983年〕

29 “運命”(現代における無常感の胚胎)                                                     村田茂太郎

8月3日のあさひ学園パサデナ校一学期終業式での派遣教員の訓示を生徒諸君と一緒に拝聴していた私は、教官が“みなさん、死なないように注意しましょう。”といった主旨のことを何度か述べられたのを聞いて、唖然とし、なんだか、現代という一見平和な世界の背後に控える無常の現実をハッキリ提示されたように思い、強い印象があとあとまで残った。
現代といえども、昔とかわらず、外国の各地において激しい戦争が繰り返され、泥沼化したところもあり、今、この瞬間にも、アチコチで死んだり、殺されたりしているということを、私達はニュースを通してよく知っている。中米、南米、中近東、南アジア、アフリカと、世界中、ほとんどいたるところで政治的動乱が生まれ、数え切れぬ人々が死んでいっている。しかし、日本やアメリカ自体は、この戦後、比較的に平穏であったし、特に、日本は経済的繁栄も手伝って、世界で最も安全な国の一つとして存在し、国民はそれなりの平和と安全を享受してきた。私自身の成長を振り返ってみても、新聞で時たま殺人事件に出くわす事があっても、余程の事がない限り、クラスメートや知人が死ぬというようなこともなく、死を意識する事もなかった。したがって、政治的に不安定の国々の不幸を心から悼むことがあっても、自分の身は、いつも安全と言う安堵感がその背後に横たわっていた。
最近になって、交通網が一層発達し、情報網も豊かになって、日本や世界がわが郷土のように狭く、自由に往来できるようになると、今までの安全感とは違ったものが、私達の意識の底に生まれ始めた。それは、安全であるはずの飛行機の事故が連鎖反応的に頻繁に起こったことによっても、わかるような、遇死のチャンスが増えた事である。

日常の行動や休暇旅行と関係なく、全く思いがけないところで死と出会う可能性がものすごく増大した。昔は、夏休みに海水浴で溺死する事件が時折発生した。しかし、最近のように、津波で一挙に、何十人もの命がなくなるとか、飛行機事故で沢山の人が亡くなるということと、全く異質の出来事であった。

大韓航空機の撃墜事故やこのたびの日本航空の大惨事は、私達が、偶発的な死に出会うチャンスが大きく増大した事、今まで他人事であった事故が、もしかして、自分にもあてはまるかもしれないという可能性が増した事、死は単に、戦場や殺人現場だけでなく、どこにでもころがっている可能性があること、つまり、平和も安定も増加したけれども、個人の生命への安堵感は逆に減り、中世とは違った形の無常感が生まれる世の中になったことを示していた。

このたびの、JALの事故で亡くなった人の一割は中学生3年未満の子供達であった。そうして、このように、国際的になっている現代においては、私達の知人も一町一村に限られていないので、一見、無関係な場所に知人の名前を見つける可能性も多いのである。今回の五百人を超す乗客というニュースを聞き、東京―大阪という事もあって、私は父母や姉、友人・知人・あさひ学園の教え子達の名前がその中にないかと、とても気になった。今では、日本の子供達も死というものを、未知なものとは感じていないに違いない。平均寿命が80歳近くにまで達したとはいえ、子供達は事故死や他殺・自殺の情報には、よく接し、いわば、厳粛な事実としての人間の運命を感得することが多くなった。

このような大きな事故で沢山の人が死ぬと、フト、人間の運命というものについて考え込んでしまう。新聞記事の中には、ある人は、今回の飛行機に乗る前に、親戚や近所周りをすませており、まるで、死ぬ予感を持っていたかのようだ、という話しが載っていた。人が自分の死を予感し、ふだんしないことをきれいにしてから、事故でなくなったというような話はよく聞く。逆にヘンな予感を信じて、災難を避けることが出来たという話もよくきく。何年か前、小学6年生向けに、“予知とテレパシー”という文章を書き、その中で、イギリスの研究家がシカゴの列車事故と乗客の関係を調べたと言う話しを書いておいた。7年ほど前、シカゴで飛行機が墜落し、沢山の人が死んだが、そのあと、また、今度はサン・ディエゴで墜落するという出来事があった。その時、シカゴで乗るはずの人が、何かで乗れなくなり、かわりのチケットをもらったひとが死ぬ事になったが、その同じ人が、サン・ディエゴのときにも、乗るはずの飛行機に乗れなくなり、あやうく命拾いをしたという話を聞いた。二回もスレスレで助かったとはいえ、本人にとっては恐ろしい話しである。何らかの予感があって、載らなかったのか、運命がまだ、その人の約束のときでないとワザと乗らせなかったのか。

ここで、思い出すのは、“サマリアでの約束”という話しである。あるとき、使いに出たバグダッドの召使が、真っ青になって帰ってきて、馬を貸してくれ、と主人に頼んだ。どうしたのかと聞くと、召使は、今、市場で“死神”と出会った。今から、サマリアに逃げれば間に合うだろうとのことで、主人は馬を与え、召使は去っていった。その後、主人は市場に出かけて、“死”が立っているのを見つけ、お前は、ワシの召使をおどかしたそうではないか、と話しかけたところ、“死”は、イヤ、驚いたのは自分の方だ、召使とはサマリアで今晩会うことになっているのだ、バグダッドではなくて、と答えた。

これが、有名な“約束”である。ジョークともとれるが、逃れられぬ運命をユーモアに描いた意味深長な寓話だととる方が正しい解釈であろう。古代人達も運命について真剣に考えたに違いなく、そうした省察の成果が、このような寓話的表現を生み出して来たに違いない。

人は絶対的に死を避ける事ができない。しかし、意識的におくらせることはできるのであろうか。或は、自己の予感に忠実に従って、災難を避けえた人も、結局、その場は助かるような運命として決定せられていたということであろうか。インドにおいては、こうした、一見、不公正に見える現実の出来事を、合理的に説明するために、前世の因縁という考え方が生み出された。貧しく死ぬのも、若く死ぬのも、豪華で幸福な一生を送るのも、みな、前世の因縁という考えによってスムースに説得できるので、複雑なカースト制度に生きるインドで生まれるべくして生まれた発想だといえる。

1927年に謎解きのような構成をもった小説がピュ-リッツア賞を受けて、ベスト・セラーになった。ソーントン・ワイルダーの“サン・ルイス・レイの橋”である。この小説は、1714年にペルーの渓谷にかかるつり橋が落ちて、丁度、その上にいた五人の男女が死んだ。その光景を目撃していた僧侶が、彼らの死は、偶然であったのか、神の審判が働いていたのかを調べようと決心するストーリーであり、もちろん、架空の出来事である。クリスチャンであって書ける小説であり、僧侶は神の摂理が働いていたと結論し、自分も異端とみなされて火あぶりの刑になる。死んだ五人が、すべて悪人であったわけではなく、良い人間も悪い人間もいた。それぞれに神の恩寵が働いた結果であるというわけで、言ってみれば、どうしようもない運命にあやつられたということになる。説明など何とでもつくのである。運命があり、私達はただその運命に従って生き、運命に従って死ぬはかない存在なのか、それとも、短く生きるのも、長生きするのも、私たち自身の選択であり、注意の結果であり、意思決定であるのだろうか。

運命とは、気にしてもどうなるものでもない。人の運命は生まれたときに決まっているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。ただ、与えられた生命を自分なりに満足に行くように生きるしか私達の道はない。運命はあるかもしれない。ないかもしれない。ただ、説明だけはどうにでもつけられるということだけは確かである。

私達は今、中世とはまた少し違った形の“無常”の世界に生きている。その世界は、昔の人々の生きた世界に比べて、はるかに豊かで安定し、民衆の全てが幸福になりうる恵まれた世界であるはずなのに、一方では昔の人が知らなかったような文明の利器や兵器で、一瞬のうちに多くの生命が失われる可能性がいつもどこかに存在しているというアンバランスな不確かな世界である。その中で、私達は、厳しい現実をよく認識しながら、希望を失わずに、精一杯の努力をして生きるしかない。“自己実現”が同時に世界平和の実現であるような道をめざして。 そして、その目標を目指して、できるだけ“死なないように”注意しなければならない。もし、それが、避けられるようなものであれば。
JAL123犠牲者の冥福を心から祈る。)

(完                     記  1985年9月4日)  Word Input 2010年7月21日

 
30 “雀”スズメ                                                                                                        村田茂太郎

アメリカは、まだ歴史が浅いせいか、或は、広大な自然を完全に支配するに至らなかったせいか、野生動物が豊富であり、身近なところにいろいろな動物が居て、私たちの心を和ませてくれる。日本だと、野鳥を観察する会にでも入って、郊外に出かけねば、いろいろな鳥に出会えなくなっているが、このロサンジェルスのような都会でも、ハリウッド山やサンタモニカ連峰、或は、アンジェレス・フォレストなどの山々が、比較的近いからなのか、様々な鳥が家の周りをうろついていて、自然との交わりの楽しさを教えてくれる。

時には、ものすごく攻撃的な鳥が居て、ヒッチコックの名画“Birds”(鳥)の現実版のように、うちの猫サーシャが外に出ると、遠くからその行動をマークして、ちょっとでも動き始めると、激しく攻撃してきたりした。(モッキングバード)。サーシャの方が恐くなって、クルマの下に逃げても、そのクルマのしたにまで激しく攻撃してくるのには驚いた。その頃、同様なケースはアチコチで起こり、人間までアタックされて、テレビでニュースになったりした。これは例外的なケースで、ふつうは、私たちから離れたところで、いい声を聞かせてくれたり、美しい姿を見せて、喜ばせてくれたりする。

しかし、なんといっても、一番庶民的なのは雀である。女房がご飯のあまりなどを裏庭の芝生にまきはじめてから、雀は私たちに一層身近なものとなった。最近では、雀にご飯を沢山やれるようにと多い目に炊くだけでなく、もし、ご飯やパンがなければ、お米をそのまま投げてやれば、喜んで食べるという事がわかったので、何もない時は朝夕、米を一合ずつ芝生にまいてやる。今では、雀も、私が安全で信頼できるとわかったのか、私が裏庭に出ると、一羽また一羽と、庭の真ん中にあるオレンジの木に集まってくる。彼らの中にはちゃんと見張りがおり、合図するものもいるのか、遠くの木からもすべりこむようにして、オレンジの木に集まってくる。そして、私がご飯やお米を撒くのを待っている。じっと観察すると、今では、朝夕、規則的に食事がもらえるので、みんな丸々とよく太っている。衣食足って礼節を知るというのか、みんな態度もよく、特にせっかちに騒ぎ立てる事もなく、オレンジの木の下枝にまできて静かに待っている。そして、私がサッと撒いて、スグに姿を隠そうとすると、まだ私の姿が見えていても、平気で降りて来て食べ始める。時には、スプリンクラーで水浴びをしたりして、やはり、雀はかわいいと感じさせる。去年は、巻き上げてある簾の上に巣を作り、卵を生み、それが孵ってかわいい子雀になるのを見ることが出来た。まだ飛べない状態の時に地上におちると、ほとんど確実に死んでしまい、そのようにして死んだ雀も何羽か見つけた。一度はスプリンクラーに脚をはさんでもがいているのを見つけ、私はいそいで栓をひねってやった。脚が折れてはいなかったのか、スグに飛び去ったのでホッとした。

ともかく、最近では、雀達は私がごはんや米をまくのを首を長くして待っており、わたしの姿を見かけると、遠くからでもやってくるので、いつのまにか私も、何も持たないで庭に出るのを遠慮するようになった。いずれにしても、今では、雀達は放し飼いをされているようなものである。私は期待されており、それだから一層かわいく思い、期待を裏切ってはいけないと出来るだけ沢山食べ物をやるようにしている。家の中に入って見ていると、約30羽の雀が上がったり下りたりして、一生懸命食べている。やはり、考えてみれば、雀達にとっても、食べ物を見つけることは容易ではないはずである。餌になる昆虫がいつもいるわけではない。こんなに身近で、庶民的で、明るく騒ぎ立てる雀は、本当に私たちにとって安全と平和の象徴のようなものである。何でも食べ、どこにでもおり、どこでもにぎやかにさえずっている雀は、まさに生命力の逞しさの象徴といえる。

昔、中国大陸で、雀は、米を食べる害鳥だから、全滅させようということで、あるとき、全民衆が、銅鑼や鍋をたたいて、雀をとまらせなかったため、一網打尽となり、焼き鳥となってしまったという。しかし、雀は米は食べるが害虫も食べていたわけで、その後、天敵が居なくなったため、害虫が繁殖して、結局、雀がいたときより悪い結果になってしまったという話を、本当か嘘かしらないが、父から聞いたことがある。中国でなら起こりそうな話である。


私にとっては、朝早くから、にぎやかに騒ぎ立てる雀は、まさしく、“雀の学校”のイメージにふさわしく、生命力とその尊さを象徴しており、もし、雀がいなくなれば、世界は死んだようになるに違いないと思う。いつまでも、元気にさえずっていて欲しいものである。
(完              記 1987年6月1日) Word Input 2010年8月12日

31 アメリカの自然 をめぐって                                                                            村田茂太郎

私が初めてアメリカのNational Park に接したのは Yosemite であった。1971年。
丁度、雪解け水が豊かに流れ出すころ、5月中ごろで、最高にみずみずしく、新鮮なときであった。こんなにすばらしいところがあるのかと、そこでテントをはってCampしているひとをみながら思ったものであった。

アメリカのNational Park System はよくできていて、私は好きである。
Visitor Center と Ranger System、まわりの自然環境を破壊しないような建物設計。ごみひとつないといえるほど、こぎれいな公園の維持。豊富なWild Life.。どれひとつをとっても、私を満足させるものであった。

5月のヨセミテは滝も水量豊かに流れ、樹木は新緑もあざやかに、光の中に輝くようで、渓流や岸壁とよく調和してまさに自然に深く親しんだ日本人好みの絶景だと思ったものであった。

それ以来、私は機会があれば、というか機会を作ってアメリカの自然を探訪するようにつとめてきた。

全米というわけではないが、私が訪れたアメリカのNational Park は28を超え、National Monument もおなじほどである。ほかに、National Wildlife Refugee とか、National Preserve とか、ともかく自然と関係があるところはつとめて見るようにしてきた。

California にすんでいたときもあちこち旅行はしたが、エルパソ Texas に住んだ約12年の間に毎年3万マイル以上(5万キロ)のScenic Driving を10年間続け、走行距離は35万マイル(50万キロ以上)を超えた。

Southwest に関しては旅行案内書を書こうと思うほどアメリカ南西部の旅を楽しみ、親しんだ。

アメリカへ日本から自然を見に来るということになると、それ相当な満足感を持てるところを訪れるのが望ましい。

どれだけの時間を利用できるかによって、お勧めのコースの設定も異なる。

たとえば、10日から2週間、California の LA を起点とした旅として、私のお勧めは

LA-Santa Barbara - San Luis Obispo – Morro Rock – Big Sur – Monterey - Santa Cruz – SF – Petaluma - Point Reyes national Seashore - Sonoma, Napa - Old Sacramento - Lake Tahoe – Mono Lake – Yosemite NP – Devil’s Postpile NM – June Lake Loop – Mammoth Lakes – Bishop – Big Pine – Lone Pine – Lancaster – LA

というコース。これは Big Sur の海岸から 3000メートルのYosemite Tioga Pass Entrance まで、アメリカの大自然を満喫できる雄大なループである。海、山、川、湖、滝、渓流、岸壁、草原、森林、大高原 とすべてを味わえる最高のルートだと思う。
Big Sur - Julia Pfeiffer Burns State Park 有名な海に注ぐ滝が見える。
Monterey – Aquarium 数ある水族館の中でもベストに属すると思う。
PetalumaPoint Reyes National Seashore
Napa, Sonoma , Santa Rosa – Wine Country, Luther Burbank Museum

今回は LASF, Las Vegas だけの中からということで、私の旅行記はあまり参考にならないかもしれない。
それぞれの周辺を含んだかたちで、思い出すまま列挙してみよう。

San Francisco を起点とした旅
               Big Basin Redwood Sate Park 訪問 (Santa Cruz
               Monterey Aquarium (世界的に有名な水族館)
               Petaluma, Point Reyes National Seashore 探訪
               Napa, Sonoma, Santa Rosa, Russian River ワイン Country探訪

Las Vegas の場合
               Valley Of Fire State Park (ネバダ 最初の州立公園)
               Red Rock Canyon National Preserve     
               Las Vegas         への Visitor が Casino と Show しか訪れないのはもったいない話である。Valley Of Fire はVegas からクルマで約一時間半、Red Rock のほうは、すぐ近くで20分足らずのはず。
見るだけではもったいなく、ショート ハイク がのぞましい。

Los Angeles 周辺
               Art Museumめぐり   
                              Getty Museum, Norton Simon Museum, LA County Museum 
                              Huntington Library ETC
               Marina Del Rey, Redondo Beach, Santa Monica Pier, Venice Beach etc
               Ojai, Santa Barbara – Mission, Pier etc
               など。

場所を限定しなければ、たとえば
               Rocky Mountain NP, Yellowstone NP, Grand Teton NP の旅
               SF からNapa, Sonomaをとおり、Old Sacramento, Lake Tahoe, Mono Lake, Yosemite NP, Lone Pine から Death Valley NP,そして Las Vegasというコース。

コロラドのDurango から Silverton へは Narrow Gauge Railway 汽車が走っていて、往復一日のたび、私は日本からの友人とこのDurangoを中心としたすばらしい旅を実行したことがある。
Durango-SilvertonDurango 汽車の旅、Durango-Silverton-Ouray-Ridgway-MontroseBlack Canyon Of Gunnison National ParkGrand Junction, Colorado National MonumentUtah Arches National Park, コロラド TellurideCortezMesa Verde National ParkDurango というループ。これはものすごく美しいScenic Drive で Million Dollar Highway といわれたり、 San Juan Skyway といわれたりして、海抜3300メートル以上の地点をドライブする。

またコロラド内部の別のルートとしては、Colorado Springs から Pikes Peak という4300メートルの山にドライブして登るか、Cog Rail で上るかするコース、これに Rocky Mountains National Park をくわえ、I-70 でEisenhower Memorial Tunnel という海抜3600メートルの高さを走る立派なトンネルを越えて、Glenwood Springs (ここにOK牧場の決闘で有名な Doc Holliday の墓がある)経由 Grand Juction に入り、南に下って Montroseから Black Canyon Of Gunnison NP を見て、Dallas Divide 経由、Telluride, Cortez そして Mesa Verde NPDurango, Pagosa Springs からAlamosa にでて、Great Sand Dunes NPを訪問、Salida から Canon City へゆき、Royal Gorge Route Train をArkansas River にそって楽しみ、Pubelo から Denver にもどるというDenver周辺を基点としたColorado Big Loop のルート。これはコロラドの4つのNational Park 全部を訪れる旅でもある。

アリゾナ Tucson 周辺。
               Arizona Sonora Desert Museum これもVery Good
               Mount Lemmon Scenic Highway
               Tucson周辺は Desert Island といわれるが、その理由がよくわかる。
また、有名なLife Zone というアイデアが見事にわかる植生の変化を味わえる。
そしてもちろんTucsonWest と Eastに広がる Saguaro National Park.

               Flagstaff周辺も魅力にとんでいる
Grand Canyon には2時間、Sedona へは1時間足らず、Sunset Crater National Monument へは20分ほど。 Walnut Canyon へは15分ほど。ほかに Wupatki NM や Tuzigoot NM, Montezuma’s Castle NM など Indian Ruin に興味を持つ人には欠かせない旅といえる。Flagstaffの目の前にそびえる San Francisco Peaks は Dr. Hart Merriam が Life Zone のアイデアをつかんだ大事な山-1889年。アリゾナの自然の中でそういう発想が可能となった。山の高度の違いによって植生が目に見えて異なることから、すみわけ理論とでもいえる植物の適応の実態についてまとめた理論で、その後、修正改良されて温度だけでなく水分も考慮に入れてLife Zone を考えるようになった。

アリゾナ        Show Low、 Big Lake、 SpringervillePinetop 周辺
私の大好きなアリゾナの領域で毎年何度かこのScenic Driveをエンジョイしたものである。
高度2700-2800メートルのところに広がる大草原と湖、森林、世界最大のPonderosa Pine の原生林を擁する地域である。ここには Escudilla Mountains という Aldo Leopoldo がSand County Almanac で記している、アリゾナ最後のGrizzly Bear が捕獲された山がある。

               New Mexico なら Albuquerque を出発点として、Jemez Springs から Valle Grande National Preserve, そして Los Alamos の Bandelier National Monument、そして Santa Fe にはいり、Old Palace、 Canyon Street などを見て、Taos へ。Taos Puebroの世界遺産と最高峰 Wheeler Peak の周囲80マイルの Enchanted DriveRio Grande Gorge Bridgeを見て、Albuquerque に戻るというコース、など。

アメリカは広大でそれぞれ目的に応じて、さまざまな旅を企画することが可能である。

紅葉黄葉の旅 (Aspenの黄葉、Maple の紅葉は見事)
SL,汽車の旅 Durango-Silverton, Cumbres-Toltec,その他。
ワイン Tasting の旅
西部劇の舞台を巡る旅 (Billy The Kid の墓、 Geronimo の舞台、Tombstone など)
同じく 西部の Ghost Town を巡る旅
Southwest を巡る旅
               Albuquerque, Santa Fe, Taos、 Gallup など、
Indian Ruin をたずねる旅
Colorado一週の旅
SouthwestFour Corner周辺 を味わう旅。 Four Courner, Monument Valley, Canyon De Chelly National Monument、 Mesa Verde National Park、そして San Juan Skyway Loop にそった Ouray や Tellurideの街。

Colorado Plateau を巡る旅             Utah の Zion NP や Bryce Canyon NP、 Capitol Reef、 Canyonlands、 Arches とこのPlateauに5つの National Park と Escalante NMがあり、ひとつのまとまったコースとしてセット可能。

California West Coast の旅
Sierra Nevada East を味わう旅
California North を味わう旅 (Lassen Volcanic NP はおすすめ)
Ski Tour も考えられる。 以前、知り合った夫妻はスキー旅行にわざわざアメリカにきて、満足して帰ったが、かれらは出発前にアメリカのスキー会社で下調べをしてUtah のスキー場が最高だという情報を持ってアメリカにわたり、それを確認して帰った。

Arizona には Birder訪問のメッカといえる場所がいくつかある。 Ramsey Canyon, Madera Canyon,、 Cave CreekPatagonia-Sonora Creek, San Pedro River など。 テキサス Big Bend National Park も400種類かのBirdがみられるとかで、私はその理由を考えたが、国境にあり、ドライな空間を飛翔するBirdにとって Rio Grande その他の水源と森林は水とえさの捕獲と休養と言う意味で貴重だから、Birdもあつまるのだろうという結論に達した。

New Mexico 唯一の National Park である Carlsbad Cavern NP はその世界一大きいといわれるBig Room で有名だが、おすすめはBatこうもりの夕方の飛翔をみること。これは見た人でないとわからないといえる。近くのホテルに泊まってみるだけの価値はあった。近くには Guadalupe Mountains National Park があり、テキサスの屋根とかいわれ、私は何十回となく訪れ、私は最高峰Guadalupe Peak2667メートル) だけでも7回も登山した。アメリカの登山の本にも骨が折れるが見事なすばらしい登山と記されている。ここの Mckittrick Canyonの秋の紅葉は有名で、テキサスで一番美しいといわれている。このふたつのNPにさいはてのNP Big Bend National Park を組み合わせることは、国境の町 エルパソで始めて可能である。エルパソから5時間半のドライブ。3時間のドライブでMarfaにつく。Marfa は1950年代の映画 Giant (Elizabeth Taylor、 James Dean、 Rock Hudson)が撮影された街であり、同時に Marfa Light で有名。運がよければこの Marfa Light を見ることができる。これも見た人でなければどういうものかわからないといえる。

アメリカ、テキサスとメキシコの国境に位置するBig Bend NP は独立した死火山系Chisos Mountains を中心に、Rio Grande をボーダーに、そしてDryな砂漠の中に設けられたNational Park でSanta Elena Canyon など500メートル近い断崖がメキシコ ボーダーをつくっていて、Rafting も有名。Basinにはほかの国の旅行客が多かった。最高峰 Emory Peak 登山ではフランス語その他の外国語を耳にするほうが多かった。外国では有名なのかもしれない。Birdingの団体客を見かけたこともある。

Texas El Paso から San Antonio に向かって走ると、途中で Hill Country という見事な自然の領域に入る、あちこちにState Park があり、自然の湧き水が清流を作って、Los Angeles やエルパソ周辺のドライな川を眺めた後では感激するほどである。この Hill Country, FredericksburgSan Antonio, Austin, Waco, Dallas - El Paso というかたちでLoop をとることも可能。

こまかく書き出せばきりがないので、この辺でやめることにする。興味がある人にはフリーでアドバイスをさしあげます。

4・25・2007

32 “経済封鎖をめぐって”〔政治と歴史〕                                                        村田茂太郎

昨年〔1985年〕末のウイーンやローマで発生したテロリズムに対して、アメリカのレーガン大統領はリビアの最高指導者カダフィ大佐が陰で操作していると判断し、カダフィによるテロ対策として、国交断絶・経済封鎖の方針を固めた。レーガンは、他の自由主義諸国にも、アメリカ政策に協調するように訴えたが、結果的にはアラブ近隣諸国の団結を固め、アメリカが孤立するような形となっている。アメリカの力を過信した、”経済封鎖“などという、戦術を軽々しく行使した結果である。

自由貿易が基体となっている現代社会において、一国が政治的な理由で輸出入を禁止しても、当該国は痛くもかゆくもないのである。数年前、アルゼンチンとイギリスとの間で起きたフォークランド紛争の際にも、“経済封鎖”が適応されたが、貿易相手国がアメリカからソ連にかわっただけであり、個別的には痛手があったかもしれないが、戦争相手国への政治政策としては、ほとんど効果は無かった。

“戦争論”の著者クラウゼヴィッッによれば、“戦争は政治の継続である”。従って、戦争の中の一戦術或いは戦略として、政治的な“経済封鎖” が行われても、誰も文句は言えない。ナポレオン戦争の渦中に巻き込まれ、“戦争”について“哲学”したクラウゼヴィッッが、戦争は、別な手段による政治であるという結論に達しても、少しも不思議ではない。なぜなら、彼は天才ナポレオンの巨大な政治政策としての“大陸封鎖令”が実施され、それが、ナポレオン自身のその後の運命と如何にかかわっていくかを、つぶさに眺めることが出来たからである。

大陸封鎖令(Blocus Continental, Continental System)は、ナポレオンによって、まず、ベルリンで発せられた。1806年のことであり、従って、ベルリン勅令(Berlin Decree)といわれる。フランス革命の落とし子といえるナポレオンが、革命政府がイギリスに対して出した経済封鎖の政策を、より大規模に実現しようとしたものであった。しかし、もちろん、フランス一国での封鎖は瞬間的には効果があるように見えても、最終的な目的達成はむつかしい。

陸上では、天才的な常勝将軍として、自信満々であったナポレオンも、目の上のコブともいえるイギリスに対しては、どうすることも出来なかった。1798年にネルソンの指揮するイギリス艦隊がフランス海軍をアブキール湾で打ち破って以来、ナポレオンは挽回のチャンスを狙っていたが、1805年のトラファルガーの海戦で、またもやネルソン提督の指揮するイギリス艦隊に壊滅的な打撃を被ってしまった。これによって、イギリス上陸の夢は永久になくなったのであった。

ナポレオンは、その後、革命戦争とも征服戦争とも呼ばれるナポレオン戦争に没頭し、最終的には、イギリスとサルジニア・シシリー島を除く全ヨーロッパを征服したのであった。セント・ヘレナに流されたナポレオンは“もし成功していたら、私は歴史上、最も偉大な人間として知られることになったであろう”という文言を墓碑銘として択んだ。
16年にわたるナポレオン戦争における死者は百万人を超えたが、不思議にナポレオンの魅力は消えなかった。ナポレオンとはじめて会ったゲーテは感激してしまい、“”あなたこそ、人間である“という意味深長な言葉を発した。(ナポレオンのように政治・軍事に天才的な能力を充分発揮して、はじめて<人間>として充分であり、普通の人は未完成という意味であったのだろうか。)

主著のひとつ“精神現象学”を完成した大哲学者ヘーゲルも、その頃、イエナ戦役でプロシアが敗れ、自分が勤めるイエナ大学が閉鎖されるというイヤな目にあったにもかかわらず、馬上のナポレオンの姿を見て、感激したのであった。

ナポレオンが単に政治的・軍事的に天才であっただけでなく、文学的にも天才であったことは、今では周知の事実である。スタンダールははやくからそれを認め、パスカルと同様、ナポレオンの文章はコンパスの先端で彫り刻んだようだと賞賛したのであった。人間的な魅力もすごかったのか、大西洋の孤島、セント・ヘレナまで、家族連れで付き従った将軍も居た。

“もし、成功していたら”果たして、ナポレオンが思うとおりになったかどうかはわからない。ナポレオン戦争の副産物としての諸国での改革が急速に進み、大衆が革命に立ち上がる社会が生まれてきつつあったからである。しかし、もちろん、“失敗”は必然であった。そして、その種は、“大陸封鎖”の考えにあったのである。

経済封鎖を最も有効に働かすためには、対戦国を完全に孤立させねばならない。当時、イギリスは七つの海を支配し、ユニオン・ジャックの旗は世界中の、どこの港にもはためいていたのであった。海上権でイギリスに完敗したナポレオンは、経済封鎖こそ、イギリスに打撃を与える最後の手段であると信じた。イギリスは貿易でなりったっているような国であったからであり、わずかではあるが、1793年のフランス革命政府の行った経済封鎖が瞬間的にイギリスを困惑に陥れたのを知っていたからである。

ナポレオンはイギリスを経済的に打倒しようと目論見、そのためには、イギリスに対抗できる一大ヨーロッパ帝国を確立するほかないと思ったに違いない。ともかく、ほとんど完全に孤立させなければ効果はないのである。ナポレオンはヨーロッパ各地を征服し、自分の兄弟をそれぞれの国の王として統治させた。オランダ王、スペイン王、ナポリ王といった具合に。そして、その事によって、この大陸封鎖令が実際に効果を発揮すると信じた。そして、それは、確かに効果はあった。しかし、経済封鎖は両刃の剣であるといえる。ヨーロッパ諸国に対して、イギリスとの通商を禁じた結果、イギリス本土も経済的にかなりの打撃を被った。しかし、ナポレオンの支配下にあったヨーロッパ諸国も手痛い打撃をこうむったのであった。重要な穀物輸出の道をふさがれたロシアは、とうとう、公然と封鎖令を破って、イギリスと通商を始めた。1811年のことである。

ナポレオン独裁のヨーロッパであったので、封鎖令も徹底されていたが、裏では密輸が半ば公然と行われていた。それにしても、ロシアをそのままにしておくこともできず、ナポレオンは大軍を率いて、ロシア遠征に出発した。ナポレオンはモスクワを占領したと思ったが、それはロシア軍の作戦であった。トルストイの“戦争と平和”は、この出来事を扱っている。ボロジノに続く、べレジナ河の戦いでナポレオン軍は大半を失い、そしてそれは、他のヨーロッパ諸国に独立のチャンスを与えた。無敵の伝説が破れたのである。ライプチヒ諸国民戦争からワーテルローへと、今度は、対ナポレオン戦争がつづき、最終的にナポレオンはセント・ヘレナに骨を埋めることになった。

このようにみてくると、ナポレオン戦争の正体は、対イギリス戦であり、その実効としての“大陸封鎖”こそ、彼の征服戦争の成功を支えていた精神的支柱であり、また同時に、彼の没落の原因であったということがわかる。それゆえ、どうして、彼の大陸封鎖令が成功しなかったのかを、よく吟味する必要がある。

まず、制海権を握っていたイギリスを完全に孤立せさることは始めから不可能であった。そして、完全に孤立しなければ、経済封鎖は本当に効果を発揮しない。それは丁度、軍事上の、籠城と包囲作戦にあたる。完全に遮断してしまえば、降伏も時間の問題であるが、抜け道がある限り、包囲作戦は効果を発揮しない。大陸封鎖令で打撃を被ったのは、ヨーロッパ諸国であった。ナポレオンによって武力で征服され、仕方なく、命令に従ってはいるが、ナポレオンがあまりにも支配を強め、内政に干渉していったため、ナポレオン帝国の内部で反抗の意識が強く働きだした。

1806年のベルリン勅令のあと、イギリスに対する影響はあまりあらわれなかったが、1807年のティルジットの和約で、ロシアとプロシアを制した結果、イギリスに対するプレッシャーは強まり、仕方なく、イギリス政府は“中立国の船”を使うよう指示を出した。それに対して、ナポレオンは、更に、“ミラノ勅令”を出し、“中立はない”と通告した。この時点で、イギリスの経済はかなり沈滞し、このまま行けば、政府も転覆するのではないかと思われた。ところが、その時、ナポレオンはスペイン・ポルトガルの征服に乗り出し、兄弟の一人をスペイン王に据えたのであった。当時、スペイン圏は南アメリカに大きく領土を獲保していたが、それら海外のスペイン・ポルトガル系国家は、ナポレオン支配を認めず、それまで守っていた封鎖令を破り、イギリスに門戸を開放したので、やっと、イギリスも息がつけるようになった。

ナポレオンが大陸封鎖の決意を固めたとき、彼の頭の中には、世界産業の中心をイギリスからフランスに移そうという考えがあった。また、同時に、海上権を支配するイギリスの暴力的な政策で、これまで苦労をなめ続けてきたヨーロッパ諸国をイギリス支配から解放しようという狙いもないわけではなかった。大陸封鎖などという、敵にも味方にも、苦労と困難を強いる政策を効率よく適用するには、それらの困難に報いるだけの報酬が必要であった。ナポレオンがヨーロッパ全土での自由貿易を目指していれば、ナポレオンに征服された諸国の人々の反応ぶりも、また違ったものになっていたかもしれない。ここで、ナポレオンが失敗したのは、ただ、その政策を“フランス一国のため”に限定し、他の同盟国にもその利益を享受させなかったことであった。そして、イギリスの経済力に対する過小評価もまた、失敗の原因の一つであった。

イギリスは、丁度、歴史的な産業革命の時期を迎えていた。イギリスのリバプール卿は、ワットが亡くなった時、“蒸気エンジンがなかったら、イギリスはナポレオン戦争に生き延びることは出来なかったであろう。”と言った。フランスと異なった産業社会を構成していたイギリスは、ナポレオンが期待したようには動かなかった。彼は経済危機が社会危機を生み出し、政変につながると考えていたが、大陸封鎖は、逆境を生み出したことによって、イギリス民衆を結束させてしまった。彼らは、困難に耐えるだけの力を生み出したのであった。

さて、こうしてみると、戦争の一戦術としての“経済封鎖”が成功するためには、ほとんど完全に孤立させることが可能なこと、相手国が貿易に依存していること、(自給自足不可能なこと)、経済封鎖から生じる困難に対する見返りが、同盟国に適用されること、密輸をなくすことが、ほとんど最低限として必要なことである。

ところで、現代世界を眺めてみると、アメリカ圏(これは、いわゆる自由主義諸国が含まれるが、単純にアメリカに同調していないことは、今回のアメリカのリビア政策に対する各国の否定的見解を見ても、わかる)、そしてソ連圏、第三世界と大きく分けることが出来る。ここで、アメリカやイギリスが経済封鎖を試みても、成功するはずがないのは、この世界構成から見て明らかである。経済封鎖は完全に孤立させなければ意味はないのに、一国やその同盟国が封鎖に加わっても、反対の国からは、いいチャンスとばかりに救援に出られてしまうのである。現に、フォークランド紛争では、アルゼンチンの主要輸出産物は、ソ連によって買い取られるという結果を生んだ。

従って、現代世界のような構成のもとにあっては、経済封鎖などは意味がないのである。また、戦争意識としても、大国が経済封鎖を行えば、相手国は結束して、どんな困難にでも耐えようとするであろう。封鎖で参ったから、許してくださいなどという結果には絶対に到達しないのだ。

アメリカのすべての対外政策についていえることは、大国意識から、力で誇示し、解決しようとする傾向があることだ。しかし、アメリカにとって不利なことに、どのような小さな国でも、もし、アメリカが力で解決しようとすれば、そのチャンスを狙っているソ連にすべての利益をさらわれる可能性が、ほとんど、現実的に存在していることである。

経済封鎖は政治的効果は少ない割には、巻き込まれた部分の末端にまで与える影響は多きい。大統領のいい加減な決断一つで、リビアを強制的に退去させられる会社も家族も迷惑がっているに違いない。もう少し、歴史認識を深め、最も有効な政策を採るように努力すべきであって、思いつきの発想は政治指導者は慎まねばならない・
〔完〕
1986年1月26日 執筆

(補記)
このエッセーは、ベルリンの壁崩壊以前、そしてソヴィエト旧体制崩壊以前に書かれた。
“経済封鎖”に対する考えはかわっていないが、“ソ連”はなくなり、アメリカ、ロシア、中国、ユーロ、アラブ諸国、その他、という世界体制にかわったので、ソ連と書いてある部分はそれなりの調整が必要である。
ムラタ 2008年

33 “船旅への想い”                                                                  村田茂太郎

倫理学者・哲学者和辻哲郎の著書に“風土”がある。これも私は受験勉強中の参考書でその断片に出会ったわけだが、その断片だけで、その著書全体に興味を持ち、高校時代に購入して、すぐ読了した。文庫本のような手軽に手に入る本ばかり買っていた私にとって、岩波書店の箱入りの本は高くついたが、ともかく、無理してでも手に入れたいと思わせるような本であった。これは、私がはじめて読んだ哲学書であり、デカルト研究といった解釈学的哲学史的研究書ではなく、自分の体験を省察して書いた、すぐれてオリジナルな思索の書であり、地味ではあるが、興味深く、印象に残る本であった。後に、この本はユネスコから、日本の生んだすぐれた哲学書の一つとして、英語やほかの外国語に翻訳されたことを知った。そして、このような、すぐれた書物への関心をかきたててくれたのも、受験参考書にほんの1-2頁載っていた断片を精読したからであった。この書を読んだのは私の高校時代であり、その後、25年、一度も読み返していないが、私には、たしかにポイントをついていると思われたものであり、時々、考え直してみる。

和辻は、自らの船旅による外国旅行の印象を、ギリシャ的明晰な思考とか、モンスーン的アジア的思考とかといった思考のパターンと関連させて考えたようだ。自分の体験を哲学化したわけであり、単なる解釈に終わらない、すぐれた独創性が認められる。そして、私も、たしかにそのようなことは言えるかもしれないと考えたものであった。地中海的ともいえる岡山から京大に来たクラス・メートが、京都は暗くて好きになれないなどと言っているのを聞いたり、ギリシャ的な乾いて透き通った、明快な世界に関する小林秀雄の“ギリシャの印象”を読んだりしたとき、私は風土が、そこに住む人間の発想や思考形態に独特の形式を与える事も大いにありうると感じたものであった。たとえば、イギリスのダートムーアかどこかの、霧濃い村で育つのと、アテネの白く明るくすみきった世界で育つのとは、全く異なった人間が生まれて当然だと思われる。いつも霧のようなものに全体が覆われて曖昧な輪郭しか見えないような世界に住んでいると、すべてを明快にハッキリと区切ったり、わけたりするような思考は生まれにくいに違いない。

このような、“風土”の違いに着眼した思考を和辻哲郎がとりえたのは、ひとえに彼の船旅の体験とそのときの強烈な印象のせいである。現代のように、飛行機で目的地に直ちに到着するのと違って、日本からフランスへ行くのにも、東南アジア、インドやアラビアを通って、一二ヶ月かけて行かねばならなかったことが、逆に、各寄港地の風土や慣習の違いを、より印象付け、考えさせたのである。

私は今のところ、外国としてはアメリカの西海岸しか知らないが、いつか機会があれば、ゆっくりと世界中を見て廻りたいものだと思う。今、世界では政治的に不安定で、無事生きて帰れるかわからない国もあるが、やはり、自分の目で各国の各民族の生活ぶりや気候・風土を知る事は、自分の思考内容を遥かに豊かなものにしてくれるに違いない。
アラスカ・クルーズとかメキシコ湾クルーズとかといった豪華客船によるレジャーの船旅もあるようであり、いつか私もやってみたいものだと思うが、今のところ、余裕も何もない。フロイトとユングがいっしょに大西洋を船で渡り、毎朝、お互いの夢を披瀝しあって、今では歴史的といえる彼らの体験を生んだのも船旅の成果であったことを思えば、船旅への想いが強く湧き上がってくる。

今、読んでいる、辻邦生の“パリの手記 (1)”(海 そして変容)も、彼が三年半のパリ留学に向かう船旅の記録からはじまっていて、香港や上海やベトナムやインドの印象が次々と述べられている。私は和辻哲郎も、ヨーロッパ留学に向かう船旅によって、各国の個性的な印象を鮮明に感じ取り、彼の後年の思索の素材を蓄積したに違いないと思う。
現代のジェット機によるスピーディな旅行はそれなりに長所もあるが、何か大切なものをなくしてしまったように思える。辻邦生の親友である北杜夫も“どくとるマンボウ航海記”によると、のんびりと漁船に乗って、船旅をし、各地を見てまわったようであるし、その間の膨大な時間を、トーマス・マンの“魔の山”に没頭することによって、楽しく充実した時を過ごせたと書いていた。

私は単調な海よりも山の方が好きだが、気候が異なる地域を順番に見て廻る船旅は、一度はやってみたいものである。広大な空間と時間の中を横切っていく船旅は、人類の歴史の重みもひきずっており、あまりにも都会化し、機械化し、文明化してしまった世界に住んでいる私達に、古代の人類達への郷愁を呼び起こしてくれるに違いない。

国語の受験参考書を思い起こしていると、その中で知った和辻哲郎の“風土”が思い出され、今から考えてみると、それが私が始めて接した本格的な哲学書であり、そして、今でも覚えているくらいに納得させられたことがわかった。そして、“風土”の衝撃を与えたのが、船旅であった事を思った時、私は現代の性急な交通手段のよさを認めると同時に、牧歌的ともいえ、ある意味では激しさを伴った船旅が、観光船以外ほとんど不可能な事を残念に思ったのであった。

(完                 記 1986年3月20日) Word Input 2010年7月26日


34 一字の漢字・まとめ

 私は中学一年生の国語の最初の時間には、必ず、“一字の漢字”をていねいに書いてもらう事にしている。これは、私自身にとっての楽しみのためであるが、生徒諸君に漢字というものに対する興味と愛着をもってもらいたいためである。
 漢字には、アルファベットにはない、すばらしい魅力がある。それは、内容と形式とを兼ね備えた美しさを持っている。それは、仮名の起源でもあり、書道の核心を形作っている。一字一字の漢字には無限の思い、ひとつの宇宙がこめられていると言ってもいいすぎではない。仮名と漢字を併せ持った“日本語”は、世界でも最も美しく、すばらしい言語のひとつといえる。
 今日ここで、諸君に書いてもらう漢字。それは、諸君の最も好きな、最も大事な字でなければならない。今、真剣に考えて書いたその字を、一生覚えているくらいに、真剣に、誠実に、えらんで書かねばならない。そうすることによって、諸君は、ふだん何気なくつきあってきた漢字の持つ美しさ、すばらしさ、不思議さ、魅力を再発見するであろう。
また、今後の学習の出発点を自分で確立することが出来るかもしれないし、人生そのものに対する姿勢を確立できるかもしれない。字は個性を表わす。下手でもよいが、出来るだけていねいに、そして正確に書こう。参考までに、いくつかをあげておく。ここにない字を書いても良い。
真、善、美、誠、忍、幸、福、徳、富、和、命、生、友、明、戦、遊、愛、知、学、克、寛、情、哲、豊、楽、哀、人、勇、恵、旅、金、力、魂、勝、運、天、地、海、空、父、母、祈、文、疑、朝、昼、夜、静、動、春、夏、秋、冬、読、書、言、聞、教、輝、喜、苦、笑、願、水、火、信、円、朗、政、徹、貫、涙、英、明、我、時、栄                              など。


                                                           


私が十二歳の時に、京都のあるお寺を訪れた。十三参りとかで有名な寺だったらしく、そこの僧侶から、好きな字を一字書けと、筆と紙を渡された。しばらく考えてから、私はていねいに一字を書いた。お寺では、毎朝仏壇で唱えるとためになるとかという経文をくれたので、しばらくの間、スグに全部暗記して、毎朝、唱えていたが、そのうちにやめてしまい、忘れてしまった。しかし、この一字のほうは、今でもハッキリ覚えている。どんなにつまらないようなことでも、真剣に考え、真剣にとりくんだものは、一生覚えているという一つの証明のようなものである。
私は十二歳の時に訪れたお寺で、“学”という字を書いた。“学問”の“学”、“学ぶ”の“学”である。私がこういう字を書くほど、学問がすきであったのか、こういう字を書いてしまったために学問が好きになったのか、私の半生は、学問の探求、或いは自己の哲学の探求という形で過ごしてきてしまった。今だったら、私はどんな字をえらぶだろうと自分に問いただしてみる。誰か、“笑”を書いていた人がいたが、すばらしい感性を持っていると思う。私もあの当時、“笑”を択べるほどであったらと思う。“忍”という字も好きだ。当時の私に、“愛”など、思い浮かばなかったのはたしかだ。
かつて、“信”を書いた生徒は、それに関して、すばらしい作文を書いてくれた。幕末の新撰組が択んだ字は“誠”であった。“和”といえば聖徳太子が、“心”といえば夏目漱石が、“母”といえば、ゴーリキーの小説が浮かんでくる。漢字一字とはいえ、過去の歴史と文化、そして個人の思い出が豊富につまっているわけである。
このように、漢字一字を択ぶだけでも、その人の、そのときの関心や姿勢や性格が表わされているようで、とても興味深い。すべての人間は知情意の三つの面を備えており、人それぞれ、そのどれかが強調されていたりして、個性の違いが現れ、人生を複雑で、興趣豊かなものに仕立てているが、その時点で、何を選ぶかという点にも、その違いがあらわれて面白い。
漢字は一字一字が、それぞれ計り知れないほど、深い意味を秘めている。それは、形式と内容だけでなく、歴史も秘めており、無限の面白さを含んでいる。漢字には、アルファベットに無い個性があり、漢和辞典で調べ始めると、時間の経つのも忘れるほど興味深いものである。
私は、諸君が、これを機会に、辞典を活用して、漢字の持つ意味と歴史・文化、その面白さ、深さを更に追求していってくれることを切に願っている。(1983年―1993年)

まとめ 〔クラスの生徒の書いた一字〕七年分
勝3、信2、美2、友2、忍2、笑、誠、克、情、英、輝、宇 (旧中一の二)
愛、福、幸、勇、善、希、魂、哲、文、遊、海、絵、暖、休、我、由、議(中一の三)
愛3、生2、友2、楽2、和、清、喜、静、豊、鎖 (中一の一)
楽3、生2、誠、笑、忍、希、愛、春、寒、貫、富、信、命、水、心、友、涙、空 〔中一の一〕
忍2、円2、誠、紅、恵、優、美、勝、福、富、和 〔中二の一〕
生2、美2、心、動、静、絵、金、英、人、聡、健、水、貴、数、陽、龍、鸞、犬(小六)
明2、美、友、愛、幸、忍、家、人、福、命、光、風、恵、治、浜、喜、夏、犬、能、誕、八、ナシ4 〔中一の一〕 おわり


35 旅の思い出―野中の清水       村田 茂太郎

アメリカから日本を訪問するというので、姉夫婦は紀州温泉旅行を計画してくれた。姉のおかげでというよりも、クルマで案内してくれた義兄のおかげで紀州の熊野や湯の峰などあちこちを訪れることが出来た。その二年前にも友人のドライブで十津川峡谷・谷瀬のつり橋や川湯温泉、瀞八丁、那智の滝、新宮、勝浦その他を楽しむことが出来たが、義兄はそのときには訪れなかっためずらしい場所へつれていってくれた。今も懐かしく思い出せる、素晴らしい旅となったわけである。

それは、丸山千枚田、湯の口温泉などであるが、特に心に残ったのは「野中の清水」であった。ふつうの観光では気がつかないようなところで、いわゆる観光バスでは多分来られないと思った。義兄も地元の人に路を確かめながら、わき道からのぼって、ほそい道をドライブして、たどり着いたところが「野中の清水」であった。

ここは江戸時代から既に有名であったのか、俳人服部嵐雪の句碑や斉藤茂吉の歌碑などがあり、由来が書かれていた。二月中旬のことで、付近の家の瓦屋根やわらぶき屋根に雪が残っていた。きれいな清水がわきでて昔から有名で、その証拠にこの周辺には皇室が訪問したという記載があったり、すぐ後で述べる茶屋のおばあさんとの会話でわかったのは、某首相夫妻も訪れたとか。一方杉とかで鳥居もあり、それなりに知られた場所なのである。

わたしに心地よい記憶をとどめることになったのは、名水「野中の清水」そのものでなく、その横にあったわらぶき屋根の茶屋とそこをひとりで仕切っていたきれいなおばあさんのせいである。「野中の清水」でつくったコーヒーとだんごを所望したが、その茶屋のまえの眺めといい、付近の静かな、昔をおもわせるたたずまいといい、古き良き日本がここに健在していると示すものであった。

おばあさんは八十歳を超えているとのことであったが、着物を着ればすごい美人で似合うだろうと思うほどで、おばあさんを囲んでさまざまな話になったが、わたしがアメリカから来たと告げると、十年ほど前、彼女は着物姿でアメリカ旅行をしたという。さぞかし、ふじやま芸者ガールの日本美人ということで人気があったでしょうと、笑いあった。おどろいたことに彼女の知的好奇心はたくましく、記憶も鮮明で、立松和平のはなしや中上健次そして京大の山中教授の開発した万能細胞に及ぶまで、なんでもよく知っていた。

丁度、桃の節句もちかく、畳には大きな各種のひな壇が飾られていた。欄間には額がかけられていたりして、確かめたところ、平櫛田中の絵はホンモノだとか、ここにあるのはみなホンモノですよとおばあさんは笑いながら説明してくれた。そこから、某首相訪問のことがでて、夫妻がここをおとずれて、よほどおばあさんが気に入ったのか、郷里に帰ってから、自分で詠んだ歌を筆で書き額に入れて送ってきてくれたとか。このわらぶき屋根の茶屋のまえには短冊と書き物が用意してあり、訪れた人は俳句を書き残していくということであった。わたしも記念に書き記しておこうと紙をとって、二首、腰折れ俳句を書きつけた。姉が聞かせてくれというので、詠み上げた。名前とロス・アンジェレスとだけ記入して投函しておいた。

眺めよし 昔しのばむ 野中茶屋
山青く 心さわやか 茶話の時

俳句よりも短歌のほうが、より感情を盛り込めると思ったが、ここは俳句会の領域のようであったので、わたしも俳句だけにしておいた。

茶屋の前には谷を挟んだような形で対岸の山が雪をとどめて青黒くやさしく横たわり、おだやかな、見事な風景であった。花の季節ではなかったが冬でも様になる光景であった。わたしはもう一度訪れたいと思ったが、日本で、自分で、こんな細い道をドライブなどとても出来そうにないし、義兄をもう一度わずらわせるわけにもゆかないので残念ながらこれが最後だろうと、日本のよさを残したこの「野中の清水」訪問に満足してつぎの場所に向かった。あとで、日本地図帳にも「野中の清水」と載っていたので、本当にここは有名なところで、知らないのは私だけだったのだと確認した。有名なのは当然で、ここは熊野古道に属したのだから、熊野参詣の旅人に憩いの茶屋として親しまれたに違いない。日本のよさがまだまだ保たれているのを見出して、わたしはうれしかった。日本は自然に恵まれた本当に美しい国だと思う。いつまでもこの見事な自然が残っていって欲しい、いや残さねばならないと思う。

36 マリア処女懐胎神話の崩壊をめぐって 

 キリスト教の信者でなくても12月のクリスマスは子供たちが楽しみにしているのを知っている。マリアがJesusを処女のまま懐胎し、産んだというのは、まさに神話の類に属するが、世界宗教の中でオスとメスの結合による受精なしで子供を産んだという神話は、多分、キリスト教だけである。Muhammadのイスラム教でももっとまともな扱いをしている。したがって、日本で偉大な宗教学者が沢山出たが、みなこの神の子イエス、母マリア処女懐胎という話をどう解釈するかで、まじめに悩んだはずである。新約聖書にはさまざまな奇跡がしるされ、まさにJesusGodであることを証明しているような記述であるが、どうやらすべて説明可能なもので、一見、Godの超能力とみえるものも、実はカトリックが権力を築いていく過程で生み出したものであったということが、このDr. Barbara Thieringのいくつかの本を読むとよくわかる。まさにこの彼女のいくつかの本はキリスト神話を解体する破壊力を持ったものである。

Dr. Barbara Thieringの Jesus The Man はOriginally Titled as “Jesus & the Riddle of the Dead Sea Scrolls” であった。Hard coverの内側に彼女の本が何を解体したかについて簡単にまとめてある。

1 Jesus was born into the royal priestly line of strict Jewish sect at Qumran, not Bethlehem
2 was born out of wedlock in a betrothed, and thus , officially “virgin” woman
3 did not die on the cross but was drugged and later revived in the burial cave
4 married twice and fathered three children
5 as a hated outcast, befriended the poor, the sick, women, and gentiles and rejected the harsh legalism of his sect
6 performed no miracles

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 私はマリア処女懐胎などはカトリック教団のねつ造で、生物学的に、高等動物であるメスはオスとの生殖行為無しに受胎不可能であるから、マリアの受胎は、もし夫との間に性関係が成立していなかったのなら、強姦されたにちがいないと思っていた。無性生殖はごくごく下等な生物だけだからである。そして誰も必要がない限り、私は強姦されて妊娠したとはいはない

 1947年、偶然、死海文書が死海のほとりの洞窟から発掘され、Essenes教団の実態があきらかにされて、はじめてこの処女懐胎という神話が崩壊した。もちろん、この発見がなくても聖書を注意深く読めば処女懐胎に関する矛盾があきらかなのであるが、これはスピノザが旧約聖書のMosesに関して矛盾をみつけて、God神話のねつ造を自分で了解した(そしてスピノザはユダヤ人社会から生涯廃絶され、無神論というよりは汎神論者として、独創的な偉大な哲学者として生きることになったのだが)のと同じで、隠蔽・ねつ造しようとすると必ず矛盾がどこかに現れるから、別に慌てるほどのことでもないが、死海文書の解読から誰もが実態を知ることになり、カトリックたちが神話を創造したのが明らかになったわけである。どうやら原始キリスト教団もそしてJesusその人もその神話創造に関係していたらしい。

 エッセネ教団は厳格な戒律のもとに運営されていて、もともとセックスも結婚も禁止・拒否するような団体であったらしいが、Jesusの父Josephはその教団のまじめな一員であった。

 Essenesでは教団員は、本当はCelibacy禁欲でNo-sexであるべきだが、JosephAuthenticにユダヤ一族があがめまつる、かの有名なKing David一族の正統の後裔で、その場合、後継者を生まなければならないという義務が発生する。

 Essenesの結婚に関する規定では、婚約者は長期間CelibacyNo-sex、半年から時には3年後に初めて結婚式が行われ、ただ受胎のためにSex行為を行い、3か月で受胎が確認されたら、もうNo-sexという今の現代の若者にはとうてい耐えられない夫婦関係が行われていたという。そして、JosephMariaも若く、正式の婚約は成立したが、結婚式を挙げる前に性関係を持ち受胎した。これは生まれた子供Jesusにとっては大きなHandicapとなり、周りはみんな知っているため、BastardとかMan-of-a Lie とかWicked Priestとかと後程呼ばれたようである。そしてSaul(Paul)JesusIllegitimate  Childであることを知っていた。不倫をしたわけではないが正式に結婚が成立する前の子供なので不義の子供とみなされ、Joseph Mariaが正式に結婚してから生まれた(AD 1Year)弟のJamesDavidの正当な光栄であると思う人もいて、弟もそう思っていたようである。JesusBC7 March1stに生まれたとか。12月のクリスマス神話はまさに神話。

 婚約は成立したが、まだ結婚式を挙げていない男女がまちきれずに性関係に入り受胎すると、まだ結婚式を挙げていないから法的にVirgin、そして法的にVirginの状態で受胎すると、まさにVirginのままで受胎したということで処女懐胎ということになる。これはEssenes教団あるいはその周辺ではわかりきった、ありふれたことであったのだが、カトリック教団はGod神話を創設するために神の子を受胎したー処女懐胎という具合に事実隠蔽・神話ねつ造を行ったわけである。

 ルネサンス期までの絵画を見ると、処女懐胎とかの神話をテーマにしたもの(受胎告知など)でいっぱいで、バカらしくてまじめに見ていられないほどである。もちろん絵画技術的に天才たちが苦労して想像しながら描いたということなのだが。イタリア・ルネッサンスから目を移してDutch Mastersつまり17世紀 オランダ周辺にあつまった天才画家たち(レンブラント、フェルメール、フランス・ハルス、ヤン・ヨーステンその他)の日常生活を主題にしたすばらしい絵画を見るとホッとするのは私だけではないだろう。(Great CoursesDutch Masters) Pasadenaの有名なNorton Simon Art Museumの地下にある宗教画の画廊に来ると、私たちは見ないで素早く通り過ぎるのがつねで、この神話崩壊を知ったあとは、それでよかったのだと納得する。

 以上の情報(処女懐胎)はBarbara Thieringの本による。

 Dr. Barbara ThieringにはJesus The Man という最初に出版された驚くべき内容を含んだ本のほかに、Jesus of the Apocalypse (The Life of Jesus after the Crucifixion)という本並びに The Book that Jesus wrote John’s Gospel という本がある。彼女はAustraliaの宗教学の博士で、ずいぶん大胆な学者である。出版当時、Darwinの 種の起源 が世の中に与えた影響と同じくらい大きな影響を与えるのではないかという書評がでたほどで、私もこの本が本当のことを書いてあるのなら、確かにうそで固めて、歴史上、ヒットラーやスターリン以上に残虐な殺戮を繰り返してきたカトリックの教団を崩壊させるほどのImpactを保持すると思う。中世に起きた残虐なアルビジョワ十字軍の悲劇を思い浮かべればその犯罪性は歴然としている。

 Dr. Barbara ThieringによるとJesusが生まれたのはBC7年の3月1日だとのこと。だから12月25日のクリスマスに生誕云々は当然、神話の類にぞくすることになる。そしてAD33年3月20日 40歳の時に十字架の刑に処せられた。ここまでは事実である。ところがJesusは十字架上では死ななかった。最初、服毒を拒絶したJesusは6時間、十字架上にあって苦痛に耐えきれず、「神よ、私を見捨てたのか」と叫び、毒をくれとせがんだ。そこでJesusに毒を与えたが、これが特製のもので、いったん死んだように見えて、地下に運ばれてから意識を回復するという特効薬だったようである。結局、Jesusは十字架上で死なず、AD64年までは、つまり70歳を超えるまで生き延びて、Mary Magdaleneと結婚し、子供を産み、のちほど離婚もしたとか。伝説では手だけでなく足にもくぎを刺されたことになっているが、事実は手に刺されただけで、十字架から解放され、よみがえったJesusはしばらく休養をとったのち自分で歩けるようになったとか。ルネッサンスの絵画は当然のことだが、皆、画家の想像で描いたもので、見るに堪えない。オランダで日常生活を描く絵画が興隆するようになったのは、当然のことながら、我々にとって幸せなことであった。

 AD64年といえばローマは悪逆な皇帝ネロの時代で、ローマ炎上をクリスチャンのせいにし、まじめなクリスチャンたちを様々なかたちで虐殺していた時である。PeterPaulも迫害から逃げようとしたが、Jesusはお前Peterは最初の私との契約で、どんな悲惨な事態が起ころうと逃げないで身に引き受けるといったではないか、ローマに帰れと追い返してしまったらしい。ひどい話で自分は十字架にかけられたが部下たちのおかげで生き延びたのに、まじめな部下二人には殉死しろといったそうで、実際、二人の最高のクリスチャンはみじめな死を遂げた。本当なら信じられないようなヒドイ話である。PeterPaulは最も有能な部下であったはずで、今後の活躍が期待されたはずである。

 すべての秘密はEssenes教団の占めるQumranの洞窟に隠されていたわけで、ロマの軍隊も気づかず、そしてローマ・カトリックの教会組織も気づかなかったわけであった。
 死海文書にはPesher Techniqueと呼ばれる、いわば暗号解読法を身に着けてはじめて解明されるような記述がなされていた。

 Essenes教団について最初にまじめな報告を行ったのはPast-life Hypnosisで有名なDolores Cannonであった。 “Jesus and The Essenes は1992年に出版され、あきらかに影響を持った本であった。「The Essenes」という本をあらわしたStuart Wilson & Joanna Prentisは著書の冒頭でDolores Cannonに特別に感謝の意を表明している。またTricia McCannonもその著「Jesus― The explosive story of the Lost 30years and the ancient Mystery Religions」という本の中で(P.37) Her remarkable bookと記して少し内容を紹介している。

 Jesusは十字架上で死なず、少なくともAD64年までは生き延びたということで、Dr. Barbara Thieringによれば、Jesusはいわゆる4福音書の作成にも関係し、特にヨハネの福音書は自分で書いたようだという。

 のちにPaulと名を変えたSaulが有名なDamascusの路上でJesusにであったという話も、死んで再生したJesusにであったのではなく、本物に出会ったということで、Jesusが十字架上で死ななかったということの例証になるらしい。

 さて、Jesusの活動は、もし十字架で終っていたとしたら、彼の40歳に至る3年間ほどがエルサレムで活動した時期だということになり、それではそれ以前の約30年間はどこで何をしていたのかと誰もが疑問を持つ。したがって、その研究もいっぱい行われているわけで、Elizabeth Clare Prophetという女性は「Lost years of Jesus -Documentary evidence of Jesus’s 17year Journey to the East」という面白い本を書き、Jesusはあちこち旅行し、インドはもちろんチベットまで訪問し、どうやら仏教の影響を大きく受けたらしい。そしてアジア方面だけでなくイギリス方面まで旅行したという話である。(17Yearsというのは13歳から29歳まで。)

Dr. Barbara Thieringの「Jesus The Man」についてThe Australian Magazineは次のような評価を与えている。これはすばらしい。私もこの本が反キリストの書だとは思わない。キリスト神話を剥奪して、ひとりの天才宗教家の姿を大衆が親しめるような自然な姿で描き出したものと思う。

Some will see her as anti-Christ, a mischievous scholar determined to destroy Christianity. To others she will be a source of comfort and peace enabling to the Christian lives without having to accept as fact Jesus’s divinity, his miracles, the virgin birth and resurrection. 」 The Australian Magazine

村田茂太郎 2019年1月6日 執筆 / 加筆 1月7日

参考文献 Books by Dr. Barbara Thiering

Jesu the Man     ISBN: 978-1-4165-4138-7   originally in Great Britain
Jesus of the Apocalypse                ISBN: 0-385-40559-6    London
The Book that Jesus wrote – John’s Gospel           ISBN: 0-552-14665-X




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