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5/27/2014

「心霊現象の科学」をめぐってー余談 「臨死体験」談をいくつか読んで


「心霊現象の科学」をめぐってー余談 「臨死体験」談をいくつか読んで

 わたしは最近、つづけて3人のAfterlife体験談(臨死体験談)を読んだ。20世紀の偉大な哲学者のひとり、フランクフルト学派の代表といえるアドルノに関する浩瀚な伝記620ページをやっと読了し、また日本人の書いたすぐれたニーチェ研究書の第一部を読了して、すこし休憩したいと思い、臨死体験に関する本をいくつか買ってあったのを思い出し、取り組むことにし、読みやすいので、たてつづけに三冊すぐに読了したわけであった。

 死んで生き返ったこれらの三人は、みな熱心なクリスチャンであり、どうしてもSpiritualな体験が聖書的な人物とまざってしまうようで、本人がそうだというのだから、そうだろうととるしかないが、クリスチャンでないひとだとどうなるのかという興味がわく次第である。東洋世界ではトンネルのかわりに三途の川があり、青い芝生の天国の変わりに、仏説阿弥陀経が描く蓮の花などが見事に咲き誇る極楽浄土が展開されるわけで、日本の臨死体験者がどのような“あの世”を体験したのか知りたいと思う。

 この三冊の著者のひとりは、溺れて死んでイエス・キリストに迎えられ、まだ時期ではないと生き返り、ひとりはペテロ(Peter)に迎えられ、Gateまで案内されてBook of Lifeには記載されていないから、まだやることが残されていると生き返り、もうひとりは、すばらしい天国の有様を見て、もうこのままここに居たいと願ったのに、やはりやることがあるはずだと地獄の苦痛が待っている病床にもどされて、本当にどうにもならない苦痛をなめながら生きるわけである。

 これらの本を読んでいて気がつくのは、祈りPrayerというものが、本当に効果があるということで、18Wheeler Truckにぶつけられて車が大破した事故に遭い、プロのParamedicたちが死んだとみなしていたのに、たまたま居合わせた牧師が熱心に祈りをささげ、歌もうたっていると、相手のSpiritにつたわり、天国で歌を聞きながら自分も歌いだしているようになったとき、死んだはずの男が歌を歌いだしたので、相手の男は彼が生きているのを知り、本格的な救助作業にうつるわけで、もしこの男が祈らなければ、救助には手遅れになっていただろうと思わせる、真に祈りの効果を確認させるような出来事であった。

 そのとき、死んでいたはずの本人はこの祈った男が自分の手をつかんだと感じて、力強い生命力をわきたたせたのであるが、あとで、事実として、この祈った男が彼の手をつかむことは不可能なことであり、しかも男はだれかが確実に手を握り、そこから生命力を感じたというのだから、これは誰の手であったのか(いうまでもなくGodにちがいないということになる)。

 臨死体験談は一様にトンネルを通過すると別世界がひらけていたとか、Life Reviewとかさまざまな共通した体験をすることで有名であるが、このなかのあるひとはトンネルをとおらないで、いきなり別世界に居たり、Life Reviewもなかったりと、人によって、状況その他によって、違いがあるようである。

 花火の好きな男は、天界でみごとな花火のような光景を目撃し、ほかの人と明らかに異なった展開の情景を描出しているわけで、これはその個人の生活史を反映した光景が展開されるように思えてくる。つまり、個人個人にあった、ふさわしい天国が展開されるようである。

 共通していえることは、たしかに、この臨死体験者たちがあの世に着いたとしか思えないのは、故人との再会であり、それは既に亡くなった家族のものや親戚、そして親友や親しんだ教師、流産したはずの子供などが、若々しい健康な姿で今死んだはずの男女を迎えに現れるという話である。この事実が、この臨死体験が妄想や夢想・空想などではなく、確実にAfterlifeの存在を示してくれているといえる。

 もうひとつ気がついたことは、みな本当に死んだような状態に長い間いたのにもかかわらず、生き返って、ほとんど精神的には正常な状態の人間に回復することで、ふつう心肺停止から何分以内に蘇生させないと、生き返っても脳細胞がDamageしていて、普通の状態にはもどらないなどといわれているが、これらの話の臨死体験者は10分どころか、1時間以上とか死んだ状態で、それでもよみがえって正常に生き返るのである。

 そこで、既に紹介した心肺移植を経験したClare Sylviaの話(心臓・肺提供者の記憶や体質を共有する)や、これから紹介するRupert SheldrakeMorphic Resonance Theoryなど、人間の記憶装置は単に大脳の記憶部に依存しているだけでなく、記憶データはもっとどこかほかのところにしまわれ、大脳は丁度TVのように再生装置に過ぎないといえるのかもしれない。それでなければ、Akashic Recordの話や、誰かMediumその他の超能力者があるひとの個人史にアクセスするというようなことが起こり得ないわけで、そういう、たとえばEdgar Cayceのような超能力者の異常な展開がおこりえるということが、記憶は大脳辺縁系に依存していないということを考えさせる。

 ともかく、臨死体験者はみな生き返るようにGodsから指示され、送り返されるわけであるが、その本当の理由は、どうやら一般の人に天国の存在やSpiritsが別の次元で生き続けていることを伝えることによって、もっとこの地上での生活にプラスになるような影響があらわれるだろうということらしい。

 ひとりはものすごい痛みを感じながら1年以上も寝たきりの病院生活を続け、ひとりは百万人に一人の奇病を生きながらえ、その体験をあるひとびとに語ることによって、周りの人々に希望を生む働きをするわけで、結果として、私が読み終わったこれらの本が書かれることになったわけである。

 臨死体験はどれも似たものだろうと思って読み始めるのだが、みなそれぞれ違った生活史をもち、ちがった臨死体験をするようで、なかなか面白く、かつ教訓的である。

 また、臓器移植に関して、提供者の脳死が死亡の基準になっているが、もしかして、まだ生き返る可能性があったのかもという印象がこれらの臨死体験談を読むと生まれてくる。臨死体験をしたひとは、それぞれ脳死状態などを経て死んだとみなされて、しかも生き返ってくるわけで、そのとき、死者はOut of Bodyの状態で、周りの状況を見ており、脳は活躍していないはずなのに、意識も記憶も保持しているということは、やはり、大脳というのは再生装置で、記憶も意識も別な次元ではたらいていると考えざるをえないというか、まだまだ人間の意識も記憶も解明されていないということなのかもしれない。

 私は「心霊現象の科学」をめぐってーその91 で  Mary  C. Neal, M.D.の「To Heaven and Back」を紹介し、その92 で Don Piperの「90Minutes in Heaven」、その93 で Marvin J. Bestemanの「My Journey to Heaven」を紹介する予定である。

 

村田茂太郎 2014年5月27日

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